愚かさは罪4
「ヘンドリック様は王妃様に似ているのね。とても美しい方だったわぁ」
「ああ。それに母はとても家族思いだ」
ヘンドリックは自嘲気味に呟いた。母の期待に応えず騒ぎを起こした上、母の元を去るのだ。見捨てられても仕方がないと思っていたのに、まさかあのような励ましの言葉を掛けられるとは思っていなかった。
そして母の言葉、母の涙に、自身が起こした行動は間違いだったかと、ヘンドリックの心に少しの不安が紛れ込んだ。
考えたくもない。
迷いを押し殺してリディアと話しながら部屋に向かう途中、背後から急ぐ足音と共に声をかけられた。
「兄上、お待ち下さい」
ヘンドリックが振り返ると、弟である第二王子のグレアムが大股でやって来た。
父に似たキャラメルブロンドの髪と切長の瑠璃色の瞳。キリッとした眉に整った鼻梁、少し薄い唇。自分より少し背が高く、しなやかだが逞しい体型は、第二団の黒を基調とした騎士服がよく似合っている。
黒地に金糸で獅子の刺繍が施されたマントを靡かせて歩いてくる弟の姿に、ヘンドリックは穏やかな眼差しを向けて立ち止まった。
「やあグレアムじゃないか。どうしたんだい?」
「兄上、城を出る前に会えてよかったです」
「ああ、そうだな。この後荷物の整理をして出ようと思っていたんだが、私も会えてよかった」
グレアムは眉根を寄せてリディアを一瞥すると、ヘンドリックに視線を戻して、二人だけで話がしたいと伝えた。
ヘンドリックは、近くを通りがかった侍女にお茶の用意を頼み、三人で部屋に行くことにした。
部屋に入ると、早速リディアが嬉しそうにはしゃぎながら、あちらこちらを見て回った。
室内はモスグリーンの壁紙にクリーム色を基調としたファブリックで統一されている。書棚やキャビネット、テーブルセットなどの家具は白い洗練されたデザインで揃えられ、石造りの暖炉の前には、クリーム色のゆったりとした幅広のソファにモスグリーンと茶系のクッションが並べて置かれている。落ち着いた色調に白い家具が、華やかで若々しい印象の部屋になっていた。
だが暖炉の上に掛けられているアンジェリカの肖像画は、今は白い布で覆われている。
グレアムはその白い布を複雑な表情で見やってから、部屋の中を落ち着きなく動き回るリディアを、軽蔑を隠そうともせずに目を眇めて見た。その同じ姿をヘンドリックは、慈しむように微笑みを浮かべて眺めている。
「気持ちが違えば、こうも見方が変わるのか。俺には品も教養もない、躾のなっていない低俗な女にしか見えんがな。くそっ!兄上があんな女に引っかかるなんて全く趣味が悪い。でも、だからこそ俺にもチャンスが巡って来たんだが…。いいや、やはりそれでも感謝する気にはなれない」
グレアムは口元に手を当て、複雑な暗い眼差しをヘンドリックに向け呟いた。
グレアムは穏やかで努力家の兄が大好きだった。弟妹に優しい兄だった。我儘をぶつけても笑って受け止めてくれる。アンジェリカにやきもちを焼いて意地悪した時も、悪戯をして父に叱られた時も、何度庇ってもらったか。
幼い頃からアンジェリカのことが好きだった。だが、兄とアンジェリカの関係を壊そうと思ったことはない。二人が王と王妃として国を統べる手助けをすることが、自身にとっての最良だと思っていた。兄がリディアに会うまでは。
リディアに会ってからの兄は、以前と違いまともな判断ができず、努力することもなくなった。周りの言葉を聞かず、短気で意固地になった。隠れていた本性が表出したのか、リディアという縁によって一時的に出てきたものなのかはわからないが、以前とは大幅に変わってしまった。
アンジェリカと一緒に忠言したこともあったが、取り付く島もなかった。肉親としての情があるからこそ、話の通じない兄に何度悔しい思いをしたことか。その度リディアに対する腹立ちが募った。
そして卒業パーティーでの暴挙に、兄には王太子としての資質はないと見限ったのだ。
「失礼します」
ドアがノックされ、先程お茶の用意を頼んだ侍女がワゴンを押して入ってきた。カチャカチャと音を立ててお茶の用意がされ、終わると静かに出て行った。
ヘンドリックは頃合いを見てカップにお茶を注ぎ、グレアムに座るよう勧めた。
「ところで話ってなんだい?」
「アンジェリカ嬢のことです。あっ、その前に…立太子礼は三ヶ月後に行うことになりました」
「ああ、聞いている。すまない、苦労をかける」
「いいえ。兄上と共に国を支えていこうと決意していたので、本当に…残念です。…力不足ではありますが、兄上の分も一生懸命務めて参りますので、どうかご安心下さい」
「いや、お前なら私よりも上手くやれるよ。後は頼んだぞ」
「はい。それで…アンジェリカ嬢ですが、私の婚約者として
彼女を指名しようと思っています。よろしいですか?」
「良いも何も、今の私の状況は全てあれの所為だからな。腹立たしく思いこそすれ、もう私には関係のないことだ。それよりお前は、昔からあれを嫌ってたのではないのか?よく泣かせていたよな」
「いや、嫌っていた訳ではなく、俺を見て欲しかったんですよ。ガキだったなって思います」
グレアムは苦笑しながら頭を掻くと、兄が淹れてくれたお茶を一口飲んだ。
ヘンドリックは顎を撫でながら、グレアムの様子を驚いたように眺めた。
「それは、、、気づかなかったな」
「アンジェリカはいつも兄上を見ていましたからね。同い年なのに俺のことは弟扱いで。悔しくてちょっかいを出しているうちに気づいたんですよ…って、まあ、そんなことはどうでもいいです。とりあえず、兄上に報告と了承を得たかっただけなので」
「ああ」
「ヴィヴィアンには会わないんですか?」
「ヴィヴィはアンジェリカのことが好きだからな。婚約破棄した私の事を許さないだろう。ましてやリディアと王都を出ると言えば何を言われるか…考えただけで恐ろしいから会わないで行くよ。まあ、急に決まったことだし時間もない。落ち着いたら手紙を出すさ」
「やれやれ…寂しがって泣くと思いますよ」
グレアムは三歳下の妹の顔を思い浮かべて肩を竦めた。母や兄に似た線の細い可愛らしい女の子だ。小さい頃は兄達の後をちょこちょこと追いかけ纏わりついてくるので邪魔だと思っていたが、グレアムと違いヘンドリックはヴィヴィアンを可愛がっていた。
今でもヘンドリックはヴィヴィアンに甘く、妹もまたヘンドリックのことが大好きなのだ。グレアムのことよりもずっと。
「そうだな」
ヘンドリックは立ち上がり、窓際にある机の引き出しを開け、レターセットを取り出した。サラサラと書きつけると、愛用の透かし彫りが美しい栞を、手紙と一緒に封筒に入れ封をした。それとクリスタルの文鎮をグレアムに手渡した。
「これをヴィヴィに渡してくれ。挨拶ができなくて済まないと。落ち着いたら手紙を出すからと。頼んだぞ」
グレアムは手紙を受け取り頷いた。
「ところで、兄上は城を出てどちらに行かれるんですか?どこか当ては?」
「ああ。私は庶民の暮らしには暗いからな、リディアの実家を頼ろうと思っている」
「リディア嬢の実家ですか?なるほど。それが良さそうですね。それで、場所はどの辺りですか?」
「アルトワ男爵領のザフロンディだ。ここから馬車で三、四日といったところか。交易で発展した裕福な土地だ。そういえば、新たにシャルナ王国との交易もアルトワ男爵領の港で行われることになっていたな」
「ええ。本来なら半年先にと考えていた使節団の訪問を、急遽、私の叙任式に合わせるよう依頼したところです。この後アルトワ男爵には受け入れ準備を急ぐよう要請するつもりですので、これからアルトワ領内や周辺は慌ただしくなるでしょうね」
「そうだな。私にも何かできることがあるかもしれないな。シャルナ王国のことだが、私の持つ案件ではあったが、ほとんど携わっていない。すまない。アドバイスはできないがウィリアム達が詳しいはずだ。あいつらを頼ってやってくれ。三人共優秀な人材だ」
「ええ、もちろんです。心強く思っていますよ。ではお茶も飲み終えたのでこれで失礼します。兄上、お体に気をつけて、どうかお元気で」
グレアムは立ち上がりヘンドリックに手を差し出した。ヘンドリックはその手を握りしめ、力強くグレアムを抱きしめた。グレアムの背をポンポンと叩く。昔から変わらないヘンドリックの抱擁に、グレアムはグッと唇を噛み締めた。
「兄さん、俺は、いつまでも兄さんの弟です。兄さんとまた昔のように、戻れることを、祈ってます」
「ああ、ありがとう。お前も元気で。ヴィヴィにも愛していると、幸せを願っていると伝えてくれ」
寝室やバルコニーではしゃいだ声を上げていたリディアが部屋に戻って来た。
「本当に素敵な部屋ね。ヘンドリック様はここで過ごしてたのね。色々見てたら喉が渇いちゃった。あたしもお茶が飲みたいわ。ねえ、お話はもう終わったの?」
「ああ、終わったよ。少し冷めてしまったが構わないか?熱いのが良ければ新たに用意するが」
「冷めてる方がいいわ。ごくごく飲みたいから。ねえ、グレアム様ともお話ししたいな。いいですかぁ?」
リディアは小首を傾げ、あどけない表情でグレアムににっこりと笑いかけた。
「いえ、申し訳ありませんが私は失礼します。では」
グレアムは誘いをすげなく断ると、軽く頭を下げ、後ろも振り返らず部屋を出て行った。
「グレアム様は忙しいのねぇ」
リディアは気にすることなく、ヘンドリックが淹れてくれたお茶をごくごくと飲み干した。
ヘンドリックは、グレアムのリディアに対する態度にため息を吐いた。リディアを疎んじていることは知っていたが、このようなことになってもリディアを離さない自分に対して、厳しい目を向けたグレアムに寂しさを感じた。
だが余計に、自分は家族でも国や民でもなく、リディアを選んだのだと意識した。
「さて、リディ、身の回りの整理を始めるよ。リディも気になる物があったら言ってくれ」
「わかったわ。この部屋の物全部持って行きたいけど、それはダメよねぇ。ねえ、ところであたし達、お城を出たらどこに行くの?」
「ああ、そのことでリディに相談したいんだが、リディの実家は確かアルトワ男爵領のザフロンディだったな?」
「ええ。それがどうしたのぉ?」
「リディの地元に行こうと思うがどうだろうか?私は王都からは殆ど出たことがないから、どこの土地にも馴染みがない。できれば少しでも馴染みのある場所でスタートを切りたいんだが」
「ええっと、そうねぇ。あたしも初めての土地よりは勝手がわかるから暮らしやすいかもぉ。でも父さん達には何も言ってないから、きっとビックリすると思うわ」
「そうだな。今日城を出て、途中観光も兼ねてゆっくりと進み、一週間前後にザフロンディに着くよう考えている。できれば父君に早急に手紙で知らせてもらえたら助かる」
「わかったわ。でもどうやって書いたらいいかな?」
「それは任せるよ」
「じゃあ、ヘンドリック様と一緒に帰る事とぉ、これからザフロンディで暮らすって書くね」
「ああ、頼む」
「ねえ、これからあたし達どうなるの?」
「そうだな。当面は生活に困ることはないだろうが…男爵位とはいえ領地がないから収入もない。だから使用人は雇えないな。自分達の事は自分でするし、私も仕事を探さすよ」
「えっ?ヘンドリック様、働くんですかぁ?」
リディアは目を見開き驚きの声を上げた。ヘンドリックは可笑しそうに肩を竦めて笑った。
「そうだね。働かないと暮らしていけないよ?」
「それは、そうだけどぉ。ヘンドリック様は平気なの?平民になって平民の暮らしをするんですよ?」
「たぶんね。私はリディと生きることを望んだんだ。今更私を捨てないでくれよ」
ヘンドリックはおどけて肩を竦めてみせた。
ヘンドリックは話しながらも手を休めることなく部屋の物を選別していく。ある程度片付けると侍女を呼び、お忍び用の馬車と路銀の用意、処分するも物捨て、持って行く物は纏めて運び出すように指示した。
私は、私の役目を放棄した事になるのか?いや、私はこの選択が間違っていない事を、これが私の幸せだと胸を張って言えるように生きなければいけないんだ。そうでなくては、リディを選び、王太子を辞めた意味がなくなってしまう。
ヘンドリックは家族から投げかけられた言葉に紛れ込んだ、ほんの少しの不安を打ち消すように決意した。