婚約破棄から始まった2
アンジェリカは邸に戻ると、自分の部屋に駆け込んだ。
こうなるかもしれないと感じていた。
できるならば、こんな風にはなって欲しくなかった。
でも何度諌めても、諭しても、強く言えば言うほど、ヘンドリックはリディアに気持ちを向けていった。
「私の何がいけなかったのかしら?」
アンジェリカは鏡の中の自分を見つめた。
ヘンドリックと同じハニーブロンドの柔らかな巻毛。形のいい眉、瑞々しい新緑色の瞳は知性的な輝きを宿している。透き通るように白い肌にほんのり色づいた頬、スッとした鼻筋と愛らしい唇。
細い首になだらかな肩、華奢だけれどそこそこ出るところは出ている、魅力的で女らしい体つき。
背はそんなに高くはないが、常に背筋を伸ばし、凛とした姿勢と品のある優雅な仕草が、実際より彼女を大きく、大人っぽく見せていた。
今日のドレスは、髪飾りと合わせたブルーを基調とした、可愛らしいが少しだけ大人っぽいデザインもの。
髪飾りは、ヘンドリックが学園に入る五年前、二人がまだ仲良く過ごしていた頃に贈られたもの。ブルーサファイアの深い青を中心に、ダイアモンドをあしらった透かし彫りの大人っぽいデザインで、ヘンドリックと一緒に出席する会には、いつもこの髪飾りをつけ、ヘンドリックのエスコートで参加してきた。二人と共に歩んできた思い出の品だ。
アンジェリカは今日の卒業記念パーティーにも、その髪飾りをつけて行った。エスコートは断られたが、二人の歴史を刻んだこの髪飾りを見て、少しでも自分のことを思い出してくれればと淡い期待を抱いていたのだが、それも見事に打ち砕かれてしまった。
周りからは完璧な淑女と言われていたが、それに驕ることなく努力することも忘れない。ほんの少しストイックで甘え下手な女の子だと、アンジェリカは自分を分析していた。
婚約した幼い頃から、同じ髪色の可愛らしい二人が寄り添う様子は、まるで一対の雛人形のようだと、周りの大人たちから微笑ましく見られていた。
二年後に、アンジェリカが卒業するその年に、結婚式を挙げる予定だった。そして陛下の元で実績を積んでから、譲位され、二人で支え合いながら国を治めていく、はずだった。
「本当に、ヘンドリック殿下はどうされてしまったのかしら。それに…これから私たちはどうなってしまうのかしら」
アンジェリカは鏡の中の、困惑し疲れて青ざめた顔に向かって呟いた。その瞳は不安気に揺れ、今にも泣き出しそうに頼りなげで、心許なく見えた。
アンジェリカは鏡を見つめながら、自身が高等部入学した一年前を思い出した。
忙しくてなかなか会えなかったヘンドリックだが、同じ校舎になったから、これからは昼食や放課後に一緒に過ごせると胸を躍らせていた。だが学舎内ですれ違う時には、たいていヘンドリックの腕にしがみつくようにリディアが一緒だった。
側近のウィリアム=セヴァン侯爵子息、スチュアート=ギャレリー伯爵子息が気を利かせて、アンジェリカとヘンドリックの二人きりになった時でも、当のヘンドリックは心ここに在らずの状態であったなと思い出した。
「そういえばあの時も…」
アンジェリカが入学して、まだリディアのことも知らずにいた頃、たまたま食堂近くの廊下を歩いているヘンドリックを見つけ、挨拶をしようと歩み寄った時のこと。
「ヘンドリック様、ごきげんよう」
アンジェリカはにっこりと微笑んで、制服のスカートを摘みカーテシーをした。
「ああ、アンジェ。久しぶりだな。学校には慣れたか?」
「ええ。だいたいの場所は覚えましたわ。最近はお気に入りの場所を探しているところですの。ヘンドリック様にはお気に入りの場所はありまして?」
「ああ、そうだな。何ヶ所か良く行くところはあるが」
「まあ、そうですの?宜しかったら教えていただけたら嬉しいですわ」
アンジェリカは瞳を輝かせてヘンドリックを見つめた。
「ああ、それはいいが…」
「本当ですか?嬉しい!ねえ、ヘンドリック様はいつがよろしいですか?」
アンジェリカは思わず頬に手を当ててにっこりと笑った。
なかなか会えなかったけれど、これからはまた以前のように、少しずつでも時間を合わせていけば、元の関係に戻れるのではないかと思えた。
「ヘンドリックさまぁ、ここにいたんですね。探したんですよぉ」
バタバタと足音を立て、ピンクゴールドの巻毛をツインテールにした女生徒が走り寄って来た。
その後ろを苦虫を噛み潰したような顔で、ウィリアム=セヴァン侯爵子息、それにスチュアート=ギャレリー伯爵子息、乳兄弟のアーノルド=レガート子爵子息が追いかけて来る。
「はあ、はあ、やっと見つけた。もう、放課後は私に勉強を教えてくれる約束をしてたでしょう?なのに教室に行ったらいないから、あちこち探し回っちゃったじゃないですかぁ」
「リディ…すまない」
リディと呼ばれた女生徒は、頰を上気させ息を切らしている。息を整えることもせず、流れるようにヘンドリックの手を両手で掴むと、胸の前でギュッと握った。そしてプッと頬を膨らませてヘンドリックを見上げた。
「はあ、リディア嬢。今日は婚約者であるアンジェリカ嬢と時間を取ってもらうために、勉強は私たちで教えるって伝えたはずでしょう」
ウィリアムが冷たい口調でリディアに言った。
「だぁってぇ、ウィル様もスチュ様もアル様も意地悪なんだもん。一緒に勉強してても楽しくないからやだ」
リディアはプイッと顔を背けて怒った様子で、ウィリアムを睨んでいる。
アンジェリカはリディアの令嬢らしからぬあけすけな言動や振る舞いに、驚きすぎて目を瞠るばかりだった。
「はあ。リディア嬢、私たちのことを愛称で呼ぶことは許していません。やめて下さい」
ウィリアムは走ったせいで乱れた黒髪を手櫛で整え、眉間に皺を寄せて大きく息をついた。そして中指で眼鏡をくいっと上げて、リディアを睨みつける。
「はぁい。今度から気をつけますぅ」
リディアはヘンドリックの手を握りしめたまま、恐れる様子もなく会話を続けた。ヘンドリックは手を払い除けるでもなく、愛おしむような笑顔でリディアを見つめている。
「あの、ヘンドリック様。どういうことなのか教えていただけませんか?」
見たこともないヘンドリックの表情に、アンジェリカは戸惑いと怒りと不安がないまぜになった気持ちを抱いたが、スカートをギュッと握りしめ、平静を装って尋ねた。
「ああ、紹介しよう。こちらはリディア嬢。実はリディアと先に約束をしていたんだ。ウィルたちに君と会うように勧められたから、そうしようとは思っていたんだが…」
紹介されたリディアはペコリと頭を下げた。ヘンドリックはリディアの腰に自然な仕草で手を添えると、言い辛そうに言葉を続けた。
「だが、やはり約束の方を優先しようと思う。アンジェリカ、いいだろうか?」
「いいも何も…ヘンドリック様のお心のままになさって下さいませ」
アンジェリカは蔑ろにされたことに屈辱を感じたが、あまり強くも言えず、そう言葉を紡いだ。
「そのかわり、先程のお約束、楽しみにしておりますわ。ヘンドリック様のご都合のよろしい日を教えて下さいませね」
アンジェリカはスカートを摘んでカーテシーをすると、返事も待たずに踵を返してその場を去った。
「アンジェリカ嬢、お待ち下さい」
後ろからウィリアムとアーノルドが追いかけて来た。アンジェリカが振り返ると、追いかけて来た彼らの背後に、微笑み合う恋人同士のような二人の姿と、その横でスチュアートが呆れた顔をして立っているのが見えた。
「アンジェリカ嬢、お二人の時間を潰してしまい申し訳ありません」
ウィリアムが頭を下げた。
「いつからなのです?」
アンジェリカの質問に二人は顔を見合わせると、ウィリアムが言いにくそうに話し始めた。
「…私たちが高等部に入学した頃からです。彼女はリディア、平民です。同じクラスだったんですが、ヘンドリックにも我々にも、最初から先程のような態度で接してきて…何度注意しても未だに改めることなく付き纏っています」
「ヘンドリックにとっては新鮮な驚きから興味を持たれたようで、ああして構われるようになったんです。もちろん初めはアンジェリカ様がいらっしゃるので、触れ合ったりなどはなさらなかったのですが、リディア嬢が気にせずスキンシップを重ねていくうちに抵抗がなくなったようで…」
「…そう」
アンジェリカは下げた手をギュッと握りしめ、唇を噛みながらウィリアムの話を聞いている。
「そんなリディア嬢の振る舞いに、女生徒たちからの警告や嫌がらせが度々行われるようになりましたが、その都度ヘンドリックが助けに行っておりました。二人の気持ちが…というよりリディア嬢は最初からヘンドリックに好意を向けていたので、ヘンドリックが絆されていったのです」
「ヘンドリックには、こんな関係は認められないと、婚約者のいる人間の振る舞いではないから改めるようにと、何度も忠告しました。国の未来を考えて行動するようにとも」
「リディア嬢には、ヘンドリックはこの国の王太子であり、素晴らしい婚約者もいるのだと。リディア嬢では王妃にはなれない。貴女の存在は、殿下にとって百害あって一利なしだと知れと、離れるように何度も忠告したんですが聞き入れてもらえませんでした」
「リディアはそれがどうしたって言うんだ。ヘンリーにとっては自分との関係が一利はあるだろうって。自分といる時のヘンリーはとても幸せそうだって」
ウィリアムに被せるように、アーノルドが言葉を続けた。
「確かに、リディアは魅力的だと思う。顔も可愛いしね。それに貴族の令嬢たちとは全てが違ってるんだ。僕も新鮮だったよ。でもそれは無知からの言葉だったり行動だって気づいたんだ。ヘンリーもそのうち気がつくと思ったんだけどな」
「リディアはさ、自分の心に素直に従うんだ。嫌なことは嫌だって言うし、嬉しいとぴょんぴょん飛び跳ねながら満面の笑みで喜ぶ。見ていてわかりやすくて安心する」
「アーノルド様もリディアさんを好意的に見てるんですね」
アンジェリカは地面を見ながら、沈んだ声で相槌を打った。二人の言葉に理解も、感情も追いつかない。
「アンジェ、それは違う。まあ最初はそう思ったこともあったよ。珍しかったからね。でも、リディアはあからさまにヘンリーに好意を見せ始めたんだ。嫌がらせを受けても気づかない、気づいても気にしない。心臓に毛が生えてるのかってくらい図太い神経の持ち主なのさ。今は呆れて側にいるのも嫌だよ」
「でもこれ以上変な噂が立たないように、私たちは側近として、二人きりにはさせないよう気をつけていたんです」
ウィリアムは苦々しげに、吐き捨てるように言った。