④『なろう』系批判をする人の“情熱”の可能性
で、“別の衝動”“別の情熱”についてなんですけどね。
“ゲスの勘ぐり”と非難されることを承知で申しあげますが、
言いたいだけなんじゃないの?
えっと……、今は
自分では(エッセイとかは書くけど)物語を書かない、『なろう』系と揶揄し批判する人の話でしたっけ?
つまり“自分の作品を批評されることはない”という“安全な立ち位置”で、ご高説をのたまってるわけです。
んー……。
つまり、アレですか?
自分には石が当たらない安全な所から石を投げて、相手の痛がってる様子を見たり、痛がってるんだろうなぁと想像したりして楽しんでるわけですか?
ずいぶんご立派な性根をなさってますよね(哄笑)
あ……、論点についての意見は後述です。
でもさあ、早朝のラジオの宗教の番組のナレーションでもありませんでしたっけ?
『どんなに美しい言葉でも、心に愛がなければ、相手の心には届かない』とかなんとか。
だから書き手のみなさん、どんなにご立派な理屈をこねくり回されようが、その程度の性根の人間の論なんて心に届かせることはありません。
物語を創造しようとする書き手のあなたの方が、そーとーに立派です。
充分に価値がある。
値打ちがあります。
ご高説に心を囚われて、怯んだり、論破するために思考を割くなんてバカなことはしないでください、
その為に、脳ミソのカロリーも酸素もムダ遣いしちゃいけません。
そんなことは、その人たちに憤る人たちに任せておいてください。
どうか、自分の作品のアクセス数と、「ここからどうなったら、自分としてはおもしろいと思えるか?」の心の声に向き合うことに専念なさってください。
それだけでいいんです。
(この先にはかなり激しく語りたいことがありますが、論点についての意見になりますので後述)
えっと……、今は批判する人の情熱のことでしたっけ?
ああ!
ちょっと想像してもらえませんか?
現実にはどーゆーシステムならそーゆーものが商売として成り立つか想像できませんが……。
自分の胃袋が許す限りたらふくタダでメシを喰わせてくれる食堂があって、そこに客として入ってきて、それなりに喰って、喰いながらメモを取ったりして、
「なんだこの店の料理は!? ○○料理ばかりではないか!?」とか
「まったく、この店で出てくる料理のレベルは……!」とか
「△△で食べた☆☆に比べたら、味の奥行きがまったく!」とか
「本来、料理というものはだなぁ
……」とか
「お前たちの料理人のためを思って言っているんだ!」とか
「こんな店で○○を喰う客の多さには頭が痛い、客のレベルも落ちたものだ」とか
のたまうグルメ気取りさんがいたら、ちょっと笑えませんか?
論をのたまえばのたまうほど。
で、
「何ぃ、私の発言が不快だとぉ?
そーやって肯定的な言葉だけ聞こうなんて、料理人としての向上心もない」とか、自分の発言に耳を傾けなければ、料理人としての姿勢さえ否定しようとするグルメ気取りさんなんて、もー、質が悪くてバカバカしくて、ちょっと頭が痛くなりませんか?
えっと……何の話でしたっけ?
あ、『なろう』で『なろう』系批判をする人の話でしたっけ?
ちょっと『なろう』のそもそもに戻りましょうか。