ザフロンディに向けて3
二人はカヴート湖を後にして、今夜の宿があるジュウリンジに向かった。昨夜の疲れもあってか道中は言葉少なく、時々うつらうつらしながら、それぞれ窓の外の風景を眺めながら過ごした。日が落ちる前にジュウリンジに着いたが、ここも大きな町らしく、たくさんの人で賑わっていた。
「うわぁ、賑やかな町ね」
「ああ。ジョバンニ、ケンズ亭に向かってくれ」
ケンズ亭は町の真ん中にある立派な宿屋だった。その玄関の前に馬車を止め、ジョバンニは宿に入って行った。
「旦那様、昨日と同じ最上階の部屋をお取りしましたで」
「ありがとう。私達はこれから町を散策するから、荷物を運んでおいてくれ。夕食は外で食べてくる」
「かしこまりました。どうぞお気をつけて」
二人は馬車を降りると、賑やかな人の流れに足を向けた。
「リディ、ヴィッティン領は首都に近いカヤンドウと、南のジュウリンジでは、気候も食べ物も大きく異なるんだ。まあ、少し歩くとわかると思うよ。これは夜市といって多くの屋台が並び、食べ歩くのが楽しい所だ。食べたい物があれば言ってくれ」
「ヘンリーは王子様でしょう?こんな場所での買い物できるの?」
「フフ、昨日、君が寝ている間にジョバンニから教わったんだよ。これから必要になってくるだろうからね」
「じゃあ遠慮なく。あたしそこのクレープが食べたいわ。とっても美味しそうだもの」
「わかった、買ってくるから待っていてくれ」
ヘンドリックは少し先にあるクレープの店に向かった。二つ注文すると、店主は薄いクレープ生地に茹で野菜、焼き豚、ピーナッツの粉、香草、ソースを乗せてくるくるっと巻き紙で包んだ。二つ受け取りお金を払い、リディアの元に帰る。
「フフフ。ヘンリーの初めてのお使いね。美味しそう、いただきます」
リディアはパクリと頬張ると、目をキラキラさせ頰に手を当てた。
「お、い、しい〜!何これ?ピーナッツがいいの?それともソース?いやいや味はもちろんなんだけど、このお肉と野菜、それに香草のハーモニーが何とも…そして砕いたピーナッツの食感がまた妙でたまんない!」
「リディ、食レポが上手だね。私もいただくよ」
ヘンドリックも一口食べると、ほおっとため息を吐いた。
「初めて食べる味だが、確かに美味しいな」
「でしょう!ね、他の物も色々食べたわ」
ヘンドリック達はそれから串に刺した焼き肉だのスープ麺だのを食べ、デザートにピーナッツの粉がかかった餅、車輪餅といってピーナッツ餡や胡麻餡がたっぷり入った回転焼き、フルーツミルク、フルーツ串などをお腹いっぱいになるまで食べた。
「もう、これ以上は無理!お腹一杯だわ」
「そうだな、そろそろ宿に戻ろう」
宿に着くとそれぞれ寝る支度をして、窓際のソファに腰掛け、ヘンドリックはお酒を、リディアはお茶を飲んだ。
「リディ、君のご両親は何の仕事をされているんだい?」
「そういえば話したことなかったわね。あたしの家は商売を営んでるの。国外の珍しい雑貨や薬草、頼まれた物を買ってきたりもしてるわ。そこそこ裕福だったから学院にも通わせて貰えたのよね。学園で実家に有益な繋がりが得られたら良かったんだけど、それは失敗しちゃった」
リディアはテヘッと舌を出し頭をコツンと叩いた。
「ヘンリーはうちで働くの?」
「そうだね、そうさせて貰えたらいいけど」
「頼んでみるわ。語学だって堪能だし、顔だって広いだろうし有能だものね。喜ぶと思うわ、きっと」
「そうだといいが、よろしく頼む」
リディアは笑顔で快諾し、ヘンドリックもホッとしたように頷いた。
「それと住む家なんだが、町の外れでいいから二人で住めるところを探そうと思う。アテはないか?父上との約束に外れるからアルトワ伯爵の世話にはなりたくはないんだが」
「そうねえ、帰ってないからわからないわ。しばらく部屋を借りて住みながら探すのはどうかな?」
「ああ、そうしよう。リディ、初めてのことばかりで慣れない私をフォローしてくれてありがとう」
「もちろんじゃない!だって結婚するんだもの」
「リディ、そろそろ寝ようか。こっちにおいで」
ヘンドリックはリディアの手を取りベッドへと誘った。リディアは頰を染めてヘンドリックに誘われるままベッドに座った。ヘンドリックは優しく髪を撫で、頬に手を滑らせてから顎に添えると、顔を上向かせてキスをした。
そうして二人の二日目の夜が始まった。
翌朝、早くに目覚めたヘンドリックは、隣で眠るリディアを見つめた。明るく無邪気で甘え上手。おおらかで屈託のない笑顔に励まされることも多かった。
これからの生活に不安がない訳ではなかったが、悪いことは考えないで、全て上手くいくと信じようと思った。
ヘンドリックはリディアの頬を撫で、耳朶をつまみ、顔にかかっていた髪を払い、そのまま指にくるくると巻きつけて遊んだ。リディアがくすぐったそうにヘンドリックの手を払い除ける。
「うーん、今何時?もう起きる時間?」
「いや、もう少し寝てていいよ」
「じゃあ、寝るねぇ。おやすみぃ」
リディアは再び夢の住人になった。ヘンドリックは目が冴えてしまったので、一人で町を散策することにし、そっとベッドを抜け出した。簡単に身支度して部屋を出る。
夜明けから一時間程経った頃だろうか。町はすでに目覚めており、昨夜にも劣らぬ人で賑わっていた。
そこかしこの屋台から、美味しそうな食べ物の匂いが立ち込め、仕事に行く前に腹ごしらえをする人々が、急拵えのテーブルで忙しなく口を動かしている。
ヘンドリックは通りの中心部にある噴水のへりに腰掛けて、人々が働く様子を眺めた。
「活気のあるいい町だな。ヴィッティン公はいい領主なんだろう。でもそれは父上の治世で国が潤っているからこそだ。もし私が王になっていたら、それを維持…いやさらに発展させることができただろうか…」
「…ハッ、いや、私はもう考えなくていいんだ。私はそれを放棄したのだから。それよりも毎日の生活、リディとの未来だけを考えればいい。私にはそれが似合いだろうから」
ヘンドリックは卑屈な考えを追い払うように頭を振った。ほんの一瞬、王宮の執務室でウィリアム達と国の未来について討論した事、アンジェリカと語り合った事が頭の片隅をを掠めた。でも、いや、考えてはダメだ。私はそれを望まなかったのだから。そう、私は戻りたいわけではない。私は私の選んだ道を進むだけだ。リディとの未来を。
口の端に浮かべた自嘲的な笑みを消して、前を向いた。
さあ、宿に帰りリディを起こそう。そして朝食を取り、ザフロンディを目指して出発しよう。五年、十年先の国の未来を考えるより、明日の生活の心配をしよう。それが私とリディの毎日になるのだから。
ヘンドリックは膝を叩いて立ち上がり、宿に帰る道を急いだ。リディアの瞳に映る自分を見て、側に居てもいいんだと安心するために。
宿に戻り、ベッドの中で微睡んでいるリディアの姿にホッとする。私の全てを肯定してくれる、ここが私の居場所だと強く思う。
さあ、リディを起こして朝食を食べに行こう。昨日買えなかった服を買い、少しずつ庶民の生活に慣れていこう。リディアと、私自身のために。
ヘンドリックは未だベッドで眠るリディアの額に、瞼に、両頬に、鼻に、そして最後に唇にキスを落とした。リディはくすぐったそうに笑いながら身を捩って逃げていたが、とうとう観念して目を開けた。
そうしてアルトワ領に向けての二日目の朝が始まった。
二人はジュウリンジの町で当面必要な服を買い、美味しい物を食べ、記念の装飾品などを買った。
そして次の宿泊地に向かう道中に、立ち寄れそうな観光地があるとそこを訪れ観光を楽しみ、夜は仲睦まじく過ごした。新しい町は珍しく、食べ物は美味しく、二人で過ごす時間は甘く、楽しく、とても平和だった。
「ねえヘンリー、もう明日にはザフロンディに着いちゃうのね。もっと色んな所に行ってみたかったな」
「私もだよ。でも私はザフロンディでのリディとの暮らしも楽しみだからね。落ち着いたらまたどこかに行こう」
「そうね、約束よ」
「ああ」
グレース男爵領は港町が近いからか、海外の物が王都より多く見られた。
当初の予定より一日過ぎて漸く、アルトワ男爵領に着いた。ザフロンディに着いたのは昼を少し過ぎた頃だった。
「ねえヘンリー、お腹空いたわ。お昼を食べてから家に行きましょう」
リディアはジョバンニに道の先にある食堂の名を告げた。
「町でも美味しいって評判のお店なの。港町だから魚介類が新鮮で、ヘンリーもきっと気にいると思うわ」
「それは楽しみだな。ジョバンニもここまで送ってくれてありがとう。これで最後になるから一緒に食べないか?」
「とんでもないです、旦那様!恐れ多くて食べもんの味がわからなくなりますで、わしは別席でいただきます」
二人がリイジュウ亭に着いた時も、店の中はまだ昼食を食べる客で賑わっていた。シンプルな磯焼き、ガーリックと炒める海鮮の匂い、テーブルの上には新鮮な刺身やカルパッチョ、壺焼きやスープ類やなど、豪快だったりや綺麗に盛り付けられた料理などが並んでいる。
「ほお、これは美味しそうだ。ここはリディに注文を頼もう。ジョバンニにも同じ物を頼む」
空いた席に別れて着くと、リディアは店員を呼んで注文していった。しばらくして火を入れた七輪がテーブルに置かれ、魚介の盛り合わせた皿を店員が持って来た。
リディアが網の上に貝を乗せていく。栄螺に牡蠣、帆立貝、鮑、蛤、殻付きの海老。その他にもムール貝のワイン蒸し、サーモンのカルパッチョ、アクアパッツァと次々と運ばれてきた。
「そのままでもいいけど、このソースをかけて食べると美味しいんですよ。熱いから気をつけてくださいねぇ」
リディアが卓上のソースを開いた貝に少しずつ垂らしていく。香ばしい匂いが鼻をつき、堪らず手を伸ばし牡蠣を食べた。
「熱っつ!ハッハフッ!旨い!」
「でしょう!気に入ってくれて良かったわぁ」
二人は無言で次々に貝を口に運び、テーブルにある料理を片端から平らげていった。
「こんな料理は初めてだ。食べ過ぎてしまったな」
ヘンドリックはお腹をさすりながら満足気に呟いた。
「それじゃあ、あたしの家に行きましょうか」
二人は馬車に乗り込み、リディアの案内で家へと向かった。