ここでホントーに語りたかったこと① 「嫌いで結構、晩飯喰うな」(ボクの子供時代に流行った言葉遊び)
さて、勝手に誰の投稿のことかわかる書き方をしてしまいましたが、広く賛否の感想を求めてらっしゃる姿勢でしたので、許されると勝手に断じました。
そこでの感想にも書いたことを含めて。
まず、ボクの考えには大きな矛盾も問題点もあります。
挑発的なタイトルも失礼無礼を極めた論調も、そーです。
この連載のタイトルの、“遺す”という漢字の選択に、ボクの想いはあります。
嫌われ、人として否定されることがあっても伝えたいことでした。
ちょっとリアルでいろいろあって、「いつまで『なろう』をやれるだろう?」って、時期に始めたことなんです。
書いた後の自分のことは、考えない。
そー決めました。
失礼無礼を「その為にあえて鬼になった」みたいな言い訳はしません。
ボクは普段の会話で、使わないってだけで、チ○コもマ○コも普通に言葉にできる男です。
イライラした時の発散は、「ファ○ク、ジーザス、ビッ○、ガッデム、ゴートゥヘルだチクショウ!」と誰宛でもなく叫ぶこと。
その程度の下品な男です。
ボクの願いは、『なろう』を利用するすべてのユーザーが、『なろう』で“物語を書く喜び”を謳歌することです。
(そして、この主張とボクの行動は大きな矛盾を抱えています。
それについては、また後で)
ボクは『なろう』批判を批判する暇があったら──』の感想欄に、こんな主旨の回答をしました。
“もし『なろう』が『孤独のグルメ』系の作品ばかりで、その傾向や質がネット上で『なろう』系と揶揄され、その論を誰かが『なろう』に持ち込んで、そのことで、そーゆーものを書きたいと想いながら及び腰になってるユーザーを実際に感じたら、ボク自身は『孤独のグルメ』系の作品を1作も読んでなくても、やはり「なんとかしたい」と願ったと思います”
ボクの願いは、『なろう』を利用するすべてのユーザーが、『なろう』で“物語を書く喜び”を謳歌することなんです。
ネット上で、どう評価されようと揶揄されようと、それは自由だと思います。
それは“管轄外”的な意識だけではありません。
現在、非開示にしてる連載、『テレビを観ながらウダウダと』で、木村花さんの事件の時に語りました(ごめんなさい、確認してません)が、テレビ番組が関心を集めることが目的である以上、それがどんな評価でも、話題にされることは目的に叶っていると。
ボクの「自由だ」という意識は、同じものがあります。
『なろう』のそもそもとして語りましたね?
登録閲覧無料の『なろう』は、関心を持たれるなどの集客で運営が成り立っているのだと。
そして、“でも、木村花さんのホームページに書き込むことは違う”と続けたと思います。
そして、ケースも理屈も違うのですが、『なろう』にネット上の『なろう』批判を持ち込むことには、“でも、木村花さんのホームページに──”に近い感情があります。
いや、もっとでしょうか?
『なろう』に物語を書くことにギャランティ(経済的利益)は生じていないのですから。