転落の序章2
「そうそう、それとヘンドリック様も出ると言われていた剣術大会ですが、そろそろ各地で予選が始まりますよ」
「ほお、そうなのか?ザフロンディに帰ったら、どこでやるのか調べよう」
ヘンドリックは小さく呟いた。
「あと、各町では様々なイベントが催されるようですからな。ロザリン様もどうか楽しみになさって下さい」
「まあ、あ、ありがとう、ご、ございます。た、楽しみですわ」
「説明だけでかなりの時間が経ってしまいましたな。もう一度伺いますが、サイラスの店でなく、うちで働く気になりましたかな??」
「すまないが、私の気持ちは変わらないよ。私はサイラスの店で働くさ」
「そうですか、残念ですが仕方ありませんね。サイラスにもそのようにお伝え下さい」
「わ、私は、ち、父と相談し、て、お、お返事さしあげ、ますわ」
「ええ、わかりましたよ。お二人とも意思が固いですな」
ネイサンは苦笑しながら二人の様子を眺めた。
「まあ、いつでもうちは歓迎するので、それだけは覚えていて下さい。さあ、マックスを呼んできますので帰り支度をなさって下さい」
そう言うとネイサンは事務室を出て行った。
「ロザリン嬢は本当はどうしたいんだ?」
「わ、私は、サイラスのお店で、は、働き、たいですわ。こ、こんな状態で、あ、ああ、新しく、関係を、つ、作るのは、ゆ、勇気が、いりますので」
「そうだな」
ヘンドリックは複雑な思いでロザリンを見た。
帰りの馬車の中、マックスは疲れた様子で座席にもたれかかり、腕を組み目を瞑って座った。ロザリンも考え込み、窓の外をぼんやりと眺めている。
「マックス、疲れたのか?」
「まあね。詳しくは言いたくないけど、詰め込めるだけ詰め込もうと次から次へと説明を受けたからなあ。頭がパンク寸前だ!帰る頃には今の半分も残ってるかわからんぞ。ハハハ」
マックスは乾いた笑いを漏らした後、盛大な溜息を吐いた。
「マックス、ザフロンディの剣術大会の予選はいつだ?」
マックスはハッとしてヘンドリックを見た。先程とは打って変わり、目に生気が戻った。
「今週末ですよ。いよいよ俺の出番がやってきたんだ!頭の痛くなるような数字や文章から解放されて暴れてやる〜!!」
「ハッハッハ!よっぽど頭を使うような書類仕事が苦手なんだな。いい商売人にはなれないぞ」
「それは兄貴に任せるからいいんですよ。それよりヘンドリック様、俺にも剣術を教えて下さいよ。リディアから聞いたけど、ルイスには教えてるそうじゃないですか」
「ああ、私もリディから聞いている。時間のある時でよければ教えよう」
「言いましたね。約束しましたよ」
マックスは満面の笑顔でガッツポーズをした。
♢♢♢♢
城を出た頃から季節は瞬く間に過ぎ、今はもう雨の季節だ。今年は雨が少なく、夏の水不足を心配する声が今から巷で囁かれていた。そして雨の季節が終わると夏がやって来る。
開港式典は気候の良い初夏に行われる。ザフロンディの町が色とりどりの花に溢れる華やかな季節だ。
そして開港式典は約一ヶ月後に迫っていた。
町では式典に行われる剣術大会の会場の設備が行われ、参加の呼びかけや優勝者の予測などの声が飛び交っていた。それに伴って裏では賭けも行われているようだ。
その予選がいよいよ今週末から始まるのだ。腰に剣を差した腕に覚えのある男達が大通りを闊歩し、女達がその雄姿を眺めては華やいだ声を上げる姿が多く見られるようになった。
ヘンドリックもルイスやマックスと共に予選に申し込み、朝の鍛錬も三人で行うようになった。マックスは我流であったが動体視力や運動神経がよく、型破りな動きで相手を翻弄する実践向きの戦い方でヘンドリックを追い詰める事もしばしばであった。
マックスとは仕事の合間にも剣を合わせるようになり、最初は遠巻きに見ていた男達の中からも、自分にも教えて欲しいと頭を下げる者が出てきた。そして一人、また一人と加わっていき、今では店で働く男達のほとんどが、それも大会には参加しない者までもが、ヘンドリックに教えを乞うようになっていた。
リディアの思惑通りかそれ以上に、ヘンドリックは剣の稽古に明け暮れるようになり、アルトワ男爵家に行く事が出来なくなった。そうなるとディランが店に赴いてヘンドリックと打ち合わせをするようになり、その時間さえも稽古をしたい者達から文句が出るほどだった。
昼になると、ヘンドリックは食堂で男達に囲まれて剣の使い方や鍛錬の仕方を教えながら、慌ただしく昼食をとる。
「ヘンドリック様、食べ終わった後でいいんで、手合わせをお願いしますよ」
「俺も稽古をつけて欲しいです!」
「ヘンドリック様に言われた通り、薪割りやら防具をつけたまま走ったりしてますが、本当にこれで合ってるんですかねえ?一度見て下さいよ」
「わかったから、食べ終わるまで待ってくれ」
「黙って早く食べて下せい!喋る時間ももったいねえ」
「僕は剣の振り方を教えて欲しいです!僕、昨日アイロおじさんの店で剣を買ってきたんです。次の剣術大会には、僕も絶対に出たいんです」
「そうか。だが初心者は大会が終わってからにしてくれ!まずは出場する者達に指導したいと思ってるんだ」
「じゃあ、大会が終わってからも、剣の稽古は続けてくれるんですね。やった〜!!」
「おい小僧、でかした!ヘンドリック様、男に二言はないぞ!約束したからな」
「それは俺も参加したいが、まずは今週末の予選だよ。ヘンドリック様、早く食べて稽古しようぜ」
「わかった、わかった。わかったから食べさせてくれ」
そんな会話も日常茶飯事となり、昼食後にはヘンドリックと店の男達がそれぞれの武器を持ち、手合わせする姿が見られるようになった。予選が近づくと空き時間にもヘンドリックは誰かに捕まって剣を教える事が多くなり、そんなヘンドリックの姿を嬌声を上げながら店の女達が見ていた。
リディアは自分が仕向けた事とはいえ面白くなかった。短くなった右手親指の爪を噛みながら、女達に紛れてヘンドリックの姿を目で追いかけた。
(ロザリン様のところに行かないのはいいけど、あたしまでヘンリーと一緒に居られなくなってしまったわ。家でも疲れてすぐに寝てしまうし、こんなはずじゃなかったのに)
リディアは群れて嬌声を上げている女達から抜け出し、ロザリンを探した。一言文句を言わないと気が済まなかった。
ロザリンは倉庫で商品のチェックをしていた。外ではまだヘンドリック達の剣がぶつかる音、男達の野次や女達の嬌声が聞こえてくる。
「フフ、ロザリン様みーっけ!こんな所に隠れてたんだぁ。ヘンリーの雄姿を見に行かなくっていいんですかぁ?そのエメラルドの瞳に焼き付けてぇ、恋焦がれてぇ、もどぉしようもなくってぇ、泣き暮らしてもいいんですよぉ」
「あ、あの、リ、リディアさん?な、なな、何か、ご、ご用です、か?」
ロザリンはみっともなく狼狽えて倉庫内を見回しながら答えた。
「ざ〜んねん!倉庫にはあたしとロザリン様だけ。他はだあれもいませんよぉ」
リディアは唇を舌で湿らすと、獲物を狙う鷹のように目を輝かせてロザリンに詰め寄った。ロザリンは自分に興味を失う事を願うように、ただひたすらリディアを刺激しないようじっとしていた。
「ねえ、どうしてまだ仕事に来てるんですかぁ?もう来ないでって言いましたよねぇ。それにアルトワ様がヘンリーにちょっかい掛けるからぁ、邪魔するために余計な手を打たなくちゃいけなくなってぇ、ヘンリーと一緒にいられる時間が減ってしまったんですよぉ。ほんと、親子揃って邪魔ばっかりするんだからぁ。邪魔者親子ねぇ」
「お、お父様を、ぶ、侮辱するのは、や、やや、やめて下さい」
「ねえ、この前より吃るのが酷くなってないですかぁ?このままここに居ると、心が折れちゃってぇ、病気になるんじゃないですかぁ?自宅でゆっくり療養した方が身のためですよぉ。フフフ、貴族のお嬢様ともあろう方が不恰好ですねぇ」
「あ、あなたに、いい、言われる、す、筋合いは、あ、あ、ありませんわ!!」
ロザリンはスカートを握りしめて、顔を上げてリディアを睨むと、精一杯抗議した。
「え?なあに?聞こえないわぁ。ロザリン様、もう少し大きな声で話して下さいよぉ。よっぽど自分に自信がないのね。そりゃあ、こんなに吃ってちゃあ、自信もプライドも、ぜ〜んぶ失くなっていくだけよねぇ。ロザリン様かわいそう。プッ!アッハハハ!!」
リディアはおかしそうに笑った。
「あ〜、誤解しないでねぇ、ロザリン様。いじめてるんじゃないのよ。親切心で注意をしたんだけどぉ、こんなところを誰かに見られたら何を言われるかわからないわぁ。気をつけなくっちゃね!」
ロザリンはリディアの言葉に涙がこぼれた。怒りと、悔しさと自身に対する情けなさと意地と矜持が、グチャグチャに混ざり合って抑えられなかった。
ロザリンはリディアの横をすり抜けて出口へと走った。後ろからリディアの楽しげな笑い声が聞こえてきたが、耳を塞いで外へ飛び出した。
更衣室に上がる階段の途中で、ロザリンは商品リストを置いて出て来たのに気づいたが倉庫に戻る気にもならず、トボトボとした足取りで更衣室へと向かった。
更衣室には誰も居ず、ロザリンはソファに座って心が落ち着くのを待った。そしてネイサンに返事をするために、自身の気持ちを整理しようと考えた。
(ここまで言われても私はここを離れたくない。せっかく普通に話せるようになってたのに、前よりも吃音が酷くなってしまったわ。確かにこのままでは体調も崩してしまいそう。ケイティ商会に行けばこんな思いをしなくて済むかもしれないのに)
(でも私は、皆の温かい気持ちに応えたい。それに、やっとここに慣れたんだもの。新しい場所はやっぱり怖いわ。それにお父様からヘンドリック様の側にいるよう言われたもの)
ロザリンは答えに気づきたくなくて色んな理由を思い浮かべた。それはここに居るにはもっともだと思える理由だった。
だけど、それは本当の気持ちとは違うと言う自分がいる。その理由では納得できず、モヤモヤとしたものが心の奥底にわだかまっているのだ。
(そう。でもそれだけじゃない。リディアさんに嫌な思いをさせても、私はここにいたいの)
ロザリンは途方に暮れた。導き出した答えを認めるのが怖かった。それでも一度気づいた思いをなかった事にはできない。ロザリンは深く息を吸い込んで自分自身と向き合った。
(・・・そうよ。気づきたくなかったけど、認めたくないけど、少しでもいいの。リディアさんと結婚されるのもわかってる。私を好きになってとも思わないわ。でも、少しの間だけでも、私はヘンドリック様の側にいたいの)
「私は、ヘンドリック様を好きなんだわ」
ロザリンは自分の気持ちをそっと言葉にした。自然と涙がこぼれた。辛い恋になるのは目に見えている。だけどその思いを手放すつもりは露程もなかった。
「いいの。この恋を実らせるつもりはないし、告白もしない。でも、心の中で思うだけならいいよね」
ロザリンは涙を拭いて、自分に言い聞かせるように呟いた。