小さな綻び
「父さん来たわよ!早く昨日の続きを話そう!」
「はあ、全くお前はせっかちだな。とりあえず座ったらどうだ?」
リディアはそうねと頷いて席に着いた。ヘンリーもそれに倣う。
「わしは一度口にした事は反故にはせん。サイラスにも話は通した。だが結婚については、わしはまだ認める気にはならん。しばらく様子を見るつもりだ」
「いやよ。父さんお願い!今認めて欲しいの」
「リディ、無茶を言ってはダメだよ。可能性があるなら様子を見てくれて構わない」
「…そう?ヘンリーがいいなら、それでいいわ」
「そう言ってくれて良かったですよ。それよりリディア、明日からサイラスの店で働くんだろう?仕事の内容は決まったのか?」
「ううん、まだ決まってないわ」
「そうか。どんな仕事であれ喜んでやりなさい。何事にも無駄はない。仕事がなければ探しなさい。自分でなくお客様のために何が出来るかを考えなさい。真面目に、誠実に取り組むんだ。わかったね」
「わかってるわよ」
ジャックは明日からの仕事が上手くいくよう心から願った。ソフィもまた、三人のやり取りを聞きながら、二人の幸せを願わずにはいられなかった。
「さあさあ、話も終わったならお茶にしましょうか?」
ソフィはお茶の用意をするために席を立った。
「すみませんが、何とお呼びすればいいですか?いつまでも王太子殿下では、その、なんといいますか・・・・・・」
「ああ、そうですね。ジャック殿とソフィ夫人は、私の義理の両親になるのだから。ヘンドリックでも、ヘンリーでも好きに呼んでくれて構わない」
「わかりました。ではヘンドリックさんと呼ばせてもらいます」
「ああ、それでいい。では、私は義父上、義母上とお呼びしていいだろうか?」
「そんな、畏れ多い。わしのことはジャックと呼んで下さい」
「私のこともソフィとお呼び下さい」
「仕方ありませんね。では義父上、義母上と呼ぶのは、結婚した後の楽しみに取っておきますよ」
ヘンドリックはそう冗談めかして笑った。
♢♢♢♢
翌朝からヘンドリック達の朝は忙しくなった。
まずヘンドリックはルイスとの剣の稽古を再開し、早朝から鍛錬に勤しんだ。それが終わると、一息つく間もなく水を汲んで甕に移し、お茶の用意をする。
リディアも以前より早く起きて朝食の支度をした。
朝食が済むと支度を整えてサイラスの店に出勤する。
町でも手広く商売を営むサイラスの店は従業員も多く、本店には仕入れを担当する者、商品の開発や加工をする者、販路開拓をする者、製造する工場や他店舗との連絡係、売り子、経理、雑用など、仕事も多岐にわたっている。
初出勤の日、二人が店に着くと、リディアは事務室に来るようサイラスに呼び出された。
「やあ、リディアちゃん、早く来てもらって悪いね。今日からしばらくは新人にやってもらう掃除と雑用を、旦那さんにはそれに加えて力仕事もお願いするよ。仕事に慣れたら他の仕事も順にやって貰うからって伝えておくれ」
「フフ、まだ旦那さんじゃないわよぅ!サイラスおじさんたら照れちゃうじゃない!!わかったぁ、伝えておくね」
リディアはサイラスの腕を叩きながら、嬉しそうに体をくねらせた。
「それと、その、言いにくいんだが……リディアちゃんは……あの、噂の事は聞いているかい?」
「なんの噂?」
「あー、その、王太子殿下が廃嫡されて、その、リディアちゃんが悪女だっていう、その、あまり良くない噂だよ」
サイラスは言いにくそうに、人差し指で頰をポリポリ掻きながらリディアを見た。
「ええ、ルイスから聞いたわぁ。誰が言い出したのかしら?本当にイヤになっちゃう!なんにも知らないくせに!」
サイラスはギクっと体を揺らした。
「いや、私は悪女だなんて言ってないよ。誤解しないでおくれ。ただ、うちと取引のある王都の人間が来た時に、王太子廃嫡だとか、その相手が学園の平民の女生徒だったとか、そんな話をして帰ったんだ。リディアちゃんの名前は出なかったが、ヘンドリック王太子殿下は肖像画も出回っているからね。気づく人間もいるよ」
「そんなぁ。あたし悪女なんかじゃないのにぃ。陰で噂されてても、いちいち反論なんて出来ないしぃ、でも言われっぱなしはイヤだしぃ!ねぇ、どうすればいいと思う?サイラスおじさん!」
「そうだねえ、難しい問題だが、この町で暮らしていくなら我慢するしかないねえ。それか王都から遠く離れた町なら、王都での出来事を知らないかもしれないよ」
「でも、家も買ったしぃ、あたしはここで暮らしたい」
「じゃあ、辛抱だよ。何を言われても腐らず真面目に働いていれば、わかってくれる人も出てくるよ」
「そう?・・・それしかないのかなぁ?もっとパパッと解決する方法はないのかしらぁ?」
「それは難しいと思うよ。まあ、人の噂も七十五日って言う
からね。それまでじっと我慢だよ」
「あーあ、ただ好きになっただけなのになぁ。まあ、いいわ。仕方がないもん。仕事のこと、ヘンリーにも伝えとくね」
「ああ、お願いするよ。長くなって済まないね。じゃあ、戻っていいよ」
リディア達はサイラスに言われた通り、店の前の掃除を始めた。ヘンドリックは初めて持つ箒や雑巾などの使い方をリディアに教えて貰い、慣れない手つきでその辺を履き始めた。
「掃除もなかなか難しいもんだね」
ヘンドリックが呟いていると前方から声がした。
「あら?貴方、お店に時々買い物に来てたでしょう?まさか今日から働くの?そうだったら嬉しいわぁ!お手伝いしましょうか?」
ヘンドリックが顔を上げると、茶色い髪を一つに纏めた妙齢の女性が立っていた。ヘンドリックと目が合った途端、頰を真っ赤に染めて立ち止まった。
その後ろから黒い髪をきれいに編み込み、左側に一つに纏めて肩に垂らした、艶っぽい女性が声をかけてきた。
「あら、私が言おうと思ってたのよ。ねえ、お名前を聞いていーい?私はエマよ。この店で売り子をしてるの。ねえ、貴方と仲良くなりたいわ。仕事が終わったら一緒に食事でもどう?」
どう?と声をかけた瞬間にヘンドリックと目が合い、エマは一気に頰を上気させて立ち尽くした。
エマの台詞を聞いて、もう一人が夢から覚めたように目を瞬かせた。
「あ!エマ、狡いわ!!あたしが先に声をかけたのよ。ねえ、私の名前はサリアっていうの。エマと同じ売り子よ。貴方の事知りたいの。お茶でもいいわ、どうかしら?」
「あら、私も貴方の事を色々教えて欲しいわぁ。ね、いかが?それとも年上はお嫌い?」
二人は頬を染めて自分を売り込むようにヘンドリックにアピールする。売り子だからか二人ともとっても美人だ。
「おはようございます。エマさん、サリアさん。今日から働くことになったリディアです。この人はあたしの婚約者のヘンドリックよ。どうぞよろしくお願いしますね」
リディアはヘンドリックの腕を組むと、二人に向かって笑顔で挨拶をした。ヘンドリックは微笑みながら、胸に手を当て騎士の礼をした。
「初めまして、美しいレディ。私はヘンドリック=アシュレイ。これからよろしく頼む」
「あらぁ、ヘンドリック様ていうのねぇ。正統派のイケメンだわぁ。私のドストライクよん!!ぜひお近づきになりたいわぁ。フフ、して欲しい事があれば何でもしてあげるわよ!」
「ま、エマったら下品ね!恥ずかしい挨拶はやめてちょうだい。でも本当に素敵な方。ずっと見ていたいわ!わからないことがあったら、私に何でも聞いてね!丁寧に一つ一つ教えてあげるわ」
「下品だなんて失礼ね、サリア。あなたの挨拶だって下心が透けて見えてるわよ!男の人はお堅い女より色っぽいお姉さんの方が受けがいいのよ。ねぇ、ヘンドリック様もそう思うでしょう?」
「エマ、あなたって本当に失礼な人ね!!いい加減にしてちょうだい」
「私は明るくて素直で可愛らしい人が好きですよ。ね、リディ」
ヘンドリックはそう言うと、リディアの手を取ってその甲にキスをした。リディアは嬉しそうにヘンドリックに微笑みかけた。
途端に二人は顔を赤く染め、小さな声で言い訳を始めた。
「みっともない真似をしてしまったわ。気分を悪くされたならごめんなさい」
「ええ。普段はこんなに歪みあったりはしないのよ。サリアも悪かったわね」
「私もごめんなさい。それより早く行かなきゃ遅れてしまうわ。じゃあまた後でね、ヘンドリック様」
「ええ」
二人はヘンドリックを見つめて挨拶をした。それから名残惜しそうにチラチラとヘンドリックを振り返りながら、渋々店の中に入って行った。最後までリディアの事は眼中にないように振る舞った。
「ハハ、面白い人達だったね。学園の令嬢達を思い出したよ。まあ、令嬢達は私の前では歪みあったりはしなかったがね」
「ヘンリー、貴方わざと言ってるの?どう見ても貴方に色目を使ってたじゃない?あたしの事はまるっと無視して行ったわよ!」
「そうかい?気づかなかったよ」
「でも、途中であたしを大切にしてるって、見せつけてくれたのは嬉しかったわ。本当に油断も隙もないのね。一緒に働けて良かったわ。でなかったら心配で、毎日店まで押しかけてたかも!!」
「リディは大袈裟だなあ。心配しなくても、私が愛してるのはリディだけだよ。それに知ってるだろ?私があの手の類いは相手にしないてことを」
ヘンドリックは店の前に関わらずリディアを抱きしめた。
「コホン、コホン」
二人が顔を上げると、サイラスが立っていた。
「申し訳ないですが、仕事中はそういったことはしないよう、気をつけて頂きたいですな」
「あ!ごめんなさい、サイラスおじさん。つい愛を確かめ合っちゃったの。これから気をつけるわ!」
「そうだな、気をつけよう」
「よろしくお願いしますよ。おい、サーニン、マックス、こっちに来なさい」
サイラスが店の奥に呼びかけると、返事がして大柄な男が二人出てきた。
「紹介します。サーニンとマックス、私の息子達ですよ。私は忙しいので、なかなかお二人にお教えする事は出来ませんので、これからはサーニンの指示で仕事をして貰いますよ。年も近いし、困った事はサーニンに聞いて下さい」
「ええ、わかったわ。サーニンお兄ちゃん、よろしくね!」
「ああ、こちらこそ。ところでリディア、仕事中はおじさん、お兄ちゃん呼びはやめてくれよ。父さんの事はさん付けで、俺とマックスは呼び捨てでいいから。アシュレイ様もどうぞ呼び捨てにして下さい。マックスもそれでいいな」
「ああ」
「ちょっと待って!マックスは呼び捨てでいいけど、お兄ちゃんの事はサーニンさんって呼ぶわ。いい?」
「ああ、いいよ。呼び捨てでもどっちでも。それより、その、アシュレイ様だが、俺達はどう呼べばいい?」
「雇い主と上司なんだから、私の事はヘンドリックでもヘンリーでも、好きに呼んでくれて構わない」
「いや、それは俺達には難しいです。……では申し訳ありませんが、ヘンドリックさんと呼ばせて貰います」
サーニンはペコリと頭を下げた。
こうして二人はサーニンの元で仕事をする事になった。