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「貴婦人」の写真とぜい弱な目玉の話

作者: 一唐

 気密調整機能付き玄関で靴を脱ぎ、滅菌消毒シャワーを浴びて、天然肉百パーセントをうたいながらもどうせ合成肉だらけだとみんな分かっている持ち帰り弁当を腹に詰め込んだ私が、胎様ソファーベットで体を落ち着けたのは夜の十時を回った頃であった。

 情報端末のページを天球に伴う星くずのように浮かべ、ぼんやりと私が仕事をしている間に起きた世の事々を追いかけていたが、ふと思い立ってある単語に検索をかける。

 貴婦人の蝶。

 検索結果はずらりと並ぶ。だが、その結果は示し合わせたようにある写真展にまつわるものが検索の上位を占めていた。広告費をかけたのだろう。

 幻の云々、というものはどんな世界にもあるものだ。珍しいもの、奇異なもの、日常の外にあるもの。人類が母星の中に閉じこもっていた時代にもそんなものは事欠かなかったが、恒星間航行と惑星開発テラフォーミングが手軽に行われるようになった昨今では、そんなものはますます増えた。そして、そんな幻のものを見世物にする商売もだ。

 私は携帯顛末の有価証券データ一覧にある写真展のチケットデータを確認する。仕事の関係でもらったものだ。広告代理店にとってはチケットデータのダウンロード数が実績になるため、こういう風に伝手を頼りにタダで流れてくるなんてわりにある事だったりする。

 それじゃ写真展の主催者には収入が入らないように思えるが、そうでもない。そも、いまのご時世に写真展である。画像を見るならばネットワーク上にアップロードすれば済む話なのだから、情報をかこって場所を借りて人を集める必要はないように思える。だが、そこがミソなのである。

 主催者側の目的は人を集める事なのだ。ウェブ上で日常生活におけるほとんどの事がこなせるようになった現代では、基本的に人はあまり出歩く必要がない。だが、そうなると人は限られた自分の日常の中で見聞きする範囲にしか興味を示さなくなるのである。するとどうなるか、広告効果が鈍麻化するのである。企業が新しい物を作ったりサービスを初めても見向きもされないなんてしょっちゅうだ。

 だから、写真展のような人を集めて、関心のとっかかりを作れる催事はことさら珍重されるようになっている。起点ターミナル型広告なんて言われているのだったか。

 要するに、主催者側にとっては、集まった人への宣伝の機会を企業に売り込む事が目的なのであり、入場料収入はちょっとしたボーナス程度の比重しかないのである。そういうビジネスモデルというわけなのだ。

 まあ、そんな事はどうでもいい。

 そんなわけで私の手元には写真展のチケットがあるのである。その目玉は、好事家たちの間で「貴婦人の蝶」というあだ名で呼ばれる幻の蝶、コクタンシボリアゲハだ。

 正直に言って蝶にはあまり詳しくもないし興味もない。だが、ウェブ上で簡単に調べたところでは、コクタンシボリアゲハはこのような蝶であるらしい。

 コクタンシボリアゲハが初めて確認されたのは現在からおよそ七十年ほど前の事。惑星開発によって人類の居住に適した環境に調整された火星の衛星フォボスのある渓谷にて、そこで自生した動植物の生態を調査していた調査団に所属していた昆虫学者ウィル・ブロッケンによって偶然採取された五羽の標本が始まりである。

 コクタンシボリアゲハの発見は当時大変な騒ぎになった。なぜならば、新種の発見、しかも惑星開発により変容したフォボスにおいて自然発生した新種である。その学術的な価値はとても大きかった。コクタンシボリアゲハの研究は、つまりは植民惑星の環境が生物に、そこに移住した私たち人類にどのような影響を与え生物としての変化をもたらすのかという命題への入り口のようなものだったからだ。また、その関心は学会に止まらなかった。取り立てて学のない私だってミュータントにはなりたくない。そんな時代の波にはあながえないけれど、喉に刺さった小骨のような不安を抱えて宇宙に飛び出したごく一般的な人々にとっても、この話題は関心を抱かずにはいられない出来事だったのである。

 だが、センセーショナルな発見の後、コクタンシボリアゲハは幻の蝶と呼ばれるに至る経緯をたどる事になる。

 後発のいくつもの調査隊がコクタンシボリアゲハの調査のためにフォボスの渓谷に足を踏み入れたものの、誰もコクタンシボリアゲハを発見する事ができなかったのだ。しかも、間の悪い事にコクタンシボリアゲハの生息地のほど近くで、植民国家同士での領土の領有権をめぐる紛争が起こったのである。やがて戦線は拡大し、「貴婦人」の生息地も野蛮な世事とは無関係ではいられなくなった。このため、コクタンシボリアゲハの生息地はたやすく調査に足を運べる場所でもなくなったのだ。

 こうして、現存するコクタンシボリアゲハの標本は、ウィルが捕獲し故国の大英博物館に寄贈した五羽のみとなり、コクタンシボリアゲハは好事家の間でなかばかつての中近世の権力者たちが追い求めた伝説の聖杯のように語られる幻の蝶となったわけである。

 さて、コクタンシボリアゲハが人の関心を買う事は何も希少な蝶であるというだけではない。

 その二つ名である「貴婦人の蝶」が示すように、その姿もまた美しいのである。

 羽の色はその名が示すように黒檀、つまりエボニー風の黒色で、鮮やかなで光沢のある赤色の斑点に彩られている。大きさは大人の手の平ほどの大型だ。そして、羽の形状はシボリアゲハの分類にあるように、左右の羽に一本づつ尾が伸びて、その根本がスカートやズボンの裾を絞ったような形状になっている。それを形容すると、どことなく貴婦人がスカートを軽く上げて会釈をしているように見えるため、付いたあだ名が「貴婦人の蝶」というわけである。

 何はともあれ、初めは人の話題に上らない日はないかのようであったコクタンシボリアゲハも、やがて時間とともに移り気な人の記憶からも忘れられ、そして好事家たちの秘めたる憧れと野心の対象に落ち着いたのだった。

 だが、変化は時間とともに訪れる。

 長らく尾を引いていた植民国家同士の地域紛争がようやく一応の解決にまでこぎ着けられたのである。それに伴って、衆前には忘れ去られていたコクタンシボリアゲハの調査もぽつりぽつりと再開されていたのだ。そして、そのような調査隊の内の一隊が、幸運にも幻の蝶を発見したのだった。

 つまり、私が手にしているチケットはその際に、調査隊によって撮影されたコクタンシボリアゲハの画像を展示する写真展という事なのである。

 私はソファーベットに体を沈めながらため息をついていた。

 チケットをもらうにはもらったが、乗り気ではなかったからだ。というよりも、率直に言って行きたくないのだが、頂いた先方への失礼にもなるので、何とか行く理由を見つけようとしているというのが本音だ。

 コクタンシボリアゲハに興味がないというわけでもない。それが理由ではなく、元よりの私の性分として、写真というものが好きではないのだ。もう少し詳しく言うと、絵画は楽しめるが写真というものを美術として楽しめないというべきだろうか。堅苦しく捉えるほどのものでもなくって、娯楽はやっぱり二次元に限る的なものとも言えるのかもしれない。

 絵画と写真。一見何らかの画像を作り出すという所作は似ているかのように見えて、その実どこか異質なものだと思うのだ。

 何が違うのか、被写体だ。写真の被写体は現実の風景である。現実の風景を光学的に切り取って保存するのが写真だ。一方で、絵画と書くと堅苦しいけれど、漫画やアニメなんかのサブカルチャーまで含めるそれの被写体は、書き手の抱く認識や知覚である。だから、どれだけ現実の風景を写し取ろうとしたところで、それは描き手の認識や意図に色付けられているというべきものなのだ。

 まあ、こんな事私が語るまでもなく誰かが言っている事なのだろうけれど、それで何が変わるかといえば、浸れるかどうかという事だ。きれいなもの、楽しいもの、つまり娯楽に没入できるかどうかという事に違いがあるように思うのだ。

 つまりは、絵画の好きなところは混ざり物がないところなのだ。作者の描こうとした百パーセントの純粋なのである。だから、浸れる。だが、写真には混ざり物があるのである。写り込んでしまうのである。なぜならば、現実を写し取っているからである。見たくもないもの、撮影者の意図しないものも写り込んでしまう事があるのである。だって、それが現実なんだもの。

 そんなわけで、私は写真を見る事それ自体に何だか気乗りがしないわけである。この二次元に毒されたクソ豚野郎め!、と罵られても、私はハイそうですごもっともと言うしかない性分たちなのである。

 だが、ふと良い考えを思い付く。別に写真を目当てに行く必要はないだろう、別に動機付けを得られればそれでいいのだという考えだ。チケットを押し付けられたのは私だけではないのだ。それを消費する事を口実にして誰かと過ごすきっかけにしてしまえばいいじゃないかと。

 そんな浮かれた目論見に胸をいっぱいにしていると、私の意識はいつの間にかゆっくりと睡魔に抱かれ暗いどこかに沈んでいった。

 写真展が行われているイベントホールの最寄り駅、時間に余裕を持たせていた私が駅前に風景に目をやりながらのらりくらりと歩いていると、待たせた人の背中が見える。彼女も私に気が付くと、どこかほっとしたように表情を緩ませる。

 同僚のヤマダさんだ。ゆったりとしたカーディガンにスカートと休日らしい肩の力を抜いた服装ではあるが、普段の職場とは異なる鮮やかな色で彩られた彼女に少しだけ胸の奥にくすぐったいものを感じる。化粧の色合いもどこか明るい色調であるように見えるけれど、私がのぞきこむように目を向けると、やや丸っこくて膨らみのある体を小さくするように顔を背けてしまう。そして、彼女の鼻から額にかけてを覆っている野太いフレームに縁取られた、昔馴染みな言葉で言えば瓶底眼鏡というのが相応しい分厚いレンズの隙見から、うつむき加減にしながら、無作法に女性の顔を眺めている私におずおずとした視線を返す。

 ヤマダさんもまた私と同じように写真展のチケットをもらった一人であり、そして私と同じように、おそらくは、あくまで推測ではあるけれど、その処分に困ってしまうであろう性分の人であった。だから、せっかくだからとお誘いするには割合都合の良い人であった。無論、率直に言えば下心は多分にある。

 今日はお誘いいただいてから始まる有り体な口上をやりとりしてから、私たちは他愛ない話をしながらイベントホールへ向かう。

 話の合間、合間に私はヤマダさんに目を向けるけれど、彼女は恥ずかしそうにして、美人ではないけれど愛らしいというのが相応しい顔や目を背けてしまう。元より、大人しくて引っ込み思案な人ではあるけれど、でもそれ以上に直視されることへの抵抗を感じさせる反応だった。

 その理由は彼女のかけている眼鏡にある。彼女の眼鏡は視力矯正用の機能もあるのだろうが、A R(Augmented Reality)、つまり拡張現実的な情報を処理する機能が備わった情報端末機能のある眼鏡なのである。そして、そのようなA R機能の重度の利用者に現れ易い癖というものがあるのだ。

 それは直視への抵抗反応である。A Rによる付加情報が日常化している事により、かえってそのような付加情報による緩衝のない風景に対する抵抗感のようなものを感じるようになるらしいのだ。要するに、生々しい現実を感じさせる風景が人よりもちょっと怖くなるわけである。そして、異性が向ける眼差しなんかもその範疇に入るらしい。男女の視線はコミュニケーションを展開していくための導入として使われる事が多いからだ。実に生物なまものである。もっとも、日常生活にはこれといって害もない上に、A Rはすでに日常の中に溢れかえっているし、いずれはヤマダさんのようにA Rに慣れきった人の方が主流になっていくはずだろうから、いずれは気にもされなくなっていくような事ではあるのだろう。

 だが、こんな風に目を背けられるとなぜだか子どもの様ないたずら心が湧いて来るもので、何とか目を合わせてやろうという気持ちになってくる。私が隙を見てはヤマダさんの瞳を覗き込んでやろうとじろじろと目を向けているうちに、何ですか、もう、と困った様な恥ずかしがる様な顔をして、ヤマダさんは私の瞳をのぞいてくれた。彼女の頬にうっすらと柔らかい赤みが灯っていた。

 イベントホールに到着するとちょっとした人だかりができていた。半分は写真展の会場へ入る順番待ちで、もう半分は企業ブースで行われているプレゼンテーションの見物をしている。

 写真展の会場は暗かった。明々(あかあか)と写真をライトアップする照明の余波で屋内の輪郭が確かめられる程度だ。私は暗くて危ないからと手前勝手に理由付けしてヤマダさんの心地よい温もりのある手を握る。

 展示された写真の一つ一つで周囲に小さな人だかりができている。ヤマダさんは順番が待ちきれないのか、前にいる人の背中に遮られて見えないために、つま先立ちで背伸びして一生懸命に写真を見ようと試行錯誤をしている。抱きかかえてしまいたい衝動に駆られるが、それはやめておいた方がいいだろう。

 「貴婦人の蝶」は確かにその名に負けない優美な姿だった。その名前にある黒檀の黒は、のっぺりと彩色されたような代物ではなく、絹糸で編んだレースの様に繊細な文様によって言葉では形容しがたくも彩りを持っていて、まさしく貴婦人のお召し物と言うに相応しい色である。一方で、所々にある赤い斑点には火星生まれの出自を思わせる金属的な光沢が備わっており、どこかルビーの装飾品とも自然の遊び心が生み出したサイバーパンク的アクセントとも取れる印象を与える。

 展示された写真には、「貴婦人」が緑化したフォボスに自生した草木や苔や岩場によって形作られた舞台を、主役プリンシパル然と舞うかのような姿が鮮明に写し取られている。それは私のような蝶に無関心な者にも、一言へぇと感心含みの言葉を吐き出させるほどの迫力のようなものが感じ取れるものだった。

 うっと声がする。

 声の主は私の隣にいるヤマダさんだった。

 ヤマダさんの写真に対する反応は私とはまるで異なるようだった。顔をしかめて、何か辛いものを見るかのようにどこか苦しげに眉間にしわを寄せている。

 昆虫は苦手だったのだろうか。確かに、ゴキブリやムカデなどの不快害虫に限らず、昆虫の姿をまじまじと見れば哺乳動物とは異質な生物的造形に薄気味悪さを感じるというのも分からないでもない。

 だが、ヤマダさんの苦しげな姿はもっと深刻な何かがあるように見えた。いくら女性であったとしても、額に玉の汗をかき、体をかがめ荒い息づかいを発するというのは、あまりにも奇妙であった。

「大丈夫?」

「平気です」

 口ではそう言って私に笑顔を見せようとしてくれてはいるが、それが私を気遣ってのやせ我慢である事は簡単に分かる。

 私はヤマダさんの反応に気がかりを覚えながら次の展示へと向かう。すると、また同じようにヤマダさんは気分が悪そうに苦しげな声を漏らす。次も、その次も。

 流石に異常を感じた私はヤマダさんを会場の袖へと連れて行って休ませる事にした。ふと、周囲を見回すと、辺りには同じように気分を悪くした者を介抱する人の姿がぽつぽつと見えた。

 何があったのだ。

 ヤマダさんに事情を聞こうとするが、言葉だけである事がもう分かり切っているのに、大丈夫、大丈夫ですと小さな声で繰り返すだけだった。そのうちに、口を押さえて嘔吐しそうな様子になったので急いで洗面所に連れていくと、そこにはヤマダさんと同様の症状を見せる人たちが男女を問わず人だかりを作っていた。

 そのうちに、洗面所の順番待ちに耐えられなくなった誰かが床に嘔吐した。胃酸の香りがほのかに漂って、奇妙な連鎖反応というべきか、それにつられて他にも数人が吐いた。ヤマダさんも吐いていた。

 私はヤマダさんの乗った列車を見送っていた。

 駅まで送っていく間、ヤマダさんはずっと泣いていた。いや、単に泣くというよりもべそをかくというべきか、鼻をすすって顔を赤くして、恥の感情による自罰的な感情に押し潰されそうになりながら、体面もへったくれもなく、もろもろの感情のやり場を泣くという行為に集約していた。率直に言って、気の毒だった。

 それよりも気がかりだったのが、後日あった時にヤマダさんが以前と同じように私と接してくれるのかという事だった。生理現象に恥の概念を付加するのは幼さ特有の考え方だと思う。なぜならば、それは局地を知らない狭い世界観がさせる事だからだ。例えば、北国に行けば鼻水は垂れ流しになってその内凍る。衛生環境の劣悪な場所に行けば下痢と嘔吐はよくある事だ。そして、老いて体が弱ってくれば色々と垂れ流しにもなってくる。人生の様々な局面を知るごとに、体面に身もふたもない事が珍しくも無くなっていき、生理現象と恥の概念の結びつきがどうでも良い事だと分かってくる。だが、こちらがどうでも良いと思っていたからといって、相手もそう思ってくれるとは限らない。

「あんまりだなあ」

 思わずそう呟かずにはいられなかった。

 人生のクレームはどこに持ち込めばいいのだろう、担当者は誰だ。神様は現代になっても見つかっていない。

 数日して、あの日写真展で起きた事は謎の集団ヒステリーとして小さなニュースになっていた。原因は関係者への聞き取りも含めて調査中だという。あの日会場にいた少なからぬ人たちへの追跡調査となるから、結論が出るのはもう少しかかるだろう。

 ヤマダさんはと言うと、明らかに私を避けるような様子であった。だが、ある時菓子折りを持って私の前に現れた。彼女なりに色々と考えをめぐらせるところがあったのだろう。ゲロを吐いた場合の正しい人間関係の修復法なんてどんな教本にも載ってはいないのだからしょうがない。私に対して謝ってばかりのヤマダさんが気の毒だったので、話題を変える意味合いで気になっている事を聞いてみる事にした。

 あの日、何を見たのかだ。いずれ、調査が終われば明らかになる事だろうが、一足先に答えを知ってみたくなったのだ。軽い気持ちだった。

 だが、ヤマダさんはひどく考え込むような様子を見せた。嫌な思い出が蘇ったのかと、私は自分の配慮の至らなさを後悔したが、どうやらそうでも無いようだった。

「サイトウさんは見えなかったのですか?」

 それから、ヤマダさんは私が要領を得ないような反応をしているのを見てこう続けた。

「ああ、裸眼だから・・・」

 私が詳しく説明してくれるように頼むと、ヤマダさんは首を横に振った。それから、知って心地の良い事でもないから、むしろ知らずにいられた方が良い事だからと、この話はこれまでにしようとお互いに約束させられた。

 私は腑には落ちなかったが、蒸し返しても何が良くなるでもなかったのでヤマダさんの提案に従う事にした。だから、二人の間ではこの話はこれまでだった。

 だが、気にはなった。だから、それから私はしばしば一人で考えを巡らせる様になった。まあ、約束は違えちゃいないさ。

 あの日、私とヤマダさんにどのような違いがあったのか。いや、ヤマダさんだけでなく他の体調を悪くした人たちとどのような違いがあったのか。私はその事を深く思い出そうとしてみた。

 そして、ふとある事に思い当たった。その事に思い当たった私は、自分の瞼にその感触を確かめるかのように指を伸ばしていた。

 それからまた数日して、私はある場所を訪れていた。あの写真展の会場だった。あの騒動もあってか、人の姿はまばらであった。

 そして、私は自分の携帯端末に展示されている写真を保存した。それから、その画像を解析ソフトにかけた。解析ソフトというがただの一般的な画像加工用のソフトであり、一般によくあるブレやピントずれの修正に使う程度のものだ。会場から出ると肖像権保護機能が働くので、私は展示会場の暗闇の中で加工が終わるのを待っている。

 私が調べようとしているもの、それは画像の主役のコクタンシボリアゲハの写っている部分ではない。そこにピントがあっているせいでぼやけている場所、蝶の舞うフォボスの渓谷の風景の方だった。

 加工された画像が表示される。私は画像をしばらく眺め、ある物を見つけてその部分を拡大する。

 何か白っぽい物がフォボスの渓谷に茂る草木の中に埋もれている。

 その物は球体であるが縦に伸びた楕円形で、上部中央に二つの丸い空洞が横に並んで平行に空いている。その二つの空洞のやや下にまた同じような二つの小さな穴が空いていて、その部分から下にいくにつれて左右の輪郭がそぎ落とされたように細くなる。

 私はさらにその部分にピントを合わせ画像を鮮明にする。

 そして、私は理解する。ああ、そうか。そういう事だったのか、と。

 そこに写っていた物は人の頭骨であった。

 私は他の写真の背景も同じように調べる。

 ある、たくさんある。

 頭骨、胸骨、大腿骨に上腕骨。骨、骨、骨。

 思えばそこは戦地だった。少し前まではそんな事が行われていた場所だった。

 あの日、体調を崩した人にはある共通点があった。みな、視認情報を処理するための携帯端末を身に付けていたのだ。

 何かを見る時に、視点というものは一点に留まらない。無意識の内に視認物上を行き来しながら全体を捉えようとするものなのだ。そうすると踏んでしまう事がある。骨が埋もれているピンボケの上をだ。そして、機械というやつは、律儀にも見えない情報を見えるように気を使って加工して持ち主に情報の取捨選択を提示でもしたのだろう。そうすると見てしまう事になる。ピントの外れた風景の中に置かれていたはずの無数の戦闘の痕跡をだ。撮影者も意図のしていないフォボスの渓谷にあった現実をだ。

 もし、直視への抵抗感を持つような繊細な現代の人々が、そのような情け容赦もない光景を見せつけられた時にどのような反応を示すだろうか。その答えが先日のあの騒ぎなのだ。

 これだから写真は嫌いなのだ。

 なぜ美しいものだけを見せていてはくれないのだ。楽しい事だけを純粋にしていてはくれないのだ。そんなものだけで人の世を満たしていてはくれないのだ。

 現実は、これだから現実は。

 私は瞼を閉じ視界を完全に断つ。瞼の裏の光景には、そこかしこに散らばる骸の上を優雅に羽ばたくコクタンシボリアゲハの姿がもう出来上がっている。このイメージは、もう決して私の記憶から消え去る事はないだろう。

 私は写真展の会場を後にする。

 保存した画像は消去した。元より、もう見る気にもならないだろうが。

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