花祭り〜ヘンドリックの苦悩2
ヘンドリックは海の彼方へ目を向けた。陽の光を反射してキラキラと輝き、空と交わる辺りまで光の道が横たわっている。
遠い昔に父と視察に来た時の、初めてこの海を見た感動を思い出した。どこまでも広がる海の青は、穏やかで光り輝いていた事を。
大型船が入港すると、沖に停泊する船との間を小型船がひっきりなしに往復して、荷物や人を運ぶのが遠目から見えた事を。
異国情緒に溢れ、雑多で活気があり、様々な人種が通りを闊歩する港町。ヘンドリックが初めて見た、心躍る「自由」の象徴のような町。
善政を敷き、民から慕われる父の背中を見て、父のような王になりたいと思っていた。
父母のように、互いを尊重し支え合える女性と結婚するのだと思っていた。グレアムと力を合わせて、この国を導いていきたいと願っていた。
そして学園でリディアと出会い、身分差のない国を彼女と二人で作りたいと考えた。リディアの話を聞いていると改革出来る気がした。それが国の未来にとって最善だと思えた。
「ハハッ!特権階級としての恩恵を受けている私達王族や貴族が賛成するはずもないのに、なぜ簡単に作れると考えたのか」
今となれば、斬新な考えに魅了され、自分の力を過信して浮かれていたとしか思えない。
「私の思考や行動の全てが浅慮だった」
ヘンドリックはリディアと共に生きると決めてから今まで、甘い微睡の中で過ごした日々を遠く感じた。何も知らず何も考えず、世界にただ二人だけの、幸せな時間だったのだと。
城を出て、平民として過ごした数ヶ月間を振り返ると、今まで経験した事のない仕事や生活がもの珍しく、やりがいや楽しさを感じていたと気づく。自分のためだけに長い時間を使ったのは、もしかすると初めてだったのかもしれない。
二人だけの生活は甘く穏やかで、喜びに満ちていた。
仕事を始め関わる人が増えると、リディアが変わったように感じた。私を頼りにする可憐な少女ではなく、エマと争ったりサイラスに意見する逞しい姿や、他の男と馴れ馴れしく接しているのを見るにつけ戸惑いが生じた。
「いや、馴れ馴れしいのは学園の時からだったな。私の側近達にもそうだった。屈託のない性格だと思っていたが」
ヘンドリックは苦笑した。冷静に考えれば、リディアのスキンシップの多さ、誰にでも愛想を振りまく姿は好ましくないはずなのに、当時は寂しさの反動だろうと思っていた。
だが実際は女友達がいず、手玉に取りやすい男達をそばに置いていただけなのかもしれない。そういえばグレアムに「男好きだ」というような嫌味を言われてた気がする。
「私は本当にリディが好きだったんだな」
私は自分の都合のいいよう、色眼鏡でリディアを見ていたのだと思った。
可愛らしく溌剌として、賢いのにどこか抜けていて頼りない。従順で、悩んだり落ち込んでいる時には、そっと抱きしめてくれる。
「婚約者がいても関係ない。大切なのはヘンドリック様の気持ちだから」と言って、そっと寄り添ってくれる。
「すごいね」「さすがだね」と褒め、「がんばってね」「応援してるよ」と激励してくれる。
そんなの、好きにならずにはいられないだろう。
アンジェリカには幼い頃は別として、褒められたと感じた事がなかった。いつも対等だった。知識も思考も、対処法も。いつも負けないようにと肩肘張っていた。
「だからリディアの存在は、私にとってオアシスのようだった」
自分より劣ると思っていたリディアには、弱い部分を見せられた。出来なくてもいいと言う言葉に慰められた。安心して甘えられた。それが、自分を駄目するとも気づかず。
ザフロンディに来てからしばらくして、私が決めた事に口を出すようになった。出来ない事が多い私は、リディアの目には頼りなく、世間知らずに映っていたのだろう。
私に指図するリディアが面白く新鮮に感じた時もあった。
だが騎士としての私を貶め恥をかかされれば腹が立った。
「リディにとって私は、どんな存在なのだろうな」
本当に私自身を愛してくれているのだろうか?ふと、そんな疑問が頭の隅をかすめた。
さらに思い出していく。
ロザリン嬢をいじめていると知った時はまさかと耳を疑った。アンジェリカにいじめられたと言って泣いていたリディが、同じ事を人にするとは信じられなかった。しかも、何の罪もないロザリン嬢にだ。
それに冷静に考えれば、そもそもアンジェリカがそんな小さな、くだらないいじめを繰り返すとは思えない。賢く冷静で、淑女の鑑と言われたアンジェリカだ。
「もし排除したければ、いくらでもやりようがある。私なら直接動くことはしない。悪評が立てば命取りになりかねないからな」
声に出してみると、余計にそう思えた。
「そう考えると、リディがいじめられていたというのは信憑性がないな。まさか私を落とすためか?そうだとしたら、私はまんまと引っかかったんだ」
ヘンドリックは苦々しげに呟いた。
次々と浮かんでくる思い出や気持ちを少しずつ整理していく。今まで考えずにいたものや、リディアと関係のないものも全て、もう一度見つめ直した。
サイラスの店でも思うようにいかず悩んだ時もあったが、誠実に接すれば、戸惑いながらも徐々に受け入れて貰えるのが嬉しかった。自分の居場所が出来たように感じた。だからこそ、今、希望者に行っている剣術指導も、相手の顔色を窺う事なく自信を持って出来る。
「存外、この生活も悪くなかった。人の営みには特別な者など居ず、仕事の差異があれど、皆同じだと知った」
王も平民も、貴族であれ、日々、己の勤めを果たしながら生きている。家族を愛し、恋人を愛して。
では、私の勤めとは何か。
王家に生まれたのだから、王族としてこの国を守り導くのが勤めだった。
「そうだ。私は王太子として、国を守らなければならなかった」
その義務を放棄して、平民としての暮らしを選んでしまった。それも喜んで。一時の熱情に身を任せて判断を誤った。
「ウィル達が私から離れるのも仕方がない、か。義務を果たさず、忠言も聞き入れず、女に流され、道を踏み外した阿呆だと思われているんだろうな」
ヘンドリックは大きく溜息を吐いた。
思えば、リディアは欲望を煽るのが上手だった。
私の「守りたい」という欲はアンジェリカでは叶えられなかった。アンジェリカは対等な立場で国を守る同志だから。
対等だと認めず、侮られないよう無意識のうちに、常に彼女より優位に立とうとしていた。自分の方が優れていると確信を持ちたかった。アンジェリカは甘えを許さないと決めつけていた。
彼女の気持ちにも、努力にも、私は気づかなかった。見ようともしなかった。
アンジェリカに対するコンプレックスと、王太子という重圧が、私より弱い、私より劣る存在を求めていたのだろう。
愛してくれる両親、慕ってくれる弟、親友と言える側近、美しく賢い婚約者。私は全てを手にしていたのに、自分のちっぽけな自尊心を満たすために、全てを捨ててしまったのだ。
「そうだ、その時はそれらよりもずっと、ずっと、リディが大切だった。愛していたんだ」
心をくすぐる彼女の甘言に喜んで浸り、彼女の示す方向に躊躇いなく進んだ。婚約破棄などと大それた行為を、自分自身を破滅に追いやると考えもせずに突っ走ってしまった。
熱に浮かされたようにリディアを愛し、全く冷静さを欠いていた。
自分が選んだと思っていた道も、もしかしたらリディアに選ばされていたのかもしれない。私もまた、マックスの言うように、彼女のペースに巻き込まれ、道を誤った一人なのだろうか。
ヘンドリックは、本日何度目かの大きな溜め息を吐いた。
「だが私はリディに騙されたのではない。確かにリディを愛し、王妃にと望んだ。私は常に本気だった」
何度思い返しても、騙されたとは思えなかった。たとえその選択が間違っていたとしても、心を動かされ、悩み、その時の最善を選んできたからだ。
友人や婚約者の言葉を信じず、リディアを選んだ。それは自身の弱さを見抜けず、忠言に耳を傾けず、ひたすら耳に心地いい言葉だけを信じた。私が、馬鹿だったんだ。
「本当に長い、長い夢を見ていたようだ」
目が覚め、馬鹿な事をしたと思っても、一人だけの問題ではなかった。
「リディをどうするか、だな」
聖ナツギ大聖堂での誓いを守り、このままリディアと共に暮らすのか?「真実の愛」だと信じていたリディアと、このまま男爵とは名ばかりの平民のような暮らしを続けるのか?
「一緒に暮らすことは出来ても、あの時のように純粋に愛するのは無理だ」
私はリディアの本性に気づいてしまった。それを受け入れる事が出来るのか?
「無理だ。信頼も純粋な愛情もリディに抱くことは出来ない」
自分の欲望を満たすために、私を陥れた。それは他人を蹴落としても何とも思わないからだ。
王太子を虜にして城を追い出されたとひけらかすのは、私を装飾品のように思っているからだ。
私の愛を信じずロザリン嬢に手を出した。それはこの先、一生束縛されるのを受け入れる事だ。
それだけではない。
貴族の義務を徹底して教え込まれた私は、与える側の人間だった。王族とは、国民が働いてくれるからこそ成り立っている。
国を守るというのは国民を守る事だと教えられてきた。
反対にリディアは与えられる側の人間だ。だから孤児院への慰問を嫌がった。剣術指導をルイス以外の人間にすると機嫌が悪くなるのも、利益にならない事をしていると思うからだ。以前「月謝を取ればいいのに」とこぼしていたのを聞いた。
全てを投げ出してもいいと、そして本当に全部捨てた。それくらいリディアを愛していた。
だがこれ以上、リディアに振り回されたくない。
では、どうする?グレアムの提案に乗るのか?いや、みすみす乗るのはプライドが許さない。
「そんな事をすれば、能無しの恥知らずだと皆に笑われるだけだ」
「それとも、どちらも捨てて・・・?は、ないな」
ヘンドリックは自身に問うた。今度こそ、己が取るべき道を冷静に、そして真剣に考えた。