ここでホントーに語りたかったこと④ 涙で渡る血の大河 夢見て走る死の荒野 (サイボーグ009『誰が為に』より)
ボクは読解力や理解力が低いので間違ってたら申し訳ないですが──。
『なろう批判を批判する暇があったら──』の1番の論点は、「私たちの疑問に答えていないではないか」ということだと想います。
そう決めた(笑)。
「批判に批判を返すのが理解できない」、とか何とかあったように思うけれど、それは「論を交わしたいと思ってるのに、ちゃんと向き合ってくれないではないか!」という焦れったい、または不当で卑怯な扱いをうけたような想いが書かせたものとボクは思おう。
何の権限もないけど、決めました。
ボクは反論を展開しているのではなく、「ボクの場合は……」という回答をしているので。
ここで、ボクの勝手なイメージですが、作品や書く人のイメージを語ります。
詳しくない“異世界の住人”のイメージで。
『なろう』で物語を書く人は、その物語が『なろう』の掲載基準に見合う以上は、“日々を暮らす人”です。
実りを信じて、日々、田畑を耕す人。
または、お花畑で無邪気に蝶々を追いかけている人。
それに対して、エッセイやその他で論や主張をする作品を書く人は、“剣を手にした人”“剣を手に日々を生きる人”。
たとえ、「オラオラ、文句のあるヤツはかかって来い!」と生きてなくても。
このイメージが、この連載の発端となった感想の、感想を書いた人のスタンスに気づいて(完全納得ではなかったですが)謝罪し対応を感謝した理由です。
“剣を持つ”ことが背負うものは、言わずともわかってもらえると思います。
そして、ボクは思います。
批判には批判を持って相対してほしいと。
少なくとも、その剣が“日々を生きる人”に向いたと感じたなら。
別の、“剣を持って日々を生きる人”に相対してほしい。
または、誰か意を決して“剣を持って”立ち上がってほしい、と。
“批判に批判するのはおかしい”という考え方は、少なくとも“日々を生きる人”に剣を向けた場合には、
「自分は剣を向けた正当性を争いたいのに、なぜ、剣を向けたことを責めてくるのだ!?」という叫びに聞こえます。
剣を持たぬ人に剣が向けられたのなら、
周りにいる“剣を持って生きる人”たちが、全力で、その事に相対してほしいし、相対するべきだと思います。
“剣を向けた”ということに対して、です。
日本は職人文化などの流れでしょうか?
作品への批判は、作者が作品ではねのけるものだという考え方があります。
が、ボクは物語の書き手たちには、そんなものに思考の労力を浪費させずに日々を懸命に過ごしてもらいたい、そんな想いに乱されずに自分の中の感性に向き合ってもらいたいと思っています。
これが、エッセイやその他も『なろう』における“作品”なのに、その人たちの指がすくむことを意図して、冒頭で激しい“『なろう』批判やランキングの批判を、批判する論”を繰り広げた理由です。
んー、他のことにも含めての回答はだったと想うんだけど。
いろいろ広げすぎて、我ながら、把握が難しいなぁ……。