ザフロンディに向けて
ヘンドリックは城で過ごした日々を置いて、お忍びの時に使う質素な馬車にリディアと二人乗り込んだ。そうして誰にも見送られずに出発した。
いきなり変わってしまった環境は現実味がなく、どこかフワフワと覚束なく夢うつつに感じられた。
明日からの生活は今日までとは違う。重くのしかかっていた王太子としての責任と覚悟から解放されたんだと思った。そして、それが逃げだとは考えたくなかった。
ヘンドリックは動き出した窓の外の風景を眺めながら、これからのことに思いを馳せた。好きな女性と一緒に、自由で希望に溢れた生活が始まるのだと。それらを楽しもうと思った。
リディアは向かいに座るヘンドリックを嬉しげに見つめた。素敵、素敵!!国で一番の男の人よ!優しくて格好良くて、素敵な素敵な王子様!アンジェリカ様じゃなくあたしが手に入れた、あたしのもの。誰よりも素晴らしい未来が待ってるはずよ。とっても楽しみだわ!と。
「ねえ、ヘンドリックさまぁ、あたしを幸せにして下さいねぇ?」
「ああ。リディ、約束するよ。それと…そうだね、これからは様はいらないよ。ヘンドリックでも、ヘンリーでも、好きなように呼んでくれないか?それに敬語も必要ない」
リディアは頬を赤く染め、嬉しそうに頷いた。
「はい、じゃなくて、うん?ねえ、どっちで呼べばいい?」
「どちらでもいいよ」
「じゃあ、ヘンリーって呼ぶね。王妃様と一緒。ヘンリー大好きよ、あたしの王子様」
「ああ。私も愛してるよ、リディ」
ヘンドリックはリディアの手を取ると、その甲にキスをした。リディアは頰に手をあて嬉しげに身を捩る。
「さて、リディ。これからの大まかな日程だが、今日は王都の隣ヴィッティン公爵領のカヤンドウで、明日はジュウリンジで宿を取るつもりだ。明後日はソワソン子爵領のホーラク、そしてノマ伯爵領のイノソ、ヴェラヘラで泊まろう。ノマ伯爵領の次はエイト子爵領で一泊、グレース男爵領を抜けてアルトワに入ろうと思う」
「うわぁ、楽しそう!ねえ、今日泊まるカヤンドウってどんな所なの?」
「そうだな、確かヴィッティン公爵領は歴史が古く、王都だったこともある土地だ。古い教会や遺跡も多く、観光地としても人気がある所だ。酪農も盛んで食事も美味しかったな。賑やかだぞ。まあ着くのは夜になるがな」
「ヘンリーは行ったことあるの?」
「ああ、ウィリアム達とお忍びでな」
「ああん、あたしも行きたかったぁ。でもいいわ、今から行くんだもん。楽しみぃ!早く着かないかなぁ」
「三時間程で着くはずだよ。ここ数日は色々と大変だったろう?横になって休むといい」
「ありがとう、ヘンリー。そうね、緊張しっぱなしだったから疲れちゃった。少し寝るねぇ」
リディアは荷物を枕にして目を瞑ると、あっという間に寝息を立てた。
疲れていたんだなと可哀想に思ったが、安心しきった寝顔を見ると、ヘンドリックは胸が温かくなった。
御者のジョバンニが壁をコツコツと叩いた音でヘンドリックは目を覚ました。窓の外を見ると、賑やかな大通りを走っている。リディアの寝息を聞いているうちに、自分もいつの間にか眠ってしまったようだった。
「旦那様、カヤンドウに着きましたよ。宿はいつものカリブー亭でいいですね?」
「ああ、お前の部屋も含めて交渉してきてくれ。私はリディと二人、一番いい部屋を頼む」
ジョバンニはカリブー亭の前に馬車を停めて宿へ入っていった。その間にリディアを起こしてジョバンニを待つ。
「旦那様、部屋が取れましたんで降りてくだせい。荷物は後から持って行きますんで」
ヘンドリックはリディアをエスコートして、案内と共に部屋に向かった。最上階の見晴らしのいい部屋で、窓からは賑やかな大通りが見渡せる。ちょうど夕飯時で、通りは人で溢れていた。
「リディ、夕食は宿で食べて、その後町を散策するかい?」
「うん、それでいいわぁ。あたしお腹ぺっこぺこ。早く食べに行こう?何食べようかなぁ?」
リディアは早く早くと言いながらヘンドリックの手を引っ張り、一階にある食堂へ降りて行った。
「リディ、何か食べたいものはあるかい?それとも私が適当に選んでいいか?」
「ヘンリーにお願いするわ。でも名物のものがあれば、それが食べたいなぁ」
「わかった。すまんが、ここの名物をコースで頼む。飲み物はリディは果実の発泡水、私は発泡酒をいただこう」
通りがかった店の者を引き留めて注文をしていると、ジョバンニが荷物を部屋に運んだと報告に来た。
「ご苦労。明日は昼前にここを出て、町を観光してから次の宿に向かおうと思う。そのつもりで頼む」
「へえ、わかりました。では明日お待ちしておりますんで」
ジョバンニは頭を下げて下がった。
ヘンドリック達は飲み物で乾杯し、次々に運ばれてくる料理に舌鼓を打った。
「ねえヘンリー、ここの料理とっても美味しいわぁ。あたし野菜のテリーヌも、ベーコンと根菜のトマト煮も、キッシュも牛のワイン煮も、デザートのラムレーズンのチーズケーキまで…全部ぜーんぶ好きよ。特にお肉が柔らかくて最高に美味しかったわぁ。舌が蕩けそうよぉ」
「フフ、喜んでくれて嬉しいよ。食後に店の外を見て回らないか?面白そうな店がたくさんあったよ」
「ええ喜んで!ふう、美味しすぎて食べ過ぎちゃったぁ」
リディアは満足げにお腹をさすり大きく息をついた。二人は席を立つと腕を組み、人で賑わう夜の繁華街をブラブラと歩いた。大通りには土産物や雑貨、色んな食べ物や飲み物を売る屋台、安価な宝飾品を売る店などが所狭しと並んでいた。リディアは目についた店に片端から入って行った。
「ねえ見て見てぇ!このペンダントかわいい!」
リディアが手にしたのは小さなタンザナイトがトップのシルバーのペンダントだ。店の明かりに透かすように翳して見ている。
「ねえ、この色、ヘンリーの瞳の色と一緒よ。パーティーの時に貰った宝石と似てるの。綺麗!」
「そうかい?欲しかったら買ってあげるよ」
「本当?この町に来た記念に欲しいわぁ。ねえ店主さん、このままつけて帰りたいの。い〜い?」
「ええ、もちろん宜しいですよ。お二人さんは新婚ですかな?仲睦まじくて羨ましい。それにお二人共、宝石も霞んでしまうような美男美女で。いやあ、眼福ですなあ。お揃いの指輪もありますが一緒にどうですか?お安くしますよ」
金縁の眼鏡をかけた初老の男性が、ニコニコと愛想笑いを浮かべて声を掛けてきた。リディア達の服装から上客と判断したのか、ショーケースから青い宝石の指輪やらブレスレット、イヤリングなどを次々と出して勧めてくる。
「青い宝石でしたらサファイアがお勧めですよ。この指輪は町の人気作家の作品でして、デザインもカットも素晴らしい逸品です。このアクアマリンの色をご覧下さい。いかがですかな?それにこのフローライトの淡い青、ドロップカットが素晴らしいでしょう。そうそう、このアイオライトは珍しい物でつい先日入荷したところなんですよ。うちの商品はどれも最高品質のものばかりでして。ハッハッハ」
「フフ、新婚ですってぇ!やぁだ、照れちゃうわぁ」
リディアはヘンドリックに腕を絡めると、嬉しそうに笑いかけた。ヘンドリックもそうだねと笑顔で応える。
「リディ、ここはペンダントだけでいいよね。それぞれの町で一つずつ揃えていくのはどうだい?
「ええ!それってぇ、次の町でも何か買ってくれるの?」
「ああ、欲しいのが見つかればね」
「素敵!道中の楽しみが増えたわぁ!パーティーの事やお城での嫌なことも全部忘れられそうよ」
リディアは頰を紅潮させ、手を叩いて喜んだ。
ヘンドリックは支払いを済ませると、リディアの背後に立ちそっとペンダントをつけてあげた。
「似合ってるよ、リディ。ねえ、これからもずっと、リディには私の色をつけて欲しいな」
「フフ。ヘンリーったらぁ、案外独占欲が強いのね」
「自分でも気がつかなかったけど、そうみたいだね」
またのお越しをお待ちしていますと声をかける店主に礼を言うと、幸せそうに寄り添い合って店を出た。
「そろそろ宿に戻ろう」
ヘンドリックに言われ、リディアは後ろ髪を引かれつつ宿に戻ることにした。
先に湯浴みを終えたリディアは、宿が用意した夜着を身につけると、窓辺にあるテーブルにお茶の用意をして座った。
濡れた髪を大雑把に拭きながら浴室から出てきたヘンドリックは、リディアの向かいに座って一口お茶を飲んだ。
何気なくテーブルに置かれたリディアの手に、ヘンドリックは自身の手を重ねた。そして自分より小さな手をギュッと握りしめた。
「リディ、すまなかった。卒業記念パーティーも参加させてやれなかった。本来ならリディには別の未来があったかもしれない。私が望んだばかりに後ろ指を指されることになってしまった」
「いいのよ、ヘンリー。あたしは学園で王子様と素敵な恋をしたの。まるで物語みたいな、ね。誰に何を言われてもあたし、この恋を諦めることはしたくなかった。好きよ、大好き!ヘンリー、あたしの王子様」
ヘンドリックは手を握ったまま立ち上がり、リディアの側に行くと、その手を優しく引っ張って立ち上がらせた。抱きしめるとシャボンの香りが鼻腔をくすぐる。ヘンドリックは心臓がドクドクと大きく音をたて、体は火がついたように熱くなった。自然と抱きしめる腕に力がこもる。
リディアが苦しそうに身を捩るのを感じ、ヘンドリックは力を緩めて身を離した。
「ヘンリー、苦しいのぉ。お願い、優しくしてぇ」
リディアは本当に苦しかったのか、少し涙目になりながら訴えた。ヘンドリックはすまないと言って、リディアの顎に手をかけ上を向かせると、そっと触れるだけの口づけを落とした。
「リディ、私にはお前しかいない。私はお前を選んだんだ。地位も、富も、決められた未来も、何もなくなった。だが後悔する生き方はしたくない。私はリディを幸せにすると誓おう。だからリディも、私を幸せにして欲しい」
リディアはキョトンとした顔でヘンドリックを見上げた。
「あたしが、ヘンリーを幸せにするの?」
「ああ。私を絶対に裏切らないでくれ。否定しないでくれ。私を、見捨てないで欲しい」
「ええ、もちろん!そんなこと考えたこともないわ。だって、格好良くて頭も良くて、強くってなんでも出来るしぃ、きっと町でも女の子達からモテモテよ!あたし、そっちのが心配だわぁ」
ヘンドリックはリディアをギュッと抱きしめ、耳元でありがとうと囁いた。そしてもう一度情熱を込めてキスをした。