論点① 偏る似かよるのは、ある意味健全なぐらい必然です
もう、論点に入ってもいい頃でしょうか?
何か、言い忘れてないかな?
あ、自分も投稿するし『なろう』系を揶揄したり批判したりもする人の話はまだでしたっけ?
まあ、むずかしい理屈ではないんで、もう論点に入ってしまいます。
と言っても、詳しく知らないんですが……。
まあ、揶揄や批判に出てくるのは『ばっかり』とか『偏り』とか『そーゆー作品が上位にいく』とかがあったと思うんですが……間違いないでしょうか?
だったら健全だと思います。
とっても必然ですね。
ちょっと想像してみてください。
アクション映画を観て心踊って映画監督を目指した人がいたとしたら、その人の頭の中はアクションでいっぱいです。
友人や周囲の人に「映画監督を目指している」と語っても、彼が口にする“映画”とは“アクション映画”のことです。
ただ、これがホントに映画監督の話なら、さまざまな大人の事情が絡んできます。
例えば、無名のどこの誰ともわからない人間では、撮りたい映画なんて撮ることはできない。
昔の映画監督には若手の頃にポルノ映画の監督をしてた方も、何人か居たようです。
それなりに認知度を持つ監督になっても、撮影資金を出してくれるスポンサーを獲得するために、自分の撮りたいモノとは違う形で企画を立てなければならないこともあるでしょう。
でも、『なろう』で小説を投稿するシステムは違います。
「書きたい!」と思ったものを、ダイレクトに、形にすることができます。
「自分でも書いてみたい!」と思わせてくれた作品とジャンルが重なること、空気や漂う香りに影響が見えること、ある意味必然自然です。
「自分でも書いてみたい!」とまでも思わせてくれた作品なんですから。
馳星周さんは、最近、何か話題になりませんでしたっけ?
直木賞とか何とか。
ボクは初期作品の知識しかありませんが、エルロイさんの作風の影響が指摘されてたように記憶していますし、具体的な記憶はありませんが当時のボクもその指摘に納得してたように思います。
彼の受賞が、そのスタイルを貫いた結果か、年齢とともに変化していった結果かは知りません。
でも、きっかけをくれた作品の影響を受けること自体は、何の問題もないし自然なことだと思うボクの認識は、おかしいでしょうか?
ボクはそのことをあげつらって批判する人の方が、偉そぶろうとして的外れにスベってしまってる人にしか思えません。
そして、きっかけを作ってくれた作品が、多くの人を「書いてみたい!」と心踊らせたなら、偏りと見られるほど作品数が増えるのは、当たり前です。
その作品には、それだけの魅力があったんでしょう。
そして、それが現在もリアルタイムで進行、継続している現象なら、「書きたい!」とまでは思わなかったけど心踊った人たちが、「同じ世界感や空気感で、新たな刺激と出会えないだろうか?」と読み手として集まってくださるのは、当たり前すぎるぐらい当たり前ではないですか?
だってね、
『なろう』は「物語を書きたい!」「物語を発信したい!」と思う人に、場所と機会を与えてくれる素晴らしい場所なんですから。
そこを新たな才能や発想を求めて訪れて、「偏りが」「ばっかり!」とエラソーなご高説をのたまう人の方が、神経や感性や知性を疑います。
前述に戻りますが
「何様なの?」で
「選んで銭を出して買え」です。
才能の誕生の可能性を奪うな。
一歩を踏み出した(実際に書き始めた)彼らに温かい気持ちがこみ上げ、今後を期待したり活躍を願う気持ちになれませんか?
どうしました?
リアルで何かツラいことでもありましたか?