転落の序章3
「あら?これ何かしら?」
ロザリンが倉庫を出て行った後、ひとしきり笑ってスッキリしたリディアが、床に散らばった紙を見つけた。
「あら、商品リストじゃない。ロザリン様、放って行ってしまったのね。フフフ。これ、どおしよっかなぁ」
リディアは手にある書類をヒラヒラさせて、意地の悪い笑みを浮かべた。そして書類を丸めて手に持つと、人目につかないようにそっと倉庫を出て焼却炉に向かった。
火を入れるのは午後の仕事が始まる頃だ。リディアは周りに誰もいないのを確認すると、素早く焼却炉の蓋を開けて中に放り込んだ。
「フフ、あたしは知〜らないっと!床に放り出してどこかに行っちゃったんだもん。ゴミかと思われてもしょうがないわよねぇ」
リディアは小さく呟いて焼却炉を後にした。
ヘンドリック達は剣の稽古を終え、集まっていた店の者達もそれぞれ仕事に戻った。リディアも人の波に紛れるようにして、楽しげに笑いながら店内に戻っていった。
誰もいなくなった後、サーニンは焼却炉の蓋を開けてリディアが捨てた物を拾い上げた。
「様子がおかしいと思って後をつけたが、なぜリディアがこれを持ってるんだ?まさかとは思うが、ロザリン様に何かしたんじゃないだろうな」
サーニンは眉間に皺を寄せると、クシャクシャになった商品リストを伸ばしながら倉庫に向かった。
倉庫に着くと、ヘンドリックがロザリンを探していた。
「あ、サーニン殿、ロザリン嬢を見なかったか?」
「いや、俺もこれを返そうと思って来たんですが、ここにはいないんですか」
サーニンは手に持っていた書類をヘンドリックに見せた。商品リストのチェック欄には、几帳面なロザリンの字で細かくチェックされている。
「リディアがこれを焼却炉に放り込むのを見たんですよ。ヘンドリック様は何かご存知ないですか?」
「いや、私は剣の稽古で外に出ていたから何があったかは知らない。ロザリン嬢はここで一人でいたはずだ。だが、まさかリディが・・・」
二人は同じ事に思い至り溜息を吐いた。
「わかりました。リディアには私から話を聞きましょう。ヘンドリック様は下手にリディアを刺激しないようお願いします。それと、できればロザリン様のフォローを。
チェックの終わっていないリストは置いていきますので残りもお願いします」
「あ、ああ、わかった。リディアの事はよろしく頼む」
二人はそれぞれのやるべき仕事に戻った。
サーニンは店に入ると、リディアに事務室に来るよう伝えた。
「なあにぃ?今とぉ〜っても気分良くってぇ、午後のお仕事がんばろうって思ってたのにぃ」
リディアは口ではそう言いながらも、機嫌良くサーニンの後について行った。事務室に入るとソファに座るよう言われ、サーニンもリディアの向かいに座った。
「リディア、なぜ呼んだかわかるか?」
「そんなの、わかるわけないじゃない」
「そうか。なら、これは何だ?」
サーニンはクシャクシャになった商品リストをテーブルに出して見せた。リディアはハッとしてサーニンを見た。
「それが、何?」
「なぜこれを捨てた?」
「あ、だって、床に散らばってたからゴミかと思って・・・」
「これを持っていた人はどうした?」
「な、何よぉ!そんなの知らないわぁ。誰が持ってたのよぉ」
「ロザリン様だ。倉庫に行ったが姿がなかった。ヘンドリック様に訊いてもどこに行ったかわからないそうだ。何をしたんだ?」
「何もしてないわよぉ!ロザリン様に聞いてみたらいいじゃない?仕事を放ってどこかに行くなんてぇ、ロザリン様も無責任ねぇ。ねえ、サーニンお兄ちゃん、祝祭が終わればどうせ居なくなるんだから、その前に辞めてもらってもいいんじゃないの?ダメ?」
リディアは困った顔をして頰に人差し指を当て、可愛らしい仕草で小首を傾げた。その様子からは何の邪気もないように見えた。
サーニンは大きく溜息を吐いた。
「ダメに決まってるだろう。ロザリン様がここに来ているのはアルトワ様の意向だ。お金を稼ぎに来ているのとはわけが違うんだ。それよりリディア、お前が何をしているかはだいたい想像ができる。そんな事を続けていると、ヘンドリック様に愛想を尽かされるぞ。お前のしている事は、結局は自分の首を絞めてるんだ。まだわからないのか?」
「何言ってるのぉ?なあに?あたしがロザリン様に何かしてると思ってるのぉ?邪推するのはやめてよねぇ。お兄ちゃんもマックスも、ヘンリーまで、みんなロザリン様の騎士気取り?笑わせないでよ。何を勘違いしてるんだか知らないけどぉ、お兄ちゃんもマックスも商人なの。そしてヘンリーはあたしの婚約者よぉ!おかしいのは男達を侍らせてるロザリン様でしょう?」
「リディア、口が過ぎるぞ!!」
サーニンはカッとなり怒鳴った。そうして声を落とすと怒りを含んだ低い声で言葉を続けた。
「おまえ、まさかと思うが、アンジェリカ様の時も、その詭弁でヘンドリック様を誑かしたのか?」
「なあにぃ?サーニンお兄ちゃんが何の事を言ってるのかわかんない。詭弁って何よぉ。今はそんな事じゃなくってぇ、この状況を話してるのよぉ?ロザリン様ったらあたしのヘンリーに横恋慕してるみたいじゃない?横恋慕なのにサイラスおじさんやサーニンお兄ちゃん、それにマックスまで味方につけてさぁ、なんかヘンリーを横取りしようとしてるみたいでムカつくのよぉ」
「リディア、おまえ正気で言ってるのか?俺にはお前が嫉妬に狂ってロザリン様をいじめてるようにしか見えない。そんなにヘンドリック様が信じられないのか?」
「そんな事ない。でも」
「でもじゃない。お前の行為は全くの見当違いだよ。お前のいじめは店の中でも噂になってるんだ。態度を改めずに店の雰囲気を悪くするようなら、おまえには辞めてもらうより仕方がない」
「待って!あたし辞めないわよ」
「なら、ロザリン様には手を出さずに大人しく働いてくれ。次また同じような事があれば、その時は有無を言わさず解雇するからな」
「・・・・」
「リディア、どうなんだ?」
「・・・わかったわ」
リディアは不承不承頷いた。
一方ロザリンは、自分の気持ちに気づいて狼狽えてしまい、今日はこのまま仕事が続けられないと思った。幸い与えられた仕事は急ぎではなかったので、勝手だとは思ったが、早退させて貰おうと決め更衣室を出た。
書類を取りに倉庫に行くと、ヘンドリックが一人で落ち着きなく倉庫内をウロウロしていた。だがロザリンの姿を認めるとホッとした笑みを浮かべた。
「やあ、どうしたんだい?ここにいると思って戻ったらいないからサーニン殿が探しに行ったよ。私はロザリン嬢が戻ってくるかもしれないとここで待っていたんだ」
ロザリンは今一番会いたくないと思っていたヘンドリックがいた事に驚き慌てた。
「あ、あの。も、申し訳ありません。あ、あの、その、体調がすぐれないので、そ、早退させて貰おうとお、おお、思ってたんですの。そ、それでその、こ、この辺りに商品リストの書類が、ありませんでしたか?と、途中までは終わってるんですが、その、残りをお、お返し、しようと、おお、思って」
「ああ、そうなのか。だが私が来た時にはなかったが?」
ロザリンは真っ青になって両手で口元を覆った。
「ま、まあ!ど、どど、どうしましょう!!な、失くして、し、しまったの、かしら?」
「ロザリン嬢、落ち着いてくれ」
ヘンドリックは今にも泣きそうになっているロザリンを落ち着かせるようにそっと抱きしめた。
だが、抱きしめられたロザリンはカーッと頬が紅潮したかと思うと、書類の行方を思い出し青くなったりと、感情が大きく揺れ動きパニックになった。
「な、なな、な、何を・・・」
「ロザリン嬢、書類は大丈夫だ。それより落ち着いてくれ」
ヘンドリックは低い声でゆったりと、落ち着かせるように言葉をかけたが、逆効果でしかなく、ロザリンはヘンドリックの言葉も頭に入らず、さらにパニックになった。
「お、お、お離し下さい!!」
「落ち着いたら離してあげるよ」
「そ、そんなぁ。だ、抱きしめら、られてたら、お、落ち着く事なんてで、でで、出来ませんわ」
ロザリンは恥ずかしさと書類をなくした情けなさで泣きそうになった。計らずも好きな人に抱きしめられて胸が一杯になり、また、そうなる事で罪悪感が押し寄せ、二つの感情がぐるぐると渦巻き、何が何だかわからない状態になってしまった。
「そうなのか?ヴィヴィはこれで落ち着くんだが・・・」
「わ、私は、い、妹君では、ああ、ありませんから」
ロザリンは目に涙を浮かべ、真っ赤な顔でヘンドリックを押しやった。
「それは、すまない。気遣いが足りなかった」
ヘンドリックは戸惑いながら体を離した。
「今日はもう帰るのか?」
「え、ええ。そ、そのつもりでしたが、す、少し、休憩をし、してきますわ。も、申し訳ありませんが、し、失礼、します」
ロザリンはサッと淑女の礼をして小走りで倉庫を出て行った。倉庫に残されたヘンドリックは、大人しくサーニンやロザリンが帰ってくるのを待つことにした。
(おかしくなかったかしら?こんなの、心臓がいくつあっても足りないわ。あんな、きゅ、急に抱きしめるだなんて。か、勘違いしてしまいそう。そんな訳ないのに。それに、こんな自分は嫌だわ)
ロザリンは食堂でお茶を受け取ると、空いている席に座った。呼吸も脈も酷く乱れている。落ち着こうと深呼吸をするが、先程の抱擁を思い出しては顔が赤くなり胸もドキドキして、なかなか落ち着かなかった。
(なんであんな事になったのかしら?お父様以外の男性に抱きしめられたのって、は、初めてよね。でも、それでわかったのは、私は異性ではなく、い、妹としてしか見られてないのね)
(そういえばヴィヴィアン様と仲が良いって聞いた事があるわ。ヘンドリック様が城を出られてから、食欲も落ちて泣き暮らしていたって。今でも帰りを待ってるって噂も)
(私にヴィヴィアン様を重ねて見ていらっしゃるのね。だからあんな誓いをしたのかしら?)
ロザリンは時間が過ぎるのも忘れて、自分に対するヘンドリックの言動を思い出した。だが育ってしまった思いは消える事なく、ズクズクとした痛みを伴って心を揺さぶった。
リディアにいじめられるよりも、ヘンドリックへの恋心の行き先を思うと涙が出た。不毛な恋はしたくなかった。