本題の前に前振り② 書き手だって成長のために批評が必要なことを知っています。 技術やらと感想
「おめーのことなんて、ここで初めて知ったよ!」って方が大半だろうから説明しますが……。
少し前からボクはマイページをだいぶと改造してます。
過去に投稿したものを、ほとんどを“削除”ではなく“非開示”機能を使って(つまり、過去に自分が発信した発想だと主張する権利を残して)、だいぶスッキリと。
知人に自分の作品を読んでもらうために。
ネットに小説を書いていることは周囲の知人に“趣味”として語っていたのですが、ちょっと上下関係のある方に「読ませろ」と言われたことが理由。
あ、リアルでボクはイジられキャラで言われキャラなところがあります。
「“酒の肴になぶられる”みたいなことになったら嫌だなぁ」と思いながら踏み切った理由は、やはり批評が必要だと思ったから。
こーゆーことを書くとガッカリされる方もいると思いますが、ここでの交流の中では気づかいなどの色々な要素と、投稿の合間の短い言葉のやり取りでできる人と人としての距離の詰まり方などで、指摘にも限界があると思ったからです。
ボク自身も、批評というものは、様々な交流があって互いに悪意がないことが伝わってる伝えられてると思わないと言えない面があります。
つまり、それなりに交流のある人間からの指摘が欲しかった。
指摘に対して細かく聞き取りもできますし。
状況を説明しますと、「今度会うときまでにページを整理して、それからペンネームをお伝えします」と返答してページを整理してから、顔を会わせてるんですが「で、整理は終わったん?」という催促が無いので、宙ぶらりんな状態です(笑)
いや、だって、「ページの整理が終わったんですが……読みます?」なんて切り出したら「ねえ!読んで!読んで読んで!」と言ってるみたいで……なんかカッコ悪いかなぁ……なんて(苦笑)
さて、では、感想と書き手の成長の話。
芥川賞の選考委員をしてた元都知事の文章が笑いのネタにされた話をしました。
同じシリーズでは、著作(『弟』だったかな?)の場面について、「カッコ良さみたいに語っているが、客観的に見て、そう語る感性ってどうだろう?」という主旨の話もあったと思います。
プロの、どころかプロの作品を審査するような書き手の文章でも、そーなんです。
で、ここまでは「それなのにプロデビューをしてない書き手の作品がたくさん投稿されてる場所に来て、アレコレ指摘して廻って“悦に入ってる”人がいるとしたら、それは滑稽ですよね?」と述べて、囃し茶化してきました。
でも、「プロの文章でもアレコレ料理されることもあるんだから」は、別の真実も示してますね?
つまり、「デビューもしてない書き手の投稿には指摘されるべきことはたくさんある」です。
特にプロでないなら、書きたい想いに推されて冷静な客観視ができずに発信されてる場合のことの方が多いでしょう。
ボク自身も既に非開示作品ですが50話ほどの連載で、後から読み返すと、“虫食いだらけの古文書に書かれた物語”みたいに、肝腎な文章が全然入ってない作品を投稿したことがあります。
理由は、行き当たりばったりで以後の展開のことが頭の中はいっぱいなのに、書いている場面についてはイメージが出来上がり過ぎてそれは自分の頭の中だけのことなのに、伝わってるような気分になってたりしたんでしょう……かね、たぶん。
読まれた方なら笑うでしょうが、その作品、ボクは場面によっては泣きながら書いていたんです(恥大笑)
指摘されないと自覚できないことは、書き手には多々あります。
特に作品の向上というよりも、書き手の頭の中にあることを伝わるように伝えるためには、感想という指摘は必要だと思います。
それなのに、なぜ、ここまであんな論調で連載を展開してきたか。
その真意の“一部”を説明するために、実際にあった有名で残酷な実験について、語らせてください。