婚約破棄から始まった
「アンジェリカ=ブランフール、今日をもってお前との婚約を破棄する。お前が今まで行ってきたことは全て、ここにいるリディから聞いている。お前のような性悪な者に私の横に立つ資格はない!」
きれいに飾りつけられた学校の講堂。色とりどりの流行のドレスを着た令嬢達、その花たちをエスコートする令息達。今日は聖フローリア学園の卒業記念パーティーだ。
学長の挨拶が終わり、来賓である王陛下の挨拶の後、学園の生徒会長であった王太子の挨拶が続き、婚約者であるアンジェリカ侯爵令嬢とのダンスが行われる予定であった。
その挨拶の第一声が先程の言葉だった。
「殿下、変な言いがかりはお辞めくださいませ。私は何もしておりません。そんなことをして私にどんな利があるのですか?バカバカしい。それとも証拠でもあるのですか?」
アンジェリカは、思わず手にしていた扇を広げて口元を隠し、壇上に立つヘンドリックを見つめた。怒りに震える形のいい唇をギュッと噛み締める。
八歳の頃から変わらない、ハニーブロンドのウェーブがかった柔らかな髪は、今は礼服に合わせてきちんと整えられている。キリッとした目元にシャープな顎のラインは甘くなりすぎず、端正な顔立ちを凛々しく見せている。礼服が似合う均整の取れたしなやかな体躯は、まるで逸品の彫刻のようだ。正に物語に出てくる理想の王子様そのものだった。
王太子とアンジェリカの婚約は、ヘンドリックが八歳、アンジェリカが六歳の頃から十年になる。
お互いに幼馴染として過ごし、燃えるような愛はなくとも、信頼と穏やかな愛情を育んできたはずだった。
ヘンドリックが学園の高等部に入学した頃から、少しずつすれ違い始めた。休日に会う約束も反故にされ続け、お互いに顔を合わせる機会がだんだんと減っていった。
そして二年後、アンジェリカが入学した時には、ヘンドリックの横には当たり前のように、平民であるリディアが立っていた。
アンジェリカは何度となく、婚約者は自分であり、リディアより尊重されるのは自分だと伝え、この先、二人で国を統べていく時の事を考えてくれと、ヘンドリックを諭してきたが、聞き入れられることはなかった。
またリディアにも同じように、ヘンドリックは王太子であり、平民であるリディアに王妃の座は重責であること、王妃教育もなされておらず、お互いの気持ちだけで国を統べるのは無謀だと説いた。
そして国の未来を考えるならば、身を引いて欲しいと頭を下げたこともあった。
アンジェリカは入学してからの一年、蔑ろにされてきたことにも涙を呑み、ことある毎に、何が国のためになるかを考えて欲しいとヘンドリックに訴え続けた。
周りの生徒たちは、王太子の機嫌を損ねないよう、巻き込まれないように、アンジェリカを遠巻きに眺めていた。
王太子の側近であり同学年のウィリアム=セヴァン侯爵子息、それにスチュアート=ギャレリー伯爵子息、乳兄弟のアーノルド=レガート子爵子息も、二人に対して何度も諌めてきたが、反対すればする程、ヘンドリックはリディアを側から離さないようになった。
何を言っても聞く耳を持たないヘンドリックに、側近の三人もやがて諦め、恋という嵐が過ぎ去るのを、唇を噛んでじっと待つようになった。
何も言われなくなったことを、認められたのだと勘違いしたヘンドリックは、益々二人で過ごすようになり、アンジェリカを鬱陶しがるようになっていった。
ヘンドリックにとって、素直に振る舞い、いつも笑顔で自分を肯定してくれるリディアの存在は、自分を慰め、癒してくれる、何ものにも代え難い大切な宝となっていった。
そのヘンドリックの神秘の湖のような瑠璃色の瞳が、今は憎い敵を見るように、激しい怒りを湛えてアンジェリカを睨んでいる。
「ハッ、しらばっくれるでない。大方リディに嫉妬でもしたのであろう。私の気持ちがリディに向いていることに、高慢なお前は耐えがたかったのであろう」
「ヘンドリック様、あたし、嘘なんてついてません。あたしがヘンドリック様に相応しくないって。それにあたしの事、躾のできてない庶民だって嫌味も言われたし、それに、他にも色々言われて言い返したら、素直に聞いた方が身のためだって脅されたんですよ」
王太子の後ろにいるのはストロベリーブロンドの柔らかな巻毛の可愛らしい女の子。
優しげなヘーゼルの瞳が不安げに揺れている。王太子の腕に縋り付くように腕を絡め、背に隠れるように顔だけ出して、アンジェリカを指差し自分の意見を言う。
高めの甘えた声、舌足らずな幼子のような喋り方、はしたない仕種で言いつける様は、小さな物音にも怯える愛玩犬が、キャンキャン吠えているようにしか見えない。
「聞いたか?アンジェリカ。リディが平民である事をバカにし、数々の嫌がらせをしてきた事は明白である。そのように国を支えている平民をバカにするなど言語道断。それに、私を支えると言いながら、自分の意見ばかりを言い、私より優位に立とうとする性根は見下げたものだ。よってお前との婚約は破棄することにした」
「そして、リディアを新しい婚約者にすることにする」
ヘンドリックは威厳を持ってここに集まっている全校生徒、保護者、王様の前で高らかに宣言した。
「何をバカなことを仰っているのですか。そのような大切なことを殿下の独断で決めることはできません。少し冷静になられたらいかがですか?」
アンジェリカは扇を閉じ、青ざめた顔で言葉を続けた。
「私との婚約は国が決めたこと。簡単に破棄になどできません。殿下の将来の伴侶として国を支えるためにしてきた私の努力を、すぐ隣でご覧になってきたのは殿下です。辛い時には慰め合い、労わり合い、この国のために何ができるのか、幼い頃から共に考え過ごしてきた私を、殿下は切ると仰るのですか?」
ヘンドリックはアンジェリカの言葉に一瞬ひるんだが、腕を強く握られて慌ててその思い出を振り払った。
「それを、その思い出を汚いものに塗り替えたのはお前ではないか。…私はリディを信じる」
「ヘンドリック様〜、あたし信じてもらえて嬉しいです」
リディアは感極まったようにヘンドリックを見上げた。ヘンドリックは微笑みを浮かべて頷いた。
なんの三文芝居を見せられているんだろうか。
アンジェリカはため息をつくと、傷ついた顔でヘンドリックを見つめた。
「私の言葉はどうあっても届かないのですね。…わかりました。私は王陛下と宰相である父の判断に従いますわ。では、少々疲れましたので、私は失礼させていただきます」
そう言うとアンジェリカは震える足を叱咤して背を伸ばし、青い顔に微笑を浮かべて完璧な淑女の礼をとると、静かに出口に向かって歩いた。惨めさを少しも見せない姿で。
アンジェリカが進むごとに道が開ける。
背中を意識しながら、凛とした姿勢で堂々と出口へと進んだ。気を抜かないように、最後まで優雅に。通り過ぎる時に令嬢達がひそひそと囁く声が聞こえたが、無視をして通り過ぎた。
扉が閉まると、外で待っていた護衛騎士のリカルドが駆け寄って来て労るようにアンジェリカを支えた。
「ありがとう、リカルド。このまま邸に帰ります」
リカルドは頷くと、そのままエスコートしてブランフール家の馬車に乗り込み邸へと帰った。
アンジェリカが講堂を出た後、当然ながら卒業記念パーティーは中止になった。
王陛下は苦虫を潰した様な顔をして、王太子とその傍で無邪気に笑んでいる娘を見た。
そして大きくため息をついた後、同じように青い顔をしている宰相と今後について話し合うことにした。
会場では思わぬ事に、上位貴族の令嬢、令息達は青ざめ、母親の元で成り行きを見ていた。父親達は王陛下のもとに集まり、言葉を待っている。
中位貴族はそれぞれ仲のいい者同士で集まりひそひそと立ち話を始めた。一部の下位貴族や平民達からは文句を言う声が上がり、会場内は一気に騒がしくなった。
教授陣は生徒である令嬢、令息達に静かにするよう促しているが、どう収まりをつければいいのか、自分達にもわからなかった。ただ、王陛下の、または学園長の指示を待っていた。
ヘンドリックは悪びれる風もなく、傍にいるリディアの腰に手を回し、満足げな表情で見つめ、リディアもとろけるような甘い笑顔で、ヘンドリックを見つめ返していた。
二人は自分達の世界に酔いしれていた。
そこに王陛下の声が響いた。
怒りと、悔しさ、そして諦観が複雑に混じった瞳、怒鳴りつけたいのを我慢するかのように引き結んだ唇、顔色は依然として悪く、焦燥感を漂わせていた。
「ヘンドリック、其方らのこの度の行いは甚だ馬鹿げておる。ましてやこの様な式典で婚約者を断罪するなど、気でも違ったのか。騎士として、ましてや紳士としての風上にも置けぬ」
「父上。お言葉ですが、アンジェリカの行いは学園内では周知の事実。私は皆を証人として、婚約破棄を必ず成し遂げたかったのです」
「ヘンドリックよ、今一度冷静になって周りをよく見るがいい。卒業記念パーティーを準備してきた皆の苦労、楽しみにしていた生徒達の大切な時間を、其の方らの軽挙妄動によって台無しにした罪は重い。よってしばらくの間謹慎処分とする。その間に其方らの処遇を決めることとする」
「父上、私にはそのような罰を受ける理由がわかりません。
パーティーは中止にせずとも、続ければいいではありませんか。せっかく邪魔な者もいないのですから」
「黙れ。なんと傲岸不遜であることか。嘆かわしい。さあ、衛兵達よ、早くこの者らをこの場から連れて行け。愚息の犯した行いを謝罪する。皆、済まなかった。パーティーは後日改めて、王家主催で開くことにする」
「父上、お待ちください。私の言うことをお聞きください」
「ヘンドリックさまぁ、どうして私達が追い出されるんですか?話が違うじゃないですか。私達のことを認めさせるって言ってたのに…」
「父上、お聞きください。父上」
王太子とリディアは、衛兵達に追い立てられながらも、まだ言い足りないとばかりに、大声で喚きながら講堂から出て行った。