アルトワ男爵家の晩餐会4
ヘンドリックはリディアの思いを受け止めて、早々に晩餐会を退席した。帰りの馬車の中で、リディアはいつになく無口だった。
「リディ、具合でも悪いのか?」
「別にぃ、そんなんじゃないわ」
「何かあったのか?」
「ううん。別に、何もないわ」
「だったらどうしたんだ?あんなに楽しみにしていたのに、急に帰りたいだなんて」
「疲れたちゃったのぉ」
「・・・そうなのか?それなら、いいが」
「ねえ、ヘンリー。あたしのこと、好きぃ?」
「どうしたんだい?誰かに何か言われたのか?」
リディアは小さく首を振った。
「あたしぃ、不安なのぉ。今日のヘンリーは学園生の時みたいにキラキラ輝いてたんだぁ。あたしの手が届かない人に戻ってぇ、このままあたしを捨てていなくなってちゃうかもぉって思ったのぉ」
「そんなわけないだろう?リディを置いて、どこに行くんだい?私の帰る場所はいつだってリディの隣だよ」
「本当にそう思ってるぅ?信じていいのぉ?」
「信じるも何も、城を出てからずっとそうしてきただろう?」
ヘンドリックは安心させるようにリディアの手を握り、優しく撫でた。
「うん。でも、あたし貴族じゃないしぃ、ピアノも弾けないもん。それにぃ、ヤキモチ妬いてヘンリーを困らせるかもしれない。ううん、絶対困らせちゃう」
「フフ、ヤキモチなんて焼かなくていいのに。それにリディのヤキモチなら可愛いもんだよ」
ヘンドリックは優しく微笑んだ。リディアはヘンドリックの手をそっと握り返し、泣きそうな顔で微笑んだ。
「あたしぃ、ヘンリーの側にいていいのねぇ」
「ああ、もちろんだよ。どうか私の側にいておくれ」
ヘンドリックは揺れる馬車の中、リディアの横に座り直して気落ちし項垂れているリディアの肩を抱いた。リディアはその胸に顔を寄せて、家に着くまでヘンドリックの優しさに甘えた。
ヘンドリックはパートナーとしての配慮が足りなかったと、リディアに対して申し訳なく思った。
家に着いてからも、リディアは浮かない様子で、休むと言って早々に寝室に引っ込んだ。ヘンドリックはお茶を入れると、一人ソファに座って、思いつくまま取り留めのない思いの中に沈んだ。
私は浮かれていた。今日の場は、かつて私が生きていた世界だ。そして私が城に置いてきたものだ。
つい話に夢中になってリディを疎かにしてしまった。その間に何かあったんだろう。楽しみにしていた晩餐会だったのにかわいそうな事をしてしまった。だが私はあの雰囲気が懐かしくて、今の生活より馴染み深く、そして何より楽しかったんだ。
ヘンドリックはそう感じた事に罪悪感を覚えた。
そしてリディアの様子に、ディランに頼まれたロザリンのダンスのパートナーを安請け合いした事を後悔した。
今のままだと、夜会には行かないと言うだろう。その時はどうすればいいんだろうか。
ああ、明日からまた、同じ毎日が繰り返される。それは王太子であった時も同じだった。仕事の内容は違えども、繰り返される事は同じだ。なのに何かが違う。何が?
仕事の中身が?それとも仕事の目的が?
国の政策か、日々の生活か。
国の未来か、刹那の日常か。
私には今の仕事は物足りないんじゃないかと、ジャックは言った。その通りだ。仕事の要領、手順だけを考えてする仕事はつまらない。だがそれだけじゃない。
心の充実感がない。仕事をこなしていても満足出来ない。
何かが足りない。
いや、深く考えるな。明日の事だけを考えればいい。生活していくのに関係のない事は考えても仕方がないんだ。
そうだ。この思いは気づかない方が幸せでいられる。この思いに名前を与えてはダメだ。
父の言葉が思い出された。
政治に関与すれば、リディの家族も巻き込んで処罰すると言われた。二度と王都に戻って来るなとも。
王として当たり前の、いや、温情ある処罰だった。父上は私に自由をくれた。だから、王にならなくとも、愛する人と一緒にいられるのならそれ以上は望まないと、二度と戻れなくても構わないと思っていた。
だがーーーー
胸の奥がチクリと痛む。
考えるな、気づくな。知らなくていい事は。
手に持つお茶が少しずつ冷めていく。
「私は後悔しない道を選んだんだ。何を揺れる事がある。よく考えた上で決めたはずだ。リディを愛し、幸せにすると誓いを立てたんだろう?それを破るのか?」
「答えは否だ。一時の熱情じゃない。それを一生かけて証明しなければならないんだ。今日は晩餐会の雰囲気に当てられて城での生活を思い出しただけだ。ただのホームシックだ。どうって事ない。私は間違ってなどいない」
ヘンドリックは温くなったお茶を一気に飲んだ。
自身が選んだ道を、何度も何度も繰り返し肯定しながら、現実を受け入れていかなければならなかった。
そして、それがヘンドリックの心を少しずつ少しずつ削っている事に、本人さえも気がつかなかった。
♢♢♢♢
一人になりたくてベッドに潜り込んだリディアだったが、今日の出来事がチラチラと浮かんできて眠れずにいた。
今日は最悪な一日だった。何よ、あのおばさん達!あたしに嫌な事ばかり言って何が面白いのよ。准男爵夫人だって?下品で高圧的で意地悪な、ただのおばさんじゃない。ヘンリーに力がないような言い方するのも失礼だし、あたしを笑うのも許せない!
それにロザリンの演奏が何よ!あんなの特別でも何でもないわ。授業でもあったもの。ヘンリーは学園祭の時、舞台で演奏してたわ。どっちかっていったらそっちの方が特別じゃない。なのに何でこんなにイライラするの?
学園じゃないから?
ただのヤキモチ?
わからない。何で?
学園であたしはヘンリーの特別だった。アンジェリカ様もあたしには敵わなかった。アンジェリカ様以外の誰がヘンリーの側にいても、あたしはヤキモチなんて焼かなかった。焼く必要なかったもの。
あたしはヘンリーに愛されてる自信があった。だって、学園であたしは特別だったから。平民で勉強ができて可愛いのはあたしだけだったもの。みんながあたしに意地悪してたのも、あたしが羨ましいから。みんなあたしになりたかったのよ。
それなのに、ここは違う。ここはあの特別な場所じゃない。ここは、あたしの生きてきた世界。あたしの世界。
ここではあたしは特別じゃない。あたしは輝けない。ここで特別なのはヘンリーだわ。
ヘンリーはどこででもキラキラと輝いている。
あたしとは違う。
ねえ、何でみんなあたしに意地悪するの?あたしがあの人達に何かした?何もしてないわ。あたしはただヘンリーが好きなだけ。好きになっただけじゃない。
何でヘンリーを好きになっただけで悪女って言われるのよ。婚約者がいたから?でもヘンリーはアンジェリカ様を好きじゃなかったわ。
ヘンリーが王太子だったから?でも王太子だって人間よ。好きでもない人と一生を過ごすより今の方が幸せなはずだわ。だって権力より何より、愛の方が尊いもの。
それにしてもロザリン、あの女!絶対に許せない。仕事でヘンリーと一緒だからって色目使ってベタベタするなんて信じられない。ヘンリーが優しいのを勘違いしてるんじゃないかしら?あんな女がヘンリーの側にいるなんてイヤよ。絶対にイヤ。
アンジェリカ様と同じ貴族の令嬢。あたしと違う。あたしとは正反対の人。
ロザリンなんて、あたし達の前からいなくなればいいのに。
みんな皆んないなくなればいい!!
あたしは怖い。
あたしは知ってる。
婚約は破棄できるって。
ヘンリーは嫌いになったら捨てる事の出来る人。
あたしとヘンリーは釣り合わないとか、ヘンリーの隣は似合わないって誰が言っても、あたしは信じないし認めない。例えヘンリーが言ったとしても、あたしは絶対にヘンリーとは別れない。別れたくないの。
ねえ、あたし、どうしたらいい?
どうしたらずっと、このままヘンリーと一緒にいられる?
どうしたら・・・
・・・そうよ!邪魔者がいなくなればいいのよ!
まずはロザリン。あの人ものすごく邪魔だもの。仕事にだって来て欲しくない。だって、来たらずっとヘンリーと一緒にいるもん。どうすれば来なくなる?ううん、来たくなくなるんだろう?
お願いだから来ないでって頼んでみる?
ダメ。今日突き飛ばしたもん。きっとあたしの言う事なんて聞いてくれない。
それに勉強に来てるって言ってたから、式典が終わるまでは学園に戻らないって挨拶してたはず。
我慢してたらそのうちいなくなるけど、その前にヘンリーを取られてしまうかもしれない。
やっぱり出て行くように仕向けなきゃ。
そうね、決めたわ。明日からやってみよう。
リディアはベッドから起き上がり、リビングに続く扉を開けた。
まずはヘンリーを大切に、ね。
「ヘンリー、今日は晩餐会を途中で抜けてごめんなさい」
ソファに座り、ぼんやりとカップを見つめていたヘンリーが、扉の開く音に顔を上げた。
「ああ、リディ。具合はどうだい?」
「ええ。だいぶん良くなったわ。お茶を飲んでたの?おかわり入れようか?」
「いや、それよりここにおいで」
ヘンドリックはカップをサイドテーブルに置くと、自分の横をトントンと叩いた。
リディアは頷いてヘンドリックの横に座った。ヘンドリックはリディアの手を握りしめ、その肩に頭を乗せて目を瞑った。
「リディ、許してくれ」
「何を?」
「今日はリディを一人にさせてしまったと思って」
「ううん、いいのぉ。でも寂しかったぁ」
「そうだな、私もだよ」
ヘンドリックは自分の言葉に胸が痛んだ。
(嘘だ。リディの事を忘れてしまうくらい楽しんでいた)
ヘンドリックは誤魔化すようにリディアをギュッと抱きしめた。リディアも抱きしめ返し、ヘンドリックの心臓の鼓動を感じた。ホッとして涙が出てくる。少しずつヘンドリックのシャツが色を変えていく。
「ヘンリー、愛してる。愛してるの」
「ああ、私も愛してる」
「ヘンリーがあたしを捨てたら、あたし、死ぬわ」
リディアは涙を流しながらヘンリーを見つめた。ヘンリーはそれを受け止めながら、暗い気持ちになっていくのを感じた。
「そんな事にはならないよ」
ヘンドリックはこれが自分の幸せなんだと、リディアの背を優しく撫でながら、温かくて柔らかい体やその存在を確かめた。