婚約破棄から始まった3
それからも度々、同じようなことがあった。
アンジェリカがヘンドリックと談笑していると、どこからともなくリディアが現れてヘンドリックを攫っていく。
半年が過ぎた頃、アンジェリカは我慢ができなくなり、リディアに忠告することに決めた。
学園祭の準備が始まる十月のある日、アンジェリカは手紙で放課後の空き教室にリディアを呼び出した。
「リディアさん、ここにお呼びした理由をお分かりになって?」
リディアは右手の人差し指を頰に当て、愛くるしい笑顔でキョトンと首を傾げた。
「わからないわ。あたし、あなたに何かしたのかしら?」
「そう、お分かりにならないのね。なら教えて差し上げるわ。私はヘンドリック殿下の婚約者ですの。婚約者のいる男性に馴れ馴れしく接するのは、マナー違反でしてよ」
アンジェリカは冷めた目でリディアの反応を観察した。少しも悪びれず、むしろ憐れんだ目を向けてくる。
「でも、ヘンドリック様が今のままでいいって言うんだもの。あなたとの婚約は自分の意思とは関係ないし、あなたのことも妹みたいとしか思ってないんですって。できれば婚約も無かったことにしたいって言ってたわ」
「何ですって!」
アンジェリカは目を瞠ってリディアを見た。指先の震えは手を握ることで止め、驚きを一瞬で押さえ込むと、平静を装って言葉を続けた。
「…そうですか。でもそれはマナー違反の言い訳にはなりませんわ。もし殿下がそう仰ったとしても、身の程を弁え、殿下の邪魔にならないよう身を引くのが、お慕いしている者としての務めではありませんか」
「えー?確かにあたしはヘンドリック様が好きですけどお、あなたの考えとは違うわね。あなたと違って、あたしは王太子のヘンドリック様が好きなんじゃないもの。ただ好きな人の側にいたいだけ。彼が求めてくることを叶えてあげたいと思っているだけよ」
「それが殿下のためにならないとしても、貴女はそれを続けるのかしら?」
「えー、どうかな?ヘンドリック様のためかなんて考えたこともないわ。ヘンドリック様が喜んでくれたらあたしも嬉しいし。それに、それがヘンドリック様のためになるんじゃないかなあって思うんだけど?みんなヘンドリック様に対して厳しすぎるのよ。あれじゃあ疲れちゃうわ」
リディアは少し考えてから、肩を竦めてにっこり笑うとそう結論付けた。
「ヘンドリック様は、将来この国を背負って立つお方。そのための努力を私と共に幼い頃からされてきたのです。リディアさんでは彼の横に立つには出自も、教育も、振る舞いも…全てが無理だとお分かりにならないのかしら」
「ね、貴女の言動はヘンドリック様の足を引っ張るだけだとお分かりになって」
「ひどい!いくらあたしのことが嫌いだからって、平民だからって、あたしのことバカにしないで」
リディアは目に涙を浮かべてアンジェリカを見た。それもいきなり。
「バカになどしておりませんわ。事実を申し上げているだけです。ヘンドリック様のことを想うなら、身を引くことが一番だと教えて差し上げているだけよ」
「ひどい、ひどい!あなたなんかヘンドリック様のこと好きでもないくせに。あたしの方があなたよりヘンドリック様に愛されてるのよ。悔しいからって嫌がらせしないでよ!」
リディアは床に座り込み、大きな声でアーンアーンと子供のように泣きじゃくり始めた。
「何を仰ってるの?そんな平民の恋愛のようなこと…私たち貴族の間では重要ではありません。家のため、国のためになるかが大切なのです。貴女もこの学園に来たのなら、貴族のことも勉強なさったらいかが?」
アンジェリカは落ち着いた声音で言葉を続けた。
「それに、私だって幼い頃からの婚約者です。ヘンドリック様とは穏やかだけれど信頼と愛情を育んで参りましたのよ。もちろんお慕いしていますわ」
アンジェリカが尚もリディアを説得しようと話し始めた時、いきなり扉が開いてヘンドリックが飛び込んで来た。
座り込んで泣いているリディアに駆け寄ると、あやすように背中を優しく撫でながら、アンジェリカを睨んだ。
「何があった?どうしてリディが泣いてるんだ?」
「私は、、、何もしておりません。リディアさんに色々と教えて差し上げていただけですわ」
ヘンドリックの後から、ウィリアム達が部屋に入ってきた。三人とも微妙な顔でアンジェリカとヘンドリックを交互に見て溜息をついた。
「ヘンドリック、リディア嬢を落ち着かせて差し上げたらいかがですか?スチュ、付いて行って」
「ああ、そうだな。リディ、立てるか?」
リディアはまだグズグズと鼻を啜っていたが、ヘンドリックに支えてもらい立ち上がると、抱えられるようにして教室を出た。出る前にアンジェリカを振り返り
「私、アンジェリカ様には屈しませんから」
と言い残して扉を出て行った。
「はあ。アンジェリカ嬢、一言相談していただきたかったです」
リディア達が部屋を出ていった後、ウィリアムが頭を抱えながら言った。
「ごめんなさい。でも、ヘンドリック様や貴方達は、生徒会の仕事でお忙しいと思ったので遠慮したんですわ」
「で、何があったんですか?」
アンジェリカはリディアとの話の内容を包み隠さず二人に話した。
「そうでしたか」
ウィリアムはこめかみを抑え、難しい顔をして黙り込んでしまった。見かねてアーノルドが言葉を挟んだ。
「あのね、アンジェ、僕たちも何度も何度も二人に忠告してきたんだよ。それこそアンジェと同じようにね。でも無駄なんだ」
「何がですの?」
「あのね、あの二人、脳内お花畑の雲の上の住人なんだ」
「こら、アルやめろ」
「えー、もういいじゃない。アンジェが言ってもわからないんだから、僕達じゃ止められないよ」
「もう、ほんと無理。お手上げ」
アーノルドは片眉を上げてホールドアップしてから、親指で首を切る動作で舌を出した。榛色の瞳には軽い憎悪の色が浮かんでいる。相当苦労しているのだろう。
そういえばウィリアムも疲れた顔をしている。
「はあ〜」
二人は盛大な溜息をついた。
アンジェリカも心の中でそれに倣った。
「このことは、陛下や王妃様はご存知なのでしょうか?」
アンジェリカは二人の様子を思い出しながら、ウィリアムたちに聞いた。
「ああ、報告はしている」
「でも何も言わないんだよな、二人とも」
「そうですか。たぶん卒業までに、私達だけで解決されることを望んでいるのでしょう。私の王太子妃としての力も試されているのかもしれませんね。それと、ヘンドリック様が自覚されるのを」
「ああ、そうだな。卒業まで後半年…間に合うだろうか」
ウィリアムの言葉に、三人はまた大きく息を吐いた。
「とりあえず、ヘンリーたちは周りから言われれば言われるほど親密になっていくんだ。だから僕達は最近はもう、あまり何も言わないでいるよ」
「リディアに説得は難しいんだ。彼女の心臓には毛が生えてるからね。何を企んでるんだか知らないけど、絶対にヘンリーから離れないんだよ。ほんと気持ち悪い」
アーノルドはお手上げだよとばかり首を振りながら悔しそうに言った。
「そうだな。それに脅迫も通じない。ヘンドリックも厄介な者に見込まれたもんだよ。まるで妖怪だな」
ウィリアムは眼鏡をくいっと持ち上げながら、諦めたように呟いた。黒髪がサラリと額にかかった。
「私は、ヘンドリック様と話をしたいです」
ウィリアムとアーノルドは顔を見合わせた。アーノルドが躊躇いながら、アンジェリカに向かって口を開いた。
「たぶん無駄だよ。それにアンジェが嫌な思いをすると思うから、、、やめた方がいいよ」
「でも、このままではヘンドリック様は王太子としての資質を問われてしまいますわ」
「そうですね。私もこのままではヘンドリックは廃嫡されるだろうと危惧しています」
ウィリアムが言えばアーノルドも
「僕も今のヘンドリックには忠誠を誓えないよ。ヘンドリックの言う通りにすると、きっと国が滅びちゃうよね」
二人とも真顔でアンジェリカを見た。
「誰の忠告も聞かない王様なんて、国にとっては害悪でしかないでしょう」
ウィリアムは突き放すように言った。
「そんな…ウィリアム様、お待ちになって。何度でも、目を覚まされるよう言い続けなければいけませんわ。私は諦めません。ヘンドリック様を、二人で過ごした時間を、理想の未来を語り合ったその思いを信じます」
アンジェリカは両手を胸の前で握りしめ、決意を込めて宣言した。ヘンドリックの横に、再び立てるようにとの思いを込めて。
それからしばらくして、アンジェリカはヘンドリックと話をした。
「ヘンドリック様、ヘンドリック様はこの国の未来を、私たちの将来をどのように考えられていらっしゃるんですか?」
「私は、アンジェリカとの将来については何も考えられない。国の未来については、リディが言う平等で公正な社会というものに惹かれている。貴族も平民もない、競争も貧富もない。皆が自由で貧富の差がない暮らしだ」
「…大した理想ですのね。でもその思想には人間の本質が抜けていますわ。人とは他者よりより良い暮らしを欲し、損をすることを厭うもの。そのような国を作りたいのであれば、まずは教育に力を入れなければなりませんね」
「私を否定するのか?」
「否定ではありませんが、もう少し現実に目を向けていただけたらとは思いますわ」
「生意気だな。自分の方が私より偉いと思っているのか?」
以前のヘンドリックならば、アンジェリカの意見を尊重し、二人で議論することもできたが、今は意見を言うほどにヘンドリックを怒らせてしまうようだ。
「そんなことはございません。私は以前のように、ヘンドリック様と様々なことについて話し合いたいだけなのです」
「リディならば私の意見に頷き、具体的な政策の話へと発展するものを。おまえとはまともな話し合いもできない」
「ヘンドリック様、この国を統べる貴方をお支えするのは私です。リディアさんではありません。そのための王妃教育も続けているのです。国内外の社交も、交渉も、リディアさんには無理でしょう。お願いします。私を、現実を見て下さいませ」
「煩い、黙れ。ガミガミ、ガミガミ小姑のように。もうおまえと話をすることはない。今後は私の前から消えろ」
ヘンドリックは目を怒らせ、声を荒げてアンジェリカに言い放った。
「ヘンドリック様。このままでは大変なことになります。どうか目を覚まされて下さい!ヘンドリック様!」
ヘンドリックは、アンジェリカが両手を胸の前で握りしめ、涙を浮かべて哀願する様子を忌々しげに睨みつけると、足早にアンジェリカの前からいなくなった。
それからもアンジェリカは、何度となくヘンドリックやリディアを呼び止め、呼び出し、説得や忠告を続けたけれど、ウィリアムたちの言うように、余計に二人の仲を強固にするだけだった。
そして、アンジェリカの行動はリディアによって歪められ、ヒロインを苛める悪役令嬢としてヘンドリックに伝えられたのである。