56
気がつくといつかの草原にいた。
雲ひとつない鮮やかな蒼空。
そよぐ青々とした草花。
文明的なものは何も無い。一面に広がる美しい景色。
ここは、魔女の世界だ。
魔女の記憶の世界。
足元に視線を落とすと、わたしはやはり裸足のままで柔らかな草の上を踏みしめている。
薫る青い爽やかな香りは夢の世界であることが嘘みたいだ。
全身を駆け巡る膨大な魔力。
やけに重たい体。
ああ、わたしの体は耐えられなかったのだ。
だからきっと器となるには不完全でこの精神世界に潜ってしまったのだ。
もしかしたら、二度と戻れないのかもしれない。
現実世界のわたしにこの、強大すぎる力は荷が重い。
でも、そうしたらきっとお兄様は責任を感じてしまうのだろう。
何も悪くない、優しいお兄様は。
だから、戻らなきゃいけない。
「戻る必要なんてないわ」
後ろから楽しそうな声がする。
どこか懐かしい、でも聞きなれない声。彼女の正体をわたしはもう知っている。ゆっくり振り返る。
「……ーーーーー、」
「こんにちは、私の器」
魔女が嗤う。
愉快そうに、幸せそうに。
綺麗な空色の瞳を細めて。
「っ……!」
そのすぐ側にある人影にわたしは息を飲んだ。
至。至だ。
グレイがかった茶色のやわらかな髪、まるで王子様のような端正な顔立ち。
そして特徴的な鳶色の瞳は何もうつしていない。
初めてあった時よりもずっと、ずっと、空虚な鳶色の瞳。
虚ろでガラス玉をはめ込んだよう。
生きている気がしない、作り物のような温度のない美貌。
「死んでないわよ、まだね」
「……まだ?」
「そう、もう少しで完全に魂が抜けるの。あなたを愛してしまったから、心を全部あげてしまったから、あなたという器を通して、この私をね。
あとはあなただけよ。早く身体をよこしなさいな」
ぐっ、と息が詰まる。
至、そんな、そんなわけない。
大丈夫、至は、大丈夫……。
至はだって、魔女の意識よりも自分の気持ちを優先して、あの時わたしをたすけてくれたのだもの。
だから、まだ、きっと……。
「至、至、ダメだよ、起きて」
「あら、無駄なのに」
魔女が鼻で笑う。
だからなに?前例がないと至はいっていた。何が起こるかなんて分からない。
「至、貴方が好きなのはこの魔女なの?
本当にこいつにすべてあげてしまっていいの?」
せっかく、自我を持つということを知ったのに、感情を持つ苦しみや喜びを知ったのに、明け渡してしまっていいの?
16年間苦しみ続けてきて、それで、いいの?
「至!!!白樺三雲が、お兄様が、麗華が、至の家族が!あっちで待ってる!わたしも!
一緒に帰ろう!」
「無駄よ、やめなさい。
それより、貴方何故こんな状態でここに来れるの?身体を渡しにきたのではなかったの?
………まさか、貴方………器の力でここにきたの?私の魔力を使って」
至の鳶色が僅かに揺れた気がした。
無駄じゃない、きっと大丈夫だ。
魔女が顎を上げてわたしを見下す。
ふわりと浮かんだ魔女の白い足がすっと下に伸びて影を落とす。
なんでここに来れたのか、魔力を使ってここに来たのだろうか?
意識がなくなってからのことは分からない。
ただ、器の力にわたしの体が耐えきれなかったことだけは覚えている。
もしかしたら壊れないように緊急措置として魔法が勝手にそうしたのかもしれない。
「至を返して」
「嫌よ、これの魂はもう私のモノなの。そもそも私がそうなるよう作ったのよ」
「至は至だよ、至のもの。わたしもそう。
お前のものじゃない」
「…………魔法じゃ魂や身体が作れないとはいえ、この方法は間違いだったわね。とても面倒だわ、リジョウの血は。相変わらず何を考えているのかわからないおバカさんなんだから」
肩を竦めてやれやれと息を吐く。
桜ヶ丘理丞がどんな人だったかなんて知らない。わたしはわたしだ。
勝手な事を言わないで。
それに、貴方が欲しいものは、こんな方法じゃきっと手に入らない。
「貴方が欲しいのは至の魂でも、わたしの身体でも無い。自分をもう一度作るのだってゴールじゃない」
「ええ、そうよ。
私はもう一度産まれて、復讐するの。全ての力を取り戻して、これも、貴方も、あの場にいた7人全ての愛を手に入れるの」
「いいえ、それは無理。
だってあの7人はとっくに死んでしまっているもの」
魔女の顔が僅かに歪んだ。
「お前が、魔法を完成させられない間に何百年も昔に死んでしまったもの」
ギリ、と歯噛みした鈍い音がする。
魔女は分かってる。分かっているはずなのに、諦められない。
「……知っているわ、だから、だから……みんなの血で我慢するの。
それで許してあげる、みんなの血が私を私だけを愛してくれれば、それで許してあげる」
ふわりと太陽のように微笑む。金の長い髪が揺蕩う。魅惑的な笑みはとても純粋そうに見えて、どこか眩しい。
許してあげる?
そうじゃないでしょう。
「……許してあげる、じゃなくて、許されたいのはお前でしょ。
たとえ、七枝の本家全てがお前を愛そうとも結局のところ満足なんて出来ないよ」
哀れな、可哀想な魔女。
空色の瞳が見開かれて憤怒に濡れた。
空を切って近づいてくる彼女が、以前のようにわたしの首に手を伸ばす。
でも、彼女がこの彼女の記憶の中でさえわたしにできることは少ない。
まして、器としての力を手に入れたわたしにできることなんて。
伸ばされた手を跳ね返した。
後ずさった魔女が既のところで立ち直る。
ぎらりと激しい怒りの視線を受けてなお、わたしは冷静だった。
「………可哀想な人。
貴方は7人に裏切られてなんか無かったのね」
「…………五月蝿い」
「自分から、捧げてしまったのね、心もその身も、魔法も、すべて」
「……うるさい!私は悪くない!」
「椿光士郎を愛してしまったから、7人を家族を、愛してしまったから、他の女に居場所を奪われるようで耐えられなかった、許せなかったんだ」
「……違う、みんなが、みんなが裏切ったの、みんなが、あんな女に」
「居場所がなくなるのが怖くて、必要とされていないみたいで恐ろしくて、自分を捧げてしまったのね」
「………違う、ああ、違うの」
魔女が頭を抑えて首を振る。
地面に引きずり降ろされてずるずると後ずさる彼女は哀れで寂しそうで、悲しかった。
「大切な人達から、あんな目で見られて、だから許して欲しかったのね。あんな事をしてしまったこと。彼らに罪を背負わせてしまったことを」
「ああ、いや、なんで、だって、わたしはあんなに……役に立って、必死で、戦っ……」
掠れた声でいやいやと首を振る。
「貴方は椿光士郎に、7人に愛されたかった。許されたかった。大切だから、大切だよってそう形が欲しかった」
もうきっと大切にされていただろうに。家族だったろうに。
強欲は身を滅ぼす。彼女は求めすぎた。愛を履き違えて、歪んでしまった。
椿光士郎を愛し愛される彼女の存在が怖くて仕方なかったのだろう。
異世界から突然巻き込まれてやってきた世界で、孤独で居場所も生きる意味もない世界で再び1人になるのが怖かったのだろう。
ぱたりと、わたしも草原に膝をつく。
数メートル先で、金の髪を散らして蹲る魔女に語りかけるように口を開いた。
「可哀想な人。あんな目を向けられて別れるのが嫌で呪ったんでしょ?
でも、怖くて怖くて、椿光士郎は呪えなかった。嫌われるのが怖くて」
「五月蝿い、……違う、違う……」
彼女の記憶で見たもの。
彼女の感情、愛したもの達の畏怖の目、嫌悪の瞳、今にも憎悪を口にしそうな唇。
恐ろしかったんだ。謝りたくて許して欲しくてもそれができなかったんだね。
「桧木沢藤にしたのは、彼なら許してくれそうだったから。誰より優しくてお人好しで、いつも割を食う、優しい優しい桧木沢藤なら、きっと、許してくれると思ったから」
桧木沢藤は同情してしまった。
哀れな彼女を。主のことが好きで好きでたまらなくて、彼の心を引き止めたいがためにこんなこと迄して。
それでも受け入れてもらえなかった彼女が可哀想で可哀想で、同情してしまった。
憎悪や嫌悪よりも、先に同情してしまった。
だから付け込まれた。
そして彼は呪いを受けいれてしまったのだ。
魔女の憎悪や嫉妬、叫びを載せた劣悪な魂を受け入れてしまった。
「その上、桧木沢藤は魔女を哀れんで罪を全て背負ってしまったんでしょう。
自分達が全て悪いことにした。魔女は裏切られて可哀想で自分たちを恨む正当な理由があると。
そういう事にした。してあげた。
そう自分自身の記憶さえ書き換えて、そして、自分以外の記憶を封印したのね」
魔女の記憶の断片、その先で微かに見えたもの。
桧木沢藤がかつてした事。
主やほかの6人の心を守るために。家族とまで思っていたものの肉を食べて、力を得てしまった、その罪から6人を守るため。
そして、可哀想な魔女のため。
強い心象を継いだ柚宮廉に記憶を書き換えさせた。
優しい優しい、お人好しの桧木沢藤。いつも、割を食う優しすぎる桧木沢藤は。
わたしは顔を上げて魔女の向こうに視線を送った。
そして微笑む。
自然と交差する、優しげな鳶色の瞳と。
ああ、良かった。本当に。
「あ、ああ、あ、フジ……フジ、ごめんなさい、ごめんなさい」
魔女が錯乱状態の今、彼女の支配から逃れられたのか、魔女が手放したたのか、分からない。
蹲る魔女の肩にそっと手が置かれる。
ビクリと跳ねた魔女は怯えるように、軋むように首を回して後ろを振り返った。
「………ふ、じ?」
グレイがかった茶色の柔らかな髪。
鳶色の瞳。王子様のような端正な顔立ち。
魔女の記憶で見た桧木沢藤はもっとグレイの強い長い髪を結っていて、至よりもう少し素朴そうな顔立ちだったけれど。
「大丈夫、大丈夫だから」
「……フジっ、ご、ごめんなさい、あなたに、わたし」
「全部分かってる。だから、もういい。君を許すよ」
至が目を細めて微笑む。
ガラス玉のようだった瞳にはもう感情がありありと溢れていてそれは優しそうに、家族にするみたいに微笑んだ。
魔女の空色の瞳からぼたぼたと涙が溢れる。流れ続けて流れ続けて、白い頬をびちゃびちゃに濡らした。
「わたしっ、なんてことを……、ただ、コーシロにふり、振り向いてほしかっ……!みんなとずっと、一緒に、変わらずいたかった、だけなのに……」
「うん、僕は君を許したけれど、椿光士郎やみんなには自分で謝らなきゃいけないね」
魔女がうんうんと何度も頷く。
至はずっと彼女の肩を支えながらそれを見守っていた。
「いま、まで、ごめんなさいっ、貴方の血を呪って……何百年も、何百年も、酷い思いをさせて」
「……………もういい、呪いを受け入れるってそう思ったのだから、そうなったんだ。仕方の無いことだよ」
「……ごめ、ごめんなさい!、ごめんなさいっ」
至に微笑む。至もこちらを見て微笑んだ。
魔女は至を桧木沢藤だと思っているのだろう。
もしかしたら、幻影かなにか見ているのかもしれない。
「貴方を、貴方から預っているこの魔力で彼らのところに送る」
「……い、いいの?」
彼女がひとしきり泣いて泣いて、落ち着いたところでわたしが声をかけると彼女は真っ赤な目元でこちらにむいた。
少女だ。
ただの人間の少女。どこにでも居る、ただの女の子。
彼女に頷くと彼女は振り返りもう一度至を見た。
至が目を閉じて肯定した所で、よろよろと立ち上がる。
「その代わり、桧木沢の呪いを解いて」
「……この世界のわたしが消えれば呪いはなくなるわ、大丈夫」
「………良かった」
安堵の息を吐く。至が喉を鳴らした。
「それから、魔法はもういらない。全部、全部、貴方に返す」
魔女が目を見開く。零れそうな空色がやがて収束していく。
「……やっぱり、リジョウは変な奴ね。私の力の全てを持っていたらなんだってできるのに」
「出来ないよ、なにも。わたしのからだじゃまずこの力に耐えられないから」
「………そう」
魔女が苦笑する。
そもそも、いらない力だった。
欲しがったものではなかったのだ。
この魔法という力こそ、それそのものが呪い、魔女の罰。
現代の魔法使いは魔法で得ているものは沢山あるだろうけれど、それよりもたくさんの縛りを受けている。
魔法使いと人間の格差、家の格差もそうだし、がちがちに固められた政略結婚もそう。
もう今やそこまで大きな力はないのに、どんどん無くなっていくばかりなのに、その力を守ることに必死で囚われて自分たちの世界を狭めている。
きっと、いらない。
魔女の力も、お兄様の読心も、麗華の奪う力も、白樺三雲の雷も、桧木沢の全てを否定する力も。
だから、返そう。元あるべき場所に。
「………いいかな」
至に問うと、彼はにこりと微笑んでから強く頷いた。
うん、そうだよね。
魔女に向かって全魔力を注ぐ。
全て、自分の中だけではない。
全てを込めて。
彼女の金の髪が中に漂う。魔女が目を閉じる。
幸せそうな表情でされるがまま。
柔らかなオレンジ色の光に包まれて、どんどん光が大きくなる。
わたしは自分の魔法すらろくに使えないぽんこつだ。
だけど、今だけは生きてきた中で1番集中して……。
絞り出すように、何もかも魔力という魔力を。
体から力が抜ける。
頭が真っ白になる。
なにかが枯れていく感覚。なくなっていく感覚。不思議、ずるりと引き出されて、でも嫌ではない。
人間に戻るんだ。ただの魔法の使えない人間。
あるべき姿に。
彼女が少しだけ目を開いた。
「ありがとう………」
貴方達も返してあげなきゃね。
そういった気がした。
光に包まれて、何も見えなくなる。
光源となっている魔女も、至も、草原も青空も、何も見えない。
そうして、やがて世界は真っ白に弾けた。
いつもありがとうございます!
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