ザフロンディに向けて4
馬車は大通りを中心に向かって走り、右に曲がり左に曲がりしながら漸く一軒の家の裏に止まった。
「着いたわ。ちょっと待っててね」
リディアは馬車を降りると家の裏口から中に入り、しばらくして父親らしき人と出てきた。ヘンドリックは慌てて馬車から降りた。
「父さん、この人がヘンリー、じゃなくてヘンドリック様よ。私の大好きな人」
「あ、ああ」
「お初にお目にかかります、ヘンドリック=アシュレイと申します。リディア嬢との結婚のお許しを頂きたく挨拶に参りました。正式な挨拶は後日にでも改めて参ります」
ヘンドリックは胸に手をあて騎士の礼をした。リディアはヘンドリックの隣に立ち一緒に頭を下げた。
「あのね父さん、あたし達この町に住もうと思って帰ってきたの。ヘンリーも仕事を探して働くつもりなんだけど、お父さんのお店で働かせてもらえないかな?」
「リディ、ちょっと待って。義父上、急に申し訳ありません。とりあえず挨拶に伺ったまで。しばらくは宿を仮家として仕事を探そうと思っておりますので、改めて説明に参ります」
「あ、ああ。思ってもいなかった事で、こちらこそ申し訳ありません。失礼ですが、アシュレイ様は貴族の方ですね」
「はい。男爵位を賜りました」
「そうですか、わかりました。では今晩にでも一緒に食事はいかがすか?店が終わるのが夜七時ですので、それからになりますが」
「ご招待感謝します。では夕刻にお伺いします。リディもそれでいいかい?」
「ええ、もちろんよ。じゃあ父さん、また後でね」
「ああ。それとこの町に住むなら、商店街の纏め役のサイラスに挨拶をしたらどうだ?力になってくれると思うよ」
「わかったわ。ありがとう」
二人は父親と別れて馬車に乗り込み、同じ通りにあるサイラスの店に向かった。
サイラスの店は国外から仕入れた珍しい織物や服飾品を扱っている。従業員も多くまた工房も抱え、王都の店とも取引のある大きな店だ。
リディアと同い年と四歳年上の息子がおり、兄の方には昔から他の子供達と一緒に遊んでもらった記憶がある。いわゆる幼馴染の家だ。
「サイラスおじさん、こんにちは!」
ヘンドリックと二人で店に入る。
「おやおや、リディアちゃんじゃないか、綺麗になって。もう一人前の娘さんだねえ。卒業したのかい?それならどうだい、うちに嫁に来ないかい?サーニンはまだ一人だし、リディアちゃんなら大歓迎だよ」
「いやだぁ、おじさんたら!!サーニンお兄ちゃんはまだ一人なの?もう結婚してるかと思ってたわぁ。あのね、あたしこの人と結婚するの。それで家と仕事を探してるのよ」
「サイラス殿、お初にお目にかかります。ヘンドリック=アシュレイです。私は王都から参りましたのでこの辺の事情には暗く、できたらお知恵を拝借したいと思い参りました」
「おやまあ、リディアちゃんはえらく美丈夫な御仁を捕まえたんだねえ。同じ学園の方かい?それにしても、どこかで見たような気がするのは、はて、気のせいかな?」
サイラスは驚き、思い出そうとヘンドリックの顔をじっと見つめた。しばらく見ていたが、思い出せなかったのか頭を振り肩を竦めた。
「ハハ、年かね。思い出しそうで思い出せないな。ところで何を聞きたいんだい?家と言ったかな?」
「そうよ、住む家を買いたいの。それとヘンリーの仕事を探してるんだけど、父さんからサイラスおじさんに聞いたらどうだって言われて来たの」
「そうかい、ジャックの頼みだから仕方がないね。とっておきを紹介するよ。町の外れに石造の空き家が一軒あるよ。貴族の旦那が建てた家で、訳ありの親子が住んでいたんだが、3年程前に突然引っ越しちまったんだよ。家具もそのまんまで、息子が結婚すれば住めばいいかと安くで譲り受けたんだが、一回見てみるかい?」
「本当?見てみたいわ。ねえ今から行ってもいい?」
「ああ、いいとも。サーニンと結婚して住んでくれれば嬉しかったんだがねえ」
サイラスは奥の部屋から鍵と地図を持って来てリディアに渡した。
「この印がある場所だよ。道はわかるね。気に入ったらそのまま荷物を置いていいよ。時々掃除をしに行ってたからすぐに住めるはずさ。契約は早めがいいから、決めたら戻って来ておくれ。たぶん気に入ると思うよ、そちらの御仁もね」
「ご主人、感謝する」
「ありがとう、サイラスおじさん」
「はいはい、リディアちゃんは特別だよ。小さい頃から娘のように思ってたからね」
サイラスはよしよしとリディアの頭を撫でた。
「サイラスおじさんたら、もう子供じゃないわよ」
リディアは口を尖らせて文句を言ったが、すぐに笑顔になってありがとうと言った。
二人は挨拶を済ませて店を出ると、ジョバンニに地図を渡してすぐに出発した。
馬車は町の大通りを走り、十五分程揺られた先の、木の柵に囲まれたこじんまりとした石造の家の前に着いた。玄関の横には大きなミモザの木が黄色い花を咲かせており、家の西側に木陰を作っていた。
「貴族の家って聞いたからお屋敷かと思ったけど違うのね。でもこじんまりとしてて素敵な家ね」
リディアが何気なく呟いた言葉が、ヘンドリックの自尊心をチクリと刺した。
「そうだね。でも使用人は雇えないからちょうどいい大きさじゃないかな?それより中に入ってみようか」
ヘンドリックは木の扉に鍵を挿し、ガチャリと回すと家の中に足を踏み入れた。全ての家具に埃除けの白布が掛けられている。リディアはその白布を片っ端から外していった。
扉を開けてすぐの部屋はキッチンとリビングになっていた。リビングの部屋全体に臙脂色の厚手の絨毯が敷かれており、ほぼ中央に白木のテーブルと椅子が四脚置かれている。
東の壁には造り付けの暖炉があり、その前にはムートンラグが敷かれ、ふかふかの三人掛けのブラウン地のソファと、座面にはクリームと青色のクッションが並べられている。
暖炉の両側にはキャビネットと飾り棚があり、キャビネットの中には小洒落た陶器の皿やカップが揃えられていた。
そして部屋の家具は全て白木で統一されていた。
キッチンには竈と流し台、甕が置かれていた。竈の横にある勝手口から出た所に井戸があり、好きな時に水が用意できる。生活しやすそうな家だとリディアは思った。
「うわぁ、かわいい!家具もまだ新しそう!このまま使えそうね。リビングの奥に扉が三つ…ねえ、他の部屋も見ようよ」
「そうだね、一緒に見よう」
リディアは嬉々として、奥に続く扉をの一つを開けた。そこは青地に花柄の絨毯が敷かれた部屋で、腰上の窓には淡い黄緑色のカーテンが掛けられ、一人用のベッドが一つ、小ぶりのテーブルと椅子が二脚、二人掛けのクリーム色のソファとカーテンと同色のクッション、それに飾り棚とクローゼットが置かれていた。
もう一つの扉はバスルームで、陶器製のバスタブとトイレがあり、庭からも出入りができるようになっていた。
残りの扉を開けると、そこは主寝室になっており、床にはゴブラン織のモスグリーンの絨毯が敷かれ、暖炉と備え付けのクローゼット、大きなベッドが一つ、書棚、キャビネットが置かれていた。掃き出しの大きな窓には水色にクリーム色の小花が散らされたカーテンが、ブルーのベッドにはカーテンと同じ布のベッドカバーが掛けられている。窓の外はテラスになっていて庭へと続いており、全体的に爽やかで可愛らしい部屋だ。
リディアはベッドに腰掛け、笑みを浮かべてヘンドリックを呼んだ。
「ねえヘンリー、ファブリック類は洗濯してみて新しいのに変えるか決めたいわ。このままでもいけそうだけど、少しは変えたいじゃない?」
ヘンドリックは扉にもたれかかり、笑みを浮かべるリディアを愛しそうに見つめた。
「気に入った?」
「ええ、とっても!決めたわ!!ここでヘンリーと暮らしたい!いいでしょう?あら?まだ部屋があるみたい」
リディアは立ち上がり、ベッドの横にある扉を開けた。扉には鍵が挿さっている。
部屋の中は何もなく、換気のための窓が、手が届かない上部に二つあるだけだった。その窓には鉄格子が嵌め込まれており、木のシンプルな椅子が一脚布も掛けられずに置かれていた。リディアはゾクリと寒気がした。
「ねえ、この部屋は何に使うの?」
「ああ、物置みたいだね。でも自由に使えばいいよ」
「そっか。なんだか怖い気がしたけど気のせいね」
リディアは腕をさすりながら、ヘンドリックの横を通り抜けてリビングに戻った。
「ねえ、ヘンリー、甕を洗って水を溜めないといけないわ。手伝ってちょうだい。それから契約と買い物に行きましょう」
リディアは嬉しそうに頬を染め、新婚の細君のように指示を出した。
「ああ、わかった。でも馬車の荷物も部屋に入れていこう。といっても大きな物はあまりないがね。ジョバンニに言ってくるよ」
ヘンドリックはジョバンニに指示し、自身はリディアに言われた通り井戸から水を汲み上げ、甕に移すことを繰り返した。あっという間に甕は水で一杯になり、荷物も全て主寝室に運び込まれた。
簡単に身支度を整えて馬車に乗り込んだ。ここから町の中心へは馬車で十五分程で行ける。サイラスの店の前で馬車を降りた。
「ジョバンニ、送ってくれてありがとう。路銀は残っているもので足りるかい?」
「へい、十分でさ。旦那様、どうかお体にお気をつけて。お元気でお過ごしくだせい。お嬢様も」
「ジョバンニさん、ありがとう。帰り道も気をつけてね」
「父上、母上によろしく伝えてくれ」
「へい、わかりました。では失礼します」
ジョバンニは帽子を取って頭を下げると、馬車に乗り王都に向けて走り出した。ヘンドリックは小さくなる馬車を見送りながら、帰る場所を失い一人になったような心細さを感じた。