第四話 鍋焼きうどん
金曜日の夜から頭が痛い。生理前は頭痛がしやすいので、いつもの事だと甘く見ていたら、夜中からガンガン痛みはじめ、熱が出てきた。
これは、いわゆる風邪だろう。
美帆は夜中、体温計を見ながらため息が出る。鼻も詰まり初めてきた。眠れない。
動画サイトでは鼻詰まり対策も公開されている。美帆はそれを見ながら、ペットボトルを脇に挟んだり、ツボを押したり、ストレッチをする事にした。
美帆は一応女子高生だが、鼻水垂らしながらツボをゴリゴリ押す姿は、おじさんっぽい。こんな姿は決して誰にも見せられない。
動画のおかげか、鼻詰まりは良くなり、ぐっすり就寝。
翌朝、まだ熱はあった。頭痛と鼻詰まりは和らいでいたのだが、喉は少し痛い。
両親は発熱中の美帆に驚き、避けるように実家に帰ってしまった。実家といっても家から三分ほどの近所に住んでる母方の実家だが。
仕方がないのかもしれない。母は接客業、父もテレビのニュースばかり鵜呑みにしている人だ。感染症対策も必要以上にやっていた。いわゆるコロナ脳だ。
今は五類になっていたが、三年前に両親が大騒ぎしていた事を思い出す。父は何日も食糧を買い込み、本当に引きこもっていた。仕事もリモート化し、部屋から出てこなくてなった。
一方、母も勤め先の飲食店が自担営業になったり、店長が陽性ぬなったり大変だったらしい。店に嫌がらせの電話がきたり、チラシを撒かれたりして、地獄のようだったと振り返る。
当時の事を思い出すと、娘が軽い風邪を引いただけでも敏感になる気持ちはわかる。気持ちだけはわかるのだが。
やっぱり露骨に避けられると涙が出そやう。というか出る。
好きで体調不良になったわけでもないのに、バイキン扱いされたようだ。「汚いもの」と指さされているようで、涙が止まらない。
最近、友達の理沙も風邪を引いたようだが、母に「うつさないで」と言われた時は、ショックだったらしい。後の母とは和解できたようだが、この感染症対策騒ぎは、度が超えていたんじゃないかと言っていた。
その通りだと思う。
今は理沙の気持ちがよくわかる。理沙が風邪を引いた時は、軽い気持ちで励ましていたが、実際その立場に立つと、暗い気持ちになる。心が冷える。ただでさえ、体調が悪くて辛いのに。
「おい、美帆。大丈夫かよ」
一人で泣いていると、兄が部屋に入ってきた。いつもはノックもせずに勝手に部屋に入ってくるのが腹がたつが、今は怒る気にもなれない。
兄は八つも上で歳が離れている。仕事は編集者。しかもオカルトや都市伝説関係の雑誌や書籍の編集や取材もやっていた。最初は出版社の中でもお荷物部署に行かされた事を「配置ガチャ失敗して」と嘆いていたが、今は楽しんで仕事をしているらしい。特に2020年、感染症騒ぎの時は、仕事でどっぷりとオカルトにハマってしまい「コロナは茶番派」になってしまった。
こんな兄に両親は嘆き悲しんでいたが、本人はいたって普通だ。天然塩、ハーブ、にがり、味噌などの自然派食品にもハマり、あれ以来一度風邪も引いていない。むしろメキメキと元気になっている。「馬鹿は風邪を引かない」という言葉もあるらしいが、兄には当てはまっているんじゃないかと思う。
「大丈夫じゃないよ」
「まあ、とりあえず。にがりでうがいしても?」
「そんな自然派民間療法なんてしたくないし」
兄は心配しているだろうと思う。それでも八つ当たりしてしまう。
「いいから、いいから。ツボだと思ってやってみろよ。ふっ」
何がおかしいのか。兄は薄ら笑いを浮かべながら、にがりを差し出す。
呆れてきた。泣くのも馬鹿馬鹿しく、一応にがりでうがいをする。
「あれ? 喉の痛みはないか?」
元々喉はそんなに痛くはなかったが、にがりでうがいをしたら、少し良くなってきた気がする。にがりは原液ではなく、水で薄めた。味ももったりと不味く、兄はよくこんなものを口に入れられると思う。
「いいか。コロナは茶番だぜ」
うがいをした後は、リビングの食卓で兄と食事をした。
兄が鍋焼きうどんを作ってくれた。大きな土鍋に味噌風味のうどんが入っている。具は鶏肉、白菜、ネギ、ニンジン、生姜など冷蔵庫にある余り物を適当につっこんだ感じだ。いかにも男の料理という感じで彩は完全に無視されている。ただ、湯気が出るほど温かく、うどんはツルツルで美味しい。見た目は悪いが兄と一緒に食べていると、汗だくになってきた。顔の汗をタオルで拭く。汗が出てきたら、もうすぐ治るだろう。
「茶番って、なんで世界中でそんな事しているの? 意味ないじゃん? そもそも一般庶民になんでそんな情報漏れてるの?」
兄のくだらない話にも、とりあえず耳を傾ける。
「それは後に起こる戦争の為だ。変なルールを作って国民を従わせる実験、あるいは練習。なぜか疫病騒ぎの後は飢饉、戦争って続く。聖書にもその型が書いてある」
「そんな陰謀論じゃない。私は信じない。こじつけだよ。妄想だよ」
「信じるも信じないのも、美帆次第さ」
「えー?」
はぐらかされた気もするが、うどんは美味しい。意外と気がきくようで、小鉢にうどんも取分けてくれる。
最後に生玉子を落とし、おじやにもしてくれた。ふわふわ玉子と味噌の甘辛さがよく合う。
「これを食ったら治るだろ」
兄は笑顔で言う。
こんな変人の兄だが、いつもより優しいのは確かのようだ。
「人口削減っていう噂は本当なの?」
「あは、興味はあるかい?」
「別にないけど。聞いてあげてもいいよ?」
「では、この世の支配者が何を企んでいるか話そうではないか」
兄の話ははっきり言ってつまらないが、こうしていると気も紛れてきた。
もう泣きたい気持ちは消えていた。むしろ、ちょっと笑いたいぐらいだ。
「という事で人口削減の目的もあり、この騒ぎは茶番だったというわけさ」
バイキン扱いする人り、兄の方がまともじゃないかと思ったりもする。少なくとも今は、両親より兄の方がまともじゃないかと思ったり。
風邪は案外長引き、復帰できたのは三日後だったが、気づくと兄の優しさに救われていると思う。もっとも両親はこの間一回も帰ってこなかったが、友達の理沙や東子も見舞いに来てくれた。もう涙を流す必要も無いだろう。
そして復帰して後の放課後。学校からの帰り道、野良猫とすれ違った。
モフモフの毛が長い猫だ。冬の季節はこのぐらいモフモフしていた方が暖かいだろう。
『感染症騒ぎなんて茶番よ。バイキン扱いする人は愛は無いわね』
え?
野良猫が喋った?
鈴を転がしたような可愛い声だったが、猫が何かを話すわけが無い。
おそらく聞き間違いか、夢でも見ていたのだろう。
「にゃ」
うん、鳴き声も普通に猫のものだ。猫が話すなんてあり得ない。
「お兄ちゃんに天然塩か味噌でも買ってかえるか」
家の近くには、セレブ向けのスーパーもある。確かあそこには、意識の高い塩や味噌も売っていたはずだ。
美帆はそんなものは特に好きではないけれど、兄は喜ぶかもしれない。
元気になったお礼として買っても悪く無いだろう。
相変わらず兄は仕事にのめり込み、変な方向に行っているが、風邪は引いていない。風邪を引いた美帆とも長時間一緒にいたのに、何のダメージも受けていない。
馬鹿は風邪を引かない。
この言葉は、本当かもしれない。しかし、確固たる証拠もない。信じるか信じないかは、あなた次第。