王都からの客人2
アンジェリカはドレスの裾を摘み、優雅に淑女の礼をとった。流れるような美しい仕草がとてもきれいだった。気まずさを感じさせない所作にアンジェリカの気遣いを感じ、ヘンドリックは眩しそうにその姿を見つめた。
「アンジェリカも、相変わらずだな」
「お久しゅうございます、ヘンドリック様」
ヘンドリックが手を差し出すと、アンジェリカも反射的に手を出した。ヘンドリックが掴もうとした瞬間、グレアムが横から攫って指先に軽く口づけ、アンジェリカに微笑みかけた。
「兄上、アンジェはもう兄上の婚約者ではありません。俺の婚約者です。許可なく名前で呼ぶのは控えて下さい」
グレアムはアンジェリカの手をギュッと握りしめ、冗談を言うように抗議した。
「あ、ああ。つい以前の気安さから無礼をした。許してくれ」
抗議を受けてヘンドリックは、自分がアンジェリカにした酷い仕打ちを思い出した。それを感じさせない彼女の振舞いに心の広さを感じ、忘れていた事を素直に恥じた。
「王太子妃殿下、すまなかった」
「ええ、謝罪を受け取りました。ですがヘンドリック様にそのように呼ばれるのは落ち着きませんわ。婚約者ではなくなりましたが、幼馴染ですもの。どうか以前のようにアンジェリカとお呼び下さいませ」
「そうなの?アンジェがそう言うなら名前で呼んでいいよ、兄上」
「グレアム、なんでお前が許可するんだ?」
「そりゃあ、アンジェの婚約者だからね」
間髪入れずに口をはさんだグレアムに、ヘンドリックは思わず突っ込んだ。以前と変わらぬ二人の態度に、自分がした暴挙、今なら暴挙と思える行為を許されているのかもしれないと感じた。
「アンジェ、兄上を見つめるのはやめてくれ。でないと妬いてしまうから」
「まあ、殿下はまたそんな事を!冗談はおやめ下さいませ」
「冗談なものか」
アンジェリカは頰を染めて、困ったようにグレアムを見た。グレアムはその反応を楽しむように、アンジェリカを優しく見つめている。
アンジェリカの呼ぶ「殿下」という柔らかな声に、少女だったアンジェリカの姿が脳裏に蘇った。かつては自分に向けられていた、私を呼ぶ名称。
はにかんだ笑顔を浮かべ、嬉しそうに駆け寄ってきた姿が懐かしく、もう二度と呼ばれる事のない事実に胸が痛むのを、ただの感傷だと自嘲した。
そして何より驚いたのが、アンジェリカを見つめて浮かべるグレアムの蕩ける様な笑顔だった。
「お、まえ、本当に、グレアムか?」
「ああ、そうだよ。兄上には違う人間に見えるのか?」
「ああ。いや、そうだな。たった二、三ヶ月会わないうちに、とんでもなく変わったように感じるぞ。特に女性に対しての態度がな」
「そうかなぁ?自分では変わってないと思うけど。それに、俺がこんな風に接するのはアンジェだけだ。アンジェに堂々と気持ちを伝えられるのが嬉しいんだ。ねえ、アンジェ。好きだよ」
グレアムはアンジェリカの手を握りしめ、訊ねるように視線を向けた。アンジェリカはポポポポッと頬を染めて困ったようにヘンドリックを見た。
「ヘンドリック様の仰る通りですわ。私もグレアム殿下がこのような方だとは存じませんでしたもの。学園でもこの通りで、私、妙にフワフワして、毎日雲の上を歩いているようですの」
「アンジェリカ嬢、困っているならちゃんと言ったほうがいいぞ」
「え?アンジェ、俺はあなたを困らせているのか?」
アンジェリカはますます顔を赤く染め、自由な方の手で素早く扇を広げて顔を隠した。
「べ、別にそこまで困ってはおりませんわ。でも人前でそのような事を仰るのはやめて頂きたいですわ。だ、だって、恥ずかしくて居た堪れないんですの!どうかわかって下さいませ」
真っ赤になったアンジェリカが扇の陰から上目遣いにグレアムを睨んだ。そんな様子もグレアムは嬉しいようで、ニコニコと笑みを浮かべてアンジェリカを見ている。
「そうか、なら二人の時に愛を囁くとしよう」
「あ、あの、お手柔らかにお願いしますわ」
アンジェリカはグレアムを軽く睨んでから、甘さを含んだ輝く笑顔を浮かべた。ヘンドリックは初めて見るその表情を複雑な気持ちで眺めた。
「そんな笑顔、私は見た事がない。私が知っているのは王太子妃としての慎ましい微笑みか、はにかんだ笑顔だけだ」
ヘンドリックはポソリと呟いた。自分の知らない顔を見ると胸が締めつけられた。だがヘンドリックはそれを、答えを間違った時に感じる悔しさや残念な気持ちだろうと思った。
ロザリンは侍女の如く気配を消し、邪魔にならないよう三人の会話を微笑みを浮かべて静かに聞いている。
「ハア、ハア。あー、やっと追いついたわ」
リディアがいきなり三人の輪の中に飛び込んできた。まるで学園生の時のように、会話の途中にも関わらず息を弾ませて。そして笑顔でピョコンと頭を下げた。
「こんにちは!!グレアム様。アンジェリカ様も、お久しぶりです」
以前のヘンドリックはそれを許していた。未だに学園生気分が抜けないのか、変わらず礼儀を無視した振る舞いだった。
以前ならそんなリディアを嬉しげに見つめ、肩や腰を抱き、すぐに二人の世界に入っていたわねと、アンジェリカは扇の陰からチラリとヘンドリックを見た。
ヘンドリックは少しだけ眉を顰めてリディアを見ている。その瞳には城にいた時のような甘さはなく、アンジェリカはその事に驚いた。
グレアムが挨拶を返さないので、仕方なくアンジェリカが口を開いた。
「ご機嫌よう。リディアさんもお元気そうね」
「ええ、アンジェリカ様も。式典の直前に来ると思ってたからビックリしちゃいましたぁ。どうしてこんな早くに来られたんですかぁ?」
「あなたに答える義理はない」
グレアムがすげなく答えた。
「な、あたしはヘンリーの婚約者なのよ。結婚したらグレアム様はあたしの義弟になるのよ。わかってるのぉ?」
「ハッ!何が義弟だ。まだ正式な婚約もしてないじゃないか」
リディアは悔しさのあまり黙り込んだ。
「グレアム、言うな。私が不甲斐ないからだ。今リディアのご両親に承諾を得ているところだ」
「フーン。リディア嬢のご両親は道理を知る人物なんだな。安心したよ」
(もう!父さんや母さんのせいで恥をかいたじゃないの!悔しい)
リディアは心中で両親を罵倒した。恥ずかしさと怒りが爆発しそうになった。
「あ、あの、こ、ここで立ち話も、その、なんですから、その」
ロザリンが間を取り持つように口を開いた。だが、とっさに言い出したものの後が続かず口ごもってしまった。
「ちょっと失礼しますよ。ヘンドリック様、上の応接室をお使い下さい」
マックスがヘンドリックの後ろからそっと声をかけた。
「ああ、ありがとう。グレアム、紹介しよう。ここ、サイラス商会の店主の息子のマックスだ」
「マックスと申します、王太子殿下、王太子妃殿下。ご尊顔を拝しまして光栄に存じます」
「マックス、お前、ちゃんとした挨拶が出来たんだな」
胸に手を当て、腰をかがめて挨拶をするマックスを見て、ヘンドリックは思わず呟いた。
グレアムはアンジェリカと顔を見合わせて軽く頷いた。
「ああ、そんなに畏まらないでくれ。それより場所を変えたかったからありがたい。使わせて貰うよ。案内を頼む」
「わかりました」
「ところで、兄上の仕事は?」
「ああ。サイラス殿かサーニン殿が来るまでは何もない」
「それなら良かった。では兄上、一緒に行きましょう」
「グレアム、おまえこそ仕事はどうしたんだ?王太子になれば山のように仕事があるだろう?」
「手元にあったものは全部終わらせてきたから大丈夫。それにウィリアム達に後を任せてきたからね。安心して休めるよ」
チクリ
ヘンドリックの胸を刺すような痛みが走った。懐かしい名前を聞いて、帰りたいと願う気持ちがサッと脳裏を掠めたが、それは一瞬のうちに心の奥底に沈んでいった。ヘンドリックは自分の気持ちに気づかぬまま、ただジリジリと焦げ付くような痛みにも似た感覚に戸惑った。
マックスが先頭に立ち案内をする。その後をグレアムとアンジェリカ、ヘンドリックとロザリンがそれぞれエスコートしながら続いた。
「ち、ちょっと待ってぇ。あたしも行きたいんだけどぉ」
リディアは慌てて追いかけたが、マックスがそれを止めた。
「あ、リディアは仕事に行ってくれ」
「えー、なんでぇ?あたしもなんの話なのか知りたいの!ねぇ、なんで一緒に行ったらダメなのよぉ。あたしはヘンリーの婚約者なのよぉ」
その言葉にグレアムは振り向き、苛立ちを隠しもせずにリディアを睨んだ。
「まだ婚約はしていないだろう。いい加減な事を言うな」
リディアはそれを無視してヘンドリックの腕を引っ張った。ヘンドリックは振り返り、リディアを諭すように言葉をかけた。
「リディ、すまない。式典の打ち合わせをしたいんだ。リディには関係のない話ばかりだから居ても退屈なだけだよ。何を話したかは後で教えるから仕事に行ってくれないか?」
リディアはプクッと頬を膨らませてヘンドリックを上目遣いで見上げた。
「イヤだって言ったらぁ?」
「うーん。残念だが、グレアムの言う通りリディはまだ正式な婚約者じゃない。それに王太子殿下が望まないのに無理矢理ついてくると何らかの罪に問われるが、試してみるか?」
リディアはヘンドリックに隠れるようにグレアムに目を向けた。グレアムは射殺しそうな目でリディアを睨んでいる。リディアは思い通りにいかない事に顔を歪め、渋々ヘンドリックの腕を離した。
「仕事に行くわ」
「いい子だ。昼食は一緒に取ろう。迎えに行くよ」
「本当?」
リディアは嬉しそうにヘンドリックに笑いかけた。
「ああ」
リディアはクルリと背を向けると店に向かって駆け出した。途中で一度振り返りヘンドリックに手を振ると、今度こそ自分の持ち場に戻ったようだ。ヘンドリック達はその後ろ姿を見守った。




