転落の序章4
「あら、ロザリン様じゃないですか。こんな所でどうしたんですか?」
声を掛けられ振り向くとエマが優しく微笑みながら立っていた。
「あ、エマさん」
ロザリンは思わず椅子から立ち上がった。
「まあ、泣いてらしたんですか?」
エマが驚いた顔をして訊ねた。ロザリンはエマから顔を背けると首を横に振った。気づかぬうちに泣いていたようだ。
「え?あ、し、失礼しました。ひ、一人で考えて、いたら、その、か、考えすぎた、みたいで」
ロザリンは俯くとハンカチで涙を拭った。
「失礼でなければ、何を考えてたのかお訊きしてもいいですか?」
「そ、その、じ、自分の、き、気持ちが、思うように、その、な、ならなくて」
「・・・そうですねぇ。心というものはままなりませんねぇ。一度でも心が動いてしまえば、もう前と同じには戻りませんもの」
エマは考え込むように頰に手をやり、首を傾げながら答えた。ロザリンはハンカチで涙を押さえて微笑んだ。
「ええ。お、仰る通り、で、ですわ」
「その、よければ、涙の理由を訊いてもいいですか?」
ロザリンは静かに首を横に振った。
「あ、ありがとうございます。で、でも、わ、私も、どうしたらいいか、その、わ、わからなくて。き、き、気づいたばかりの、気持ちで、ですの、で、答えられませんわ」
「・・・もしかして、ヘンドリック様の事、ですか?」
「え・・・?」
エマは内緒話をするように人差し指を口に当て、優しく微笑んだ。ロザリンは思わず両手で顔を覆って俯いた。赤く染まっていく頬をエマに見られたくなかった。その様子を見て、エマは確信を持って話を続けた。
「好きに、なられたんですね」
エマが静かな口調で確認するように言うと、ロザリンの目から涙がこぼれた。
「お、お願いです。だ、誰にも、いい、言わないで下さい」
ロザリンは涙で濡れた顔を上げると、ハンカチを握りしめてエマに訴えた。
「ええ。わかりました。お約束します」
ロザリンは肩を震わせて泣き出した。エマはその震える肩を優しく抱きしめて涙が止まるのを待った。
「ロザリン様」
名前を呼んだのはいいが、エマはかける言葉が見つからなかった。どんな慰めも励ましも、また、この恋を応援するのも、やめるよう説得するのも無駄だと、身をもって知っていた。
ロザリンはしばらく声を殺して静かに泣いてから、そっとエマの体を押しやった。落ち着くまで何も言わずに待ってくれたエマの気遣いが嬉しかった。
「あ、あの、あ、ありがとうございます。お、落ち着き、ましたわ」
ロザリンはもう一度ハンカチで涙を拭くと微笑んでみせた。
「フフ、それは良かったです。ね、ロザリン様。今、ここにはあたしとロザリン様の二人だけです。嫌でなければ、ですが、思ってる事を全部吐き出しませんか?」
「え?い、今、こ、ここ、で、ですか?」
「ええ。・・・あたしにも経験があるんです。あたしの思いは叶いませんでしたが、立ち直るのにサリアに助けて貰ったんですよ。だからあたしも、その時の恩返しがしたいんです」
ロザリンはエマを見た。妖艶で、恋愛に関しては百戦錬磨の戦士のような女性に見える。男心を弄んでそうな、そしてそれが許されてしまう程の美女。だけどその実、面倒見が良く、気さくで明るい性格で浮いた話を聞いた事がない。男性からはもちろん、女性からも好かれる素敵な女性だ。そのエマにも、辛い時があったんだと知った。
そして、ロザリンは待たせているヘンドリックを思った。彼を思い出すだけで色んな気持ちが溢れそうになる。淑女としての矜持も、友人から教えて貰った知識も、初めての恋の前では何の役にも立たなかった。
同じような経験をしたと言うエマに胸の内を聞いて貰ったら、もしかすると「恋」以外の名前が付くかもしれないと、過去のものに出来るかもしれないと希望が湧いた。
「あ、あの、も、もしよろしければ、その、お、お願いしますわ」
「ええ、と。では、何から話しましょうか?と、その前にお茶を用意しますね」
エマはロザリンを椅子に座らせると、そそくさとお茶とお菓子をたくさん持って戻ってきた。
「こういう時は、とりあえず甘いものを食べましょう」
エマはテーブルにお菓子の皿を次々と置いた。といってもカフェではなく食堂なので種類は多くないが、数で勝負とばかりに置いていく。
「フフ、フ。お、置き過ぎですわ。ふ、二人でこ、こんなにも食べられませんわ」
テーブルがお菓子の皿で埋まると、ロザリンはつい笑ってしまった。エマも釣られて微笑んだ。
「さて、何から話しましょうかね。とりあえず、とんでもなくイケメン過ぎます!顔だけでも恋に落ちますよ。惚れるなっていう方が無理ですからね」
エマはそう言うとロールケーキを一口パクリと食べた。
「ええ、ほ、本当に、そ、その通り、で、ですわ」
ロザリンもエマの真似をしてチョコケーキをパクリと頬張った。
「剣を振る姿なんてまるで軍神!!サーニンさんが霞んで見えるくらい格好良いですよねぇ。嫌んなっちゃう。パクッ」
「は、博識で、ヴァ、ヴァイオリンもす、素敵なんです、パクリ」
「や、優しくて、ま、真面目で、一生懸命で、ま、前向きで、ゆ、優雅で、頼もしくって、素直で、か、格好良いのに、ど、鈍感なんです。パクッ!!」
「お、思わせぶりな事をしておいて、あ、あんな、か、勘違いさせるような、事を平気でするなんて!パクン、ゴクゴクゴク」
ロザリンは冷めたお茶を一気に飲んだ。
「そうですよ!!無駄にいい男で思わせぶりで、フェミニストなんですから。パクパクッ」
「私の事、妹扱いして!許せないですわ」
「まあ、妹扱いを?それは許せませんね。でも女を見る目がありませんもの、仕方ないですよ。パクリ」
「そ、それは、その・・・。私もそう思います」
ロザリンは小さな声で答えた。
「わ、私はともかく。ア、アンジェリカ様は、本当に、す、素敵な方なんです。そ、それなのに・・・、パクッ」
「パクパクパクパク」
「ロザリン様の仰る通り、女の趣味は最悪です!パクッ、パクッ」
「ついでに、あたしを振った男も、女の趣味は最悪でしたよ」
「あの、エ、エマさんは、その、へ、ヘンドリック様の事、お好きでは、な、ないんですか?」
「そうですねえ。一瞬だけ、狙おうかなぁとは思いましたが、残念ながら好みではなかったんです」
「え?あ、あんなに素敵なのに?」
「ええ。あたしはサーニンさんの方が気になりますね」
「まあ!そうなんですね」
二人は言いたい事を言い、時に恋バナも交えながら、次々とお皿に乗ったケーキや焼き菓子、チョコレートを平らげていった。
「ねえロザリン様、告白は、しないんですか?」
「え、ええ。こ、告白するつもりは、ああ、ありませんわ。この気持ちには、ふ、蓋をします。パクッ」
「エ、エマさん。私、もう、こ、これ以上食べられませんわ」
「フフフ。あたしもですよ、ロザリン様。でも、まだまだ言い足りないですよねぇ」
「ええ。で、でも、あ、ありがとうございます。な、なんだか、笑えてきましたわ」
ロザリンは苦しそうだが、さっきよりはスッキリとした顔をしている。エマはホッと胸を撫で下ろした。
ロザリンは、先が見えず苦しいだけだった思いが、声に出せた事で少しだけ軽くなったような気がした。何より一人で抱え込まないでいられるのがありがたかった。
「フフ。ロザリン様、あたしとサリナはもっと食べて呑みまたよ。胸焼けして動けなくなるまでね」
「ま、まあ!」
「でも、今日はそんなに食べませんよ。仕事が出来なくなりますからね。ですので、また次の機会を設けましょうねぇ」
「そ、そうですわね。また、聞いていただけたら嬉しいですわ。そ、それに、実は私、へ、ヘンドリック様をお待たせしていますの。で、でも、今日は、帰ることにしますわ」
「それがいいと思いますよ。ヘンドリック様には、あたしから伝えておきますね。食べ過ぎで胸焼けするから早退したと」
「エ、エマさんの意地悪!」
ロザリンはプッと頰を膨らませて怒ってみせた。冗談を返せるくらいには気持ちが落ち着いていた。
「フフフ、ロザリン様が可愛くって、つい揶揄いたくなるんですよ。許して下さい」
エマは悪戯っぽく笑いながら言い訳をした。
「え、ええ、そ、早退の理由を変えて下さったら許しますわ」
「はい、わかりました。お任せ下さい。さ、ここはあたしが片付けますから、どうぞお帰りになって下さい」
「あ、ありがとう、ございます」
「あ!ロザリン様、忘れ物ですよ」
帰りかけたロザリンを呼び止めると、エマはギュッと抱きしめた。
「ロザリン様、少しでもしんどくなったら仰って下さいね。あたしはロザリン様が大好きですから、いつでも喜んで話を聞きますわ」
エマは背中に回した手に力を込めて、ロザリンをもう一度ギュッと抱きしめた。ロザリンも姉に甘えるように、エマの腰に手を回して抱きしめ返した。
そんな事があってからエマとロザリンは急速に仲良くなった。そして、そこにサリアも加わり、三人で一緒にいる姿をよく見かけるようになった。
リディアはというと、そんなロザリンを忌々しく思った。そしてエマやサリアが側にいない隙を狙っていじめるようになった。
リディアは気付かれていないと思っていたが、従業員の多いサイラスの店である。ロザリンの側にたいていエマやサリアがいたため、ロザリンの姿を見かけると無意識に注意を向けられるようになっていた。
そして店では、リディアに因縁をつけられ絡まれていると、誰かしらロザリンに助け舟を出すようになった。
面白くないのはリディアである。辞めないばかりか、店の者を味方につけるロザリンが憎くて仕方なかった。
「なんで思うようにいかないわけ?でもこれ以上やると、あたしが辞めさせられちゃう。気弱そうだからすぐに折れると思ってたのに、なんであんなにしぶといのよ!もうどうしたらいいかわかんないよぉ?」
意地になったリディアは癇癪を起こしたがどうしようもなかった。不満が募るばかりだが、しばらくは大人しく様子を見る事にした。もうすぐアンジェリカ達がやって来る。
ロザリンのせいでギクシャクする様になったヘンドリックとの仲を、幸せに暮らしているように見せなければいけなかった。
その思いはリディアを不安に駆り立て、ロザリンを執拗にいじめる原因になっていた。
(それもこれもぜ〜んぶロザリンのせいよ!あの子さえいなかったらこんな事にはなんなかったのに!あー、忌々しいったらないわ!!今すぐあたしとヘンリーの目の前から消えて欲しい!)
リディアはイライラと爪を噛んだ。リディアの心中は嫉妬と焦りが吹き荒れていたが、何気ない風を装って毎日を過ごした。
今週末にはいよいよ剣術大会の予選が始まる。そして各地の予選が終わると開港式典があり、祝祭が始まるのだ。