新しい生活の始まり3
ヘンドリックは日が暮れる前に湖の辺りに到着した。道々枯れ枝を拾いながら歩いたが焚き火をするには不十分だ。大木を背にして野営をしようと湖畔を見渡すと、対岸に小屋を見つけた。こんな山奥でも来る人がいるんだなと感心して、ヘンドリックは小屋へ向かった。
小屋の近くには山の湧き水が引かれていて、半分に割った竹の中を水がチョロチョロと流れていた。水が落ちた所は、小さな池になっていて、そこから溢れた水が小川を作って湖に流れ込んでいる。
小屋は扉が開かないよう外から簡単にロープで施錠されていた。ヘンドリックがロープを解き中に入ると、広めの土間と板間があった。土間は炊事ができるよう流し台があり、鍋や薬缶、盥などが置いてあった。
部屋の中央には囲炉裏があり、上から鍋や薬缶が吊り下げられるようになっている。
ヘンドリックは土間に荷物を下ろすと大きく息を吐いた。
「ああ、よく歩いた。フム、猟師小屋か。しばらく使われてないようだがありがたい。今夜はここで休もう」
ヘンドリックは土間に置いてある炭を見つけて囲炉裏で火を熾し、外の湧き水で薬缶を洗い水を入れて火にかけた。日中は暖かくなったとはいえ、まだまだ山の夜は冷える。盥に湯を張り、布を固く絞って顔や手を拭き、疲れた足を浸すとやっと人心地がついた。
ヘンドリックは暖かくなっていく部屋の中で簡単な夕食を取った。腹が満たされると、一日の疲れが眠りを誘う。
ヘンドリックは腕を枕にしてマントに包まると板間に寝転がった。すぐに睡魔が襲い深い眠りが訪れた。
夜中に寒さで目が覚めると、囲炉裏の火が消えかけているのに気がついた。ヘンドリックは炭を足し、吊り下げてあった薬缶からカップに湯を入れた。湯はまだ温かく、カップを持つ指先からじんわりと温もりが広がっていく。
「リディはどうしているだろうか」
ヘンドリックはいつもなら傍らで寝ているはずのリディアを思った。今頃は一人で心細く泣いていないだろうか。心配をかけていないだろうか?
私は寂しい。リディに会いたい。
静かに燃える火を見ながら、ヘンドリックは家を飛び出した原因を思い起こした。
たかが一週間だ。一週間頭を下げただけじゃないか。だが、今まで頭を下げたことがどれ程あった?しかも格下の人間に。いや、違う。まだ王太子だった頃の気分が抜けないのか。いや、そうじゃない。私は、私のする事を否定されるのが我慢ならないんだ。
父上も、リディの両親も、アンジェやウィル達も、なぜ私を否定する。私は騎士として、権力をかさに弱い者いじめをしていた者からリディを守っただけだ。それが何故わからない。
リディの両親も、自分たちの娘を守った私に礼すらなく、別れろとは!!平民ならば平民らしく私に選ばれた事をありがたがればいいものを。くそっ!
いや、言い過ぎた。だが私は後ろを振り返りたくはない。振り返れば見たくないものが見えてきそうで怖い。
私は何か見落としたんだろうか?どこかで道を間違ったんだろうか?それとも・・・・
小さな不安が胸をよぎるが、知らないフリをした。
私は自分を惨めだと思いたくない。そして認めたくない。
城を出てから一ヶ月半ほど経ったが、とても満ち足りていた。夢のように幸せだった。ずっと続けばいいのにと願う。
だからか、リディと一日でも離れていると帰る場所がなくなるようで不安になる。特に夜は。
明日には獲物を一匹でも仕留めて家に帰ろう。リディが心配して待っているだろう。そして仕事を探して、ささやかだか、大切にしたいこの幸せを守ろう。
ヘンドリックはそう決意をすると、もう一度静かに目を閉じた。そうして今度は朝までぐっすりと眠った。
翌朝、ヘンドリックは体の節々が軋むように痛かったが、気分はすっきりとしていた。
深く考えても仕方がない。振り返っても後悔するだけなら前だけを見ようと思った。間違いかもしれないと考えるのは嫌だった。
外に出て湧き水で顔を洗い口を|濯ぐ。足元の草は露を含み、湖は霧に覆われ幻想的な風景が広がっている。水筒に水を入れて帰り支度をした。
「さあ、リディの元に帰るために獲物を探そう」
ヘンドリックは勇んで小屋を後にした。
♢♢♢♢
ヘンドリックが家を出た後、リディアはルイスに会いに実家に向かった。ルイスは店の奥で椅子に腰掛けて本を読んでいた。ヘンドリックからの伝言を伝えると、ルイスはわかったと小さく頷いた。
「姉さん、父さん達が話たい事があるって言ってたけど」
「そうねぇ。ヘンリーも帰って来ないって言ってたから、どうせだったら泊まろうかな」
「わかった。じゃあ父さん達に伝えて来るよ」
「待って!自分で言いに行くからいいわ。上にいるの?」
リディアはルイスの返事を待たずに、狭くて急な階段を二階に上がった。
「父さん、母さん、ただいま」
「リディア!来たのか?王太子殿下はどうしたんだい?喧嘩でもしたのか?」
「なっ、熱烈に愛し合ってるのにそんなわけないでしょう。ヘンリーは今日は狩りに行ってるのよ。誰かさんのせいで働き口が見つからなくて怒ってるから、頭を冷やすためにね」
「リディア、父さんに向かって何て口をきくの。謝りなさい」
「だって母さん、父さんがサイラスおじさんに話したんでしょう?そのせいであたし達困ってるんだから」
「サイラスならそのうち気がつくさ。それよりお前の話が聞きたい。フローリア学園で何があったんだ?」
「またその話?あたしは出会っただけよ。あたしの運命の人にね」
「ジャック、落ち着いてちょうだい。ね、お茶を淹れるから座って話しましょう。さあリディアも座りなさい」
ソフィがお茶を用意すると、三人はそれぞれ席に着いた。
ジャックは父親として娘の幸せを願っていたし、また娘の行いに責任があると感じていた。今別れたとしてもヘンドリックが王太子に戻る事は難しいかもしれないが、少しでも可能性があるなら本来あるべき形に戻したいと思っていた。
「はあ、少し落ち着いて話そう」
「あたしはいつでも落ち着いてるけど?何を話すのよ」
「フローリア学園で何があった?本当にいじめられてたのか?」
「ええ、本当よ。先生の指示でヘンリーとペアを組む事になって一緒にいる機会が増えたら、貴族の女生徒達に絡まれるようになったわ。でもあたしも言い返したし、やり返したわよ」
「まあ!仕返しはされなかったの?」
「そうね。仕返しされる事もあったけど、ヘンリーや彼の側近の人に助けて貰ったわ。だって、本当に陰湿なのもあったから」
「そうだったの……。殿下にはお礼を言わなきゃダメだったわね」
「そうよ!よく泣いてるところを見られて、訳を訊かれたわ」
「お前がいじめられて泣いたのか?」
「まあ!!あなた、昔は泣かせる方だったのに?」
ソフィは目を丸くして、ジャックは胡乱げに、それぞれがリディアを見た。
「まあね」
「アンジェリカ様にもいじめられたのかい?」
「そうね。この前も話したけど、呼び出されて色々言われたわよ。付き纏うなとか、婚約者がいる男性とは親しくなるな、とか。お父さん達と同じように釣り合わないとも言われたわ」
「言われただけか?手は出されなかったのか?」
「そうね。手は出された事ないわ」
「・・・・・・」
ソフィとジャックは目を見合わせて黙ってしまった。どう贔屓目に見たとしても、悪いのはリディアだとしか思えなかった。
「卒業記念パーティーでヘンリーがアンジェリカ様を断罪したのよ。私のために!!すっごくかっこよかったわ!」
嬉しそうに話すリディアを見て、二人は薄ら寒くなった。こんなふうに育てた覚えはなかった。常識的に、勤勉に、優しい子に育てたつもりだった。
昔から気の強い子だった。言い出したら曲げないところがあった。だがここまで自分の事しか考えない人間ではなかったはずだ。ここにいるのは、本当に娘のリディアだろうか。
ジャックはどう考えればいいのか、何を言えばいいのかわからなくなった。言いたい事は山ほどあるが、何を言っても無駄な気がした。間違いだと責めるのが正しい事だとも思えなかった。ただ・・・・・・
「・・・お前は、今幸せか?」
「もちろんじゃない。これでヘンリーの仕事が決まれば、もっと幸せになれるわ」
「そうか・・・・・・。それでお前達はこれからどうするんだ?」
「ヘンリーには落ち着いたら結婚しようって言われてるけど、いつにするかはまだ決めてないわ。それと子供は作らないって言われてる。その他の事はまだ話してないけど、この町に家も買ったし、ここで暮らしたいわ。だからヘンリーには仕事に就いて欲しいの」
「仕事だが商店はダメだろう。誰も雇わないさ」
「なんでよ!」
「高位貴族、いや、王太子殿下を雇う平民がどこにいるんだ」
「ヘンリーは王太子じゃなくて男爵よ」
「それなら尚更だ。訳ありの元王太子殿下を雇う物好きの平民はいない」
「そんな…。そんな理由で雇わないなんてみんな酷すぎる」
「仕方ないだろう?王太子殿下を雇うなんて、何があるかわからんだろう。どんな厄介事に巻き込まれるかも知らんしな」
「厄介だなんて、酷い」
「恋に目が眩んでるお前にはわからんかもしれんが、我が家にとっても大きな厄介事だ。お前達の結婚で誰が幸せを感じてるんだ?」
「あたし達は幸せよ!」
「お前達以外でだ。結婚は周囲も含めて幸せを呼ぶものがいい。お前達の結婚はお前達以外を不幸にしている」
「リディア、思い出してみて。あなた達は誰かに祝福されたの?」
「それは・・・、そうよ!!王妃様は祝福してくれたわ」
「本当に?おめでとうって言われたの?」
「それは、言われてないけど。でも婚約破棄はあたしだけのせいじゃないって。ヘンリーをお願いって言われたわ」
リディアは王妃様の言葉を思い出しながら答えた。
「リディアのした事を許して下さるなんて、王妃様は慈悲深い方だわ。でも祝福されたわけじゃない。それはわかってるの?」
「でもお願いするって」
「それは、母としての願いですよ。あなた達は今は熱に浮かされているだけ。後悔するのは目に見えているわ。それでも幸せになって欲しいとの母心ですよ」
「後悔なんてしない。祝福されなくてもいい。誰に反対されようがあたしはヘンリーと別れるつもりなんかないから。ヘンリーもそうよ。愛し合う二人を離すなんて出来ないんだから」
「リディア落ち着きなさい。わしらが言いたいのは、お前と王太子殿下は釣り合わないんだ」
「父さん達まで!学園でも散々言われたわよ!でも愛の前では釣り合うかどうかなんて些細な事よ。現にヘンリーは薪割りも水汲みも、お茶だって沸かせるようになったんだから。ヘンリーに父さんみたいな偏見はないわ」
「人間はそんなすぐに変わらないさ。殿下が本来受けてきた教育は国を治めるためのものだ。平民になるためのものじゃない。今は新鮮で面白いだろうが、そのうちこの生活が物足りなくなるだろう。そうなればお前は飽きられるかもしれん。お前が受けてきた教育は所詮平民の域を出ないからな。王族とわしらとでは目指すところが違うんだ」
「酷い!父さんはあたしの不幸を願ってるの?」
「リディア、何を言うの。子供の幸せを願わない親はいないわ。だから言うのよ。わかってちょうだい」
「幸せを願ってるって言うんなら応援してよ!あたしが進む道を!」
「不幸になるとわかっていてもか?」
「不幸かどうかはあたしが決めるの。父さん達に決められたくない」
リディアは誰からも祝福されていないと、不幸になると言われ、悔しくて悲しくてポロポロと涙をこぼした。
ジャック達もまた、娘の犯した罪に慄き、何を言っても取り合わない娘を前に途方に暮れた。