第二話 うさぎ林檎
娘の理沙が風邪を引いたらしい。今朝、真っ赤な顔で起きてきた。いつも元気で優等生の理沙。珍しい事だった。理沙が子供の頃でも、仕事でどうしても休めない時も元気な子だったが。
いつも通り、朝の忙しい中だった。レンジで野菜を温めながら、フライパンで目玉焼きを作り、ホットサンドメーカーでパンを焼いていていた。
つい、こう言ってしまう。
「ちょっと、うつさないで」
悪気はなかった。母親である麻里子だが、一人娘を大事にしている。つい、ぽろっと酷い言葉が溢れ落ちてしまった。
夫は数年前、事故にあって亡くなった。以来、麻里子は一人で父親の役目もしていた。いわゆる母子家庭、シングルマザーだ。
麻里子は保険の営業職をしていたが、決して余裕があるわけでも無い。娘の理沙は成績優秀だった。とある私立の女子高に通っていたが、成績優秀の為、学費は全額免除されていた。私立ではこういうシステムもあるらしい。元々キリスト教系の学校という背景もあるらしいが。
「お母さん、もう会社行ってくるからね」
正直、風邪ぐらい大した事ないと思う。麻里子は、慌ただしく出勤し、その途中で学校にも連絡しておいた。
担任は田所宗という男性教師だった。ちょっと頼りなく、いまいち信頼は出来ないタイプだが。
「お大事になさってください。理沙さんは勉強熱心ですからね。本当に無理なさらないように」
電話ごしに気遣う言葉ももらう。
田所先生の優しい声をきいていたら、今朝の娘への態度はなかったかもしれない。
オフィスにつき、仕事をしているが、上手く集中もできなかった。
子供の頃、風邪を引いた時の事も思い出す。
「麻里子、林檎切ったよ。これはビタミンCが豊富だから、よく噛んで食べるのよ」
風邪を引いた時、母によく林檎を切ってもらった。風邪を引いた時だけは特別のウサギの形にしてくれた。いわゆるうさぎ林檎だ。
躾に厳しい母だったけれど、この時だけは優しかった事も思い出す。林檎のしゃくしゃくとした食感、蜜のような甘さと共に。
もっとも大人になってからは、うさぎの林檎を剥いたら、意外と簡単で、普通の皮を剥くより楽じゃないかと思ったが。
そんな事を思い出していたら、今日の娘への発言はよくなかったと反省する。いくら朝が忙しく、感染症が流行っていたとしても言っていい言葉ではなかった。
風邪なんて誰でも引く。感染症だってそうだ。どんなに気をつけていても100%ではない。それに「どこからウィルスに感染したか」なんて証明でできない。訴えたとしても勝ち目は無いだろう。ウィルスだけでなく、本人の免疫力や普段の生活態度も風邪を引く原因になる。
もう仕事は全く集中できず、午後から有給をとる事にした。
比較的主婦など女性も多い職場なので、こんな理由でも有給は取りやすい。男性の多い職場や理解のないところは、子供の風邪が理由で休むと悪口を言われたものだが、今はそんな事はない。恵まれていると思う。
昼過ぎに会社を出ると、最寄りの駅まで直行し、駅前のスーパーで買い物をする。確か理沙は玉子が好きだったそ、それでスープでも作ろう。玉子は最近値上がりしているが、平飼いのいいものにする。
それに果実コーナーへ行き、ツヤツヤな真っ赤な林檎も買う。
夫が生きていた頃も、よくこんな果実を買った事を思い出す。結婚前、夫が風邪を引いた時のうさぎ林檎を切って食べさせら、かなり喜ばれた事も思い出す。
逆に私が風邪を引いた時も夫にうさぎ林檎を作って貰ったっけ。
「普通に林檎剥くより簡単だったぜ。可愛いだろう?」
うさぎ林檎をドヤ顔で見せてくれた。
もうあの林檎を食べさせて貰う事は二度と無いだろう。麻里子も人の親になった。
そう思うと、少し寂しいが娘に作ってあげる事が出来る。今はそんな役目なのだろう。親とはそんなものかもしれない。
うさぎ林檎や玉子スープの効果かは知らないが、翌日、娘はすっかり元気になっていた。軽い風邪だったようで感染症などではなくホッとした。力が抜ける。
必要以上に娘の事が心配だったらしい。やっぱり娘は大きくなってもいつまでも赤ちゃんみたく見えるものだ。
「うん? 何?」
出勤途中、猫と目があった。もふもふな真っ黒な猫。首輪はしていないので野良猫のようだ。
「みゃああ」
「ごめんね。忙しいからね」
黒猫は懐いてきたが、今は出勤途中だ。急いで駅の方へ向かう。
昨日は全く集中出来なかったから、取り戻さないと。麻里子は父親の代わりもする必要がある。いつまでも休んでいたらそれも出来ない。
さて、仕事だ。
麻里子は前を向き、歩いていた。
『ふふふ、元気になった?』
どこからか声がしたような気がしたか、聞き間違えだろう。麻里子はいつもの日常に戻っていった。