リディア3
結局その日はヘンドリックとロザリンがヤガまで荷物を運び、そのまま終業まで働いてからアルトワ男爵家に行った。
リディアはヘンドリックにすげなくあしらわれた事がショックで、気落ちしたまま接客をしていた。
「リディア、暗い顔をしてどうしたんだい?」
「あ、サーニンお兄ちゃん」
リディアはサーニンを見上げると、ポロリと涙をこぼした。
「あ、ごめんなさい。仕事中なのに」
「何があったんだい?話を聞くよ」
サーニンはリディアの持ち場の責任者に声をかけてから、リディアを事務室に連れて行った。
リディアにソファに座るよう言って、サーニンはお茶を淹れて戻って来た。リディアは項垂れたまま、お茶にも手を伸ばさずにいる。
「今度はどうしたんだい?」
リディアは首を振るばかりで答えようとしない。
「話したくないのかい?」
サーニンが優しく訊いても、リディアは項垂れたままでいた。
「ヘンドリック様に対して俺達もだいぶん慣れたから、もうリディアがいなくても大丈夫だよ」
サーニンの言葉に、リディアはハッと顔を上げた。
「あ、あたし、辞めたくないわ。今辞めたら、あたし心配でおかしくなっちゃう」
「何が心配なんだい?」
その問いにはやはり答えず、静かに泣きながら下を向いた。
「だったら、しばらく休むかい?」
リディアは首を横に振り、否定の意思を伝えた。
「リディア、辞めたくないなら、しっかり働かなくちゃダメだよ。仕事はお遊びじゃないんだ。今みたいに暗い顔で接客なんてするんじゃないよ。わかったかい?」
リディアは両手で顔を覆い、泣きながら話し出した。
「お兄ちゃん、あたしねぇ、あたし、捨てられたらどうしようってぇ。もしヘンリーに捨てられたらって心配なのぉ」
「喧嘩でもしたのか?」
「ううん。でもぉ、ロザリン様の護衛をして欲しいってサイラスおじさんが言った時にぃ、ちょっとだけ口論になったのぉ」
その時感じた不安をサーニンにぶつけるように言葉を続けた。
「あたしが、ヒック、ヘンリーの面子を潰したってぇ、怒ったのぉ。あたしはただぁ、ヘンリーの心配をしただけなのにぃ。自分は弱くないってぇ、口を出すなって、言われたのよぉ」
「そうか」
「あたしは、ヘンリーにぃ、ロザリン様と一緒に、働いて欲しくないのぉ」
「どうしてだい?」
「だってぇ、あたし・・・」
「あたし、不安なのぉ。学園にいた時には感じなかったのにぃ。あたしが、ヘンリーの世界にいた時はぁ、ヒック、平民のあたしは、特別だったのぉ、でも、あたしの世界では、特別なのはロザリン様なのぉ。と、特別じゃなくなったあたしは、きっと、平凡に見えちゃう。ヘンリーには、きっとぉ、つまらない、女に見えちゃう。わああああぁ!!」
リディアは抑えきれずに声を上げて泣いた。
サーニンはリディアが落ち着くのを静かに待った。
「リディア、泣く程辛いのなら、別れたら楽になると思わないのか?」
リディアは手で涙を拭いながら顔を上げた。
「別れるのは、絶対にイヤ」
「だったら、泣いてたってしょうがないだろ?前に言ってたじゃないか。嫉妬するより大切にするんだって。そうすればいいだろう?」
「・・・うん、うん。そうだね、そうする。そうよ、泣いてたってしょうがないもんね。話を聞いてくれてありがとう、サーニンお兄ちゃん」
「構わないさ。リディアはかわいい妹だからな」
リディアは頷くと、決意したような顔で晴れ晴れと笑った。
(そうよ、こうも言ったわ!あたしは戦うの。ヘンリーを取られないように、あたし、ロザリン様と戦うわ!!)
リディアはもう一度ありがとうと言うと、事務室を出て行った。仕事に戻ったリディアは落ち着きを取り戻して、普段通りに働いた。
仕事が終わると急いで家に帰り、ヘンドリックが帰るのを寝ないで待った。
ヘンドリックは夜遅くに戻ってきた。馬車が止まる音が聞こえると、リディアは玄関の扉を開けてヘンドリックを出迎えた。
「ヘンリー、おかえりなさい」
「あ、ああ」
ヘンドリックは一瞬驚いたが、すぐに不機嫌な顔になって返事をした。
「ヘンリー、ごめんなさい。あたしねぇ、ヤキモチ焼いてみっともなかったってなあって反省したのぉ。それとねぇ、あたしぃ、ヘンリーを信じるって決めたのぉ」
ヘンドリックは目を瞠った。
「リディ、それは本当かい?」
「うん」
ヘンドリックは柔らかい笑顔を浮かべ、リディアの肩に手を置いた。リディアは両手を胸の前で組み不安げに見上げた。ヘンドリックはリディアの目を覗き込むと、その心のうちを探るようにじっと見つめた。
「信じていいのか?」
「うん、信じてぇ。あたし、ヤキモチは焼いちゃうかもしれないけどぉ、ヘンリーの邪魔になるような事はしない」
「わかった。リディを信じよう。だが、次はないからな」
「ええっ?もしまた暴走しちゃったらどうなるの?」
「そうならないようにするんだろ?でも、そうなったら、そうだな。その時に考えるよ」
「そんなぁ・・・」
リディアは言葉に詰まり、目に涙を浮かべて俯いた。ヘンドリックはやれやれといった感じで伸びをするとソファに座った。
「リディ、お茶を淹れてくれないか?これからのことについて話したい事があるんだ」
リディアはヘンドリックにお茶を淹れた。ヘンドリックはカップを受け取ると、隣の座面をポンポンと叩いて座るよう促した。
リディアが座ると、太腿に置いてある手に自分の手を重ね、その甲を優しく撫でながら、ディランから頼まれた事を話し始めた。
「リディ、今日男爵家に行ったのは、先日の晩餐会の時に聞きそびれた話を聞く為だったんだ」
「そうだったの?」
リディアはスカートをギュッと握りしめて体を強張らせた。ヘンドリックは手を離すと、宥めるようにリディアの肩を抱いて引き寄せた。そしてもう一口飲んでから、サイドテーブルにカップを置いた。
「結論から言うと、私は王族と一緒にシャルナ王国の使節団を迎える事になった。グレアムのたっての願いで、今回に限り王陛下が許されたそうだ。ディランが受け取った王命の書状を確認してきたよ。だからしばらくはアルトワ男爵家で過ごそうと思う。サイラスの了承は得ているそうだ」
リディアはハッとしてヘンドリックを見つめた。
「ねえ、あたしはどうなるの?」
「ディランは来ていいと言ってるが、リディはどうしたい?婚約者として私と一緒に来るか、ここで私が帰るのを待つか、どうする?」
「あたしは、」
「どちらにせよ、忙しくなるだろうから、リディの相手はあまり出来ないと思うがいいかい?ああ、それとディランに頼まれて、夜会のファーストダンスはロザリン嬢と踊る事になった」
「えっ?ロザリン様と?どうして?」
リディアはスカートを離すと、両手でヘンドリックのチュニックを握りしめた。青い顔で問い詰めるように、ヘンドリックを見上げた。
「パートナーがいないらしい。だが踊らないわけにはいかないからな」
ヘンドリックはさも当たり前のように、軽い口調で答えた。
「あたしはどうなるの?」
「一緒に夜会に行くなら、私の婚約者としてエスコートするよ。それにリディのファーストダンスも、もちろん私がする」
「そう、あたしが二番目になるのね」
「ダンスだけだよ」
リディアは暗い気持ちで考え込んだ。ヘンドリックはご機嫌な様子でお茶を飲んでおり、リディアが強張った顔をしている事にも気がつかなかった。
「返事は今じゃなくていいよ。ゆっくり考えてくれ」
「わかったわ。ねえ、ヘンドリックはあたしにどうして欲しい?アルトワ様の家に一緒に行って欲しい?それともここで待っていて欲しい?」
「どちらでもいいさ。ただ、私に恥をかかせる事だけはしないで欲しいな」
「そんなぁ。あたしには何が恥になるかわからないわ」
リディアは途方に暮れた。
「リディ、これはただの夜会じゃない。親睦を深める為のものなんだ。自分が楽しむんじゃなく、相手を楽しませるものだ。わかるな?自分の事より、国の為と考えて行動すればいいだけだ」
「簡単に言うけどあたしには無理よ。だってあたしは平民だもん!あたしには何が国の為になるかわからない!!」
リディアはわっと声を上げて泣き出した。ヘンドリックは子供のようにしゃくり上げてなくリディアを慌てて抱きしめた。
「すまない、忘れていた。そうだった。すまない、リディ」
「どうせ、あたしなんて行かない方がいいんでしょう?ロザリン様と貴族同士で仲良くすればいいじゃない。作法も何もない平民のあたしが行くと、ヘンリーが恥をかくもんね!」
「リディ、言い過ぎた。私が悪かった。本当にすまない」
ヘンドリックは落ち着かせるように抱きしめながら、ただオロオロと謝り続けた。
ひとしきり泣いた後、リディアは鼻をぐずぐずさせて大人しくなった。ヘンドリックはリディアが身を離すまで抱きしめていた。
「ねぇヘンリー、気づいてる?晩餐会の時からあなたの口調、いつもと違って聞こえるわ。どうしたの?」
リディアは震える声で訊いた。以前の、王太子だった頃の話し方と同じだと感じていた。
「いつもと同じだと思うが」
「ううん。学園の時みたいよ。まだ王太子だった頃の・・・」
リディアに指摘されてヘンドリックは愕然とした。
「あ、私は、そんなつもりでは、なかったのだが」
「お城が懐かしくなったの?戻りたくなった?」
「い、いや。ただ、ディラン達と話していると、自分がまだ王太子であった頃に、気持ちが戻ってしまうんだ。シャルナ王国との交易は、王太子の時に抱えていた重要な案件だったから、だと思うが」
「そう。でもねぇヘンリー、あなたはもう王太子じゃないわ。それにあなたの家はここよぉ。あなたが帰る場所はぁ、あたしの隣、なんでしょう?ねぇヘンリー、お願いよぉ。一日の終わりには、必ずあたしのところへ帰って来て!」
「ああ、わかった。・・・そうだ。私の家は、ここだ。城ではない。私はロートリンデンではなくアシュレイだ。ヘンドリック=アシュレイ。それが、今の私だ」
ヘンドリックは喉の奥から絞り出すような声で、かつての名前を否定した。