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近頃、魔女の記憶が混濁する。


寝ている時、ぼーっとしている時脳裏に広がる見覚えのない思い出はわたしが持つものでは無い。

けれどどこか懐かしく感じてしまうそれらを魔女のものだと思うにはそう時間はかからなかった。


混濁するようになったのは、至に鍵の話を聞いてからだ。あの日から数日がたってどんどん酷くなる。

至はこんな状態を何年も生まれた時からずっと。この支配される恐怖を。


……いや違う、自分の意思を見つけてしまったから恐怖を感じるのか。

だとするならばそれはわたしのせいだ。


たかだか記憶が混ざるだけでこれだ。

至の苦しみは計り知れない。

意識を呑まれ体を操られ、常に聞こえる憎悪と魔女の執念。上書きされる感情………。


吐き気が、する。



あの日、お兄様と白樺三雲。

そう聞いただけでわたしは白樺三雲への感情が本当に分からなくなってしまった。


それにあわせるように落ち着かない天気はわたしのせいなのだろうか。


彼はそんなに悪い人ではない。

わたしが彼を異常なまでに嫌うのはアレルギーとかそんなものではなくて、自分を守るため、わざと作られた感情。

制御するために無理やり発動し続けている魔法。


恋焦がれた魔法。

家族とおなじ、生まれついてそうであれば誰にも迷惑をかけなかった魔法、心象。


それなのに、元々持っていた?わたしは心象が使える?


馬鹿みたいだ。

嬉しくないのか、ーーーー嬉しくない。

こんな、誰かを犠牲にしている魔法……。


吐き気がする。


食べ物の味がしない。眠るのが恐ろしい、魔女に全てを奪われてしまいそうで。



「理子ちゃん」


至の声にはっと顔を上げる。

学園のぴかぴかに磨きあげられた廊下。

遠巻きにわたしたちをさける生徒。

たまに聞こえる女生徒の暴言たち。




今日も今日とて、わたしは至と共に居た。

再び白樺三雲と婚約していることになっているわたしが至と共にいることで受ける視線はたいてい冷たいものだ。

でも、別に構わない。お兄様がすることだもの。多分桧木沢の牽制に一役買っているのだろう。

例えばそれがなければすぐ結婚のような運びになってしまうとか。


わたしと至は常に共にいるけれどそれは桧木沢家を安心させておくためで、そして魔女の対策をする為だ。



だから、そんな顔をすることは無いのに。

というか、貴方がどうしてそんな目をするの。


視界に写った目が覚めるような金髪。

すぐに逸らされたグレイの瞳。一瞬、目が合ったそのグレイが燃えるような情熱を写していたような気がして。

瞬時に走る嫌悪と全身に伝う鳥肌はもう無視した。



外はバケツをひっくり返したような大雨で。



音が、かき消される。



至は何も、言わない。いつもの少し眠たそうな鳶色で白樺三雲を見ている。歩みも止めることは無い。

隣を歩くわたしもそのまま。


白樺三雲がこちらに歩んでくる。

誰でも通る廊下だ。彼がいてなんの不思議もない。まして今はお昼休み。

誰が通ろうが関係がない。



白樺三雲から目をそらす。

もう視線は交わらない。



音が、かき消される。


視界の端に金色が映った。隣を白樺三雲が通りすがる。

なんでもない、ただの他人。それだけ。ただ通りすがる、同じ学園の生徒。ただ、それだけ。


音が、かき消される。


「…………今夜、理人さんが行く」


ぽそりとすれ違いざまに言われた言葉。

空耳かもしれない、そのくらいのレベルで小さな声。


目を見開いた。

お兄様が、来る? わたしを助けに?桧木沢へ……?

反象は?あれに対抗するのは危険だ。

魔法使いは、お兄様だけは来るべきではない。

お兄様のことだからなにか手段があるに違いないけれど、それでも危険なことに間違いはない。

彼の魔力で万が一あれを使われたら……。


「っーー!」


ばっと、気がついたら腕を掴んでいた。

駆け上がる悪寒。手が震える。けれどやはりわたしはそれを無視する。


「……理子ちゃん?」


驚きに見開かれるグレイの瞳、至の困惑の声が聞こえる。


それに、至は。

魔女の意識に桧木沢で唯一抗っている。

わたしとともにいることで、魔女の意識に打ち勝っている。

だめだ、今離れては。

お兄様はもうわたしと桧木沢を近づかせはしないだろう。


彼がまた魔女に呑み込まれる。昔の至になってしまう。


だめだ、魔女と桧木沢を、至を救うと決めたのに。



わたしから白樺三雲に触れたのははじめてだった。

グレイの瞳がこぼれ落ちそうな程見開かれている。


支線が真っ直ぐに交わる。

交差してその美しいグレイの瞳に吸い込まれそう。


「理子ちゃん!!」


至の叫び声のような声が聞こえて我に返った。

気がつくと、わたしたちを取り囲むように野次馬ができている。


七枝の三家の醜聞、婚約を巡るトラブル。

格好の餌になることだろう。


「桜ヶ丘……?」


「…………あ、」


探るようなひとみ。そこでようやくわたしが彼を掴んだままだということに気がついた。

ぱっと離してよろよろと後ずさる。


「……来てはダメ」


小さく呟いた言葉は彼に届いただろうか。眉根を寄せた白樺三雲をもう視線にはいれなかった。


途端に後ろからぐっと手を引かれる。

冷たい手。

緊張感が伝わる。


「理子ちゃん、行こう」


「桜ヶ丘、どういう……?」


至の硬い声。なにか怯えたような。厳しい咎のある声。それと白樺三雲の困惑した声音が重なる。


腕を至に引かれて、それでもその場に留まった。


「至はもう大丈夫、敵じゃないの。だから放っておいて」


「ちょ、っと待て……どういうことだ。でもお前は無理やり…」


「無理やりじゃない」


白樺三雲が息を飲んだ。

それからすぐに苦しそうな顔をする。眉をひそめて、今なら眼光だけで鉄でも溶かせてしまいそうなほどに熱の篭った視線。


「お前、理人さんがどれだけ心配してるか、分かってんのか!ただの家出とか友達だからとかそういう次元の問題じゃねえんだぞ!

妙なことにお前は巻き込まれてる!

桧木沢に利用されようとしてるんだぞ!目を覚ませ」


違う、だめだ。

至をまたあんな目に遭わせては行けない。あの苦しみを再び味あわせてしまっては。



「至はそんな事しない!大丈夫なの!彼はわたしを手伝ってくれてるの」


「……絆されやがって、これだからバカは………!」


ちっと舌打ちとともに忌々しげに吐かれたセリフは雨にかき消された。


「三雲、君には関係の無いことだよ」


白樺三雲が顔を上げる。どこか痛そうに。

至を見て、それからわたしに視線を移す。

至の手の力が強くなった。


「……桜ヶ丘、お前鏡見たか?酷い顔してる、最近、ずっと。

メシ、ちゃんと食ってねえだろ、ろくに眠れてもいないだろ。

随分痩せたな、顔色も日増しに悪くなる」


「……っ」


…………え?


後ろから息を飲む声が聞こえる。

至が何か言いかけたが、言葉にはならなかった。



顔色が悪い……?痩せた?本当に?


少し前であれば痩せたなんて言われたら喜んでいたかもしれない。


けれど、今はーーーー。



日に日に増す吐き気、眠る恐怖。

魔女のことを考えるために費やす日々。



鏡?もう随分見ていない。

体重計も、桜ヶ丘にいた時は毎日乗っていたのにもうずっと乗っていない。


「そう、かな」


全然気が付かなかった。

それよりも優先すべきことがあったから。


「そうだよ、お前の変化に俺が気づかないわけがねえだろ。何年見続けてると思ってんだ」


吐き捨てるように言い放たれた言葉に目を見開いた。

なに、ちょっと、それ、………どういう?




「………お前の様子は俺を通して、理人さんに筒抜けなんだよ。そんなお前の状態を理人さんが、お前の兄貴が大人しく我慢してられるわけがないだろ」



「理子ちゃん……ごめん、僕」


震える声が背中から聞こえて、至が腕を掴む力が緩んだ。

わたしたちはずっと一緒にいすぎて変化が分からなかったのかもしれない。

でも、至はなにも、悪くない。わたしの弱さでわたしの自己管理の問題で。


「い、くの?」


後ろを振り向くと至が鳶色を不安そうに揺らしてこちらを見ていた。

怖がっている、言いたいことを我慢して、耐える、まるで幼い子どものようだ。


「……いった、ほうがいいのかも、僕じゃ」


目もとがぐしゃりとゆがむ。

痛みから逃れるように俯いた鳶色をグレイがかった髪が覆い隠す。


彼を1人にしてはだめだ。

わたしのことを思って送り出そうとしている彼をまたあの苦しみの中に突き落としたくない。


わたしの意識にまで混濁するようになってきたということは、わたしが器として戻りつつある今、魔女もまた力を付けているのかもしれない。

だめだ、危険だ。


至が、呑み込まれる。


「……いかない、よ」


出た声は思いのほか掠れていた。

喉が引き攣るように痛い。


「ーーーだめだ、今夜だなんて悠長なこと言ってられない」


白樺三雲の硬い声がする。

ゆっくりと彼に視線を戻すと彼はケータイを取り出してどこかに連絡をしていた。



「……い、至は友達でしょ?」


至はやろうと思えばできるだろうに、白樺三雲にもわたしにも魔法を使わない。

魔女の苦しみから逃れるために手元にわたしを置いておきたいはずなのに、それでもわたしを優先しようとしてくれている。

それなのに、それ、なのに。


「ああ、だからこそ。至が心底悪人でないことを知っている。事情があるのもな。

だからといって、お前が犠牲になるのは、だめだ」



白樺三雲の言葉は酷くぶっきらぼうだったが、どこか優しさに溢れていて、なぜだか胸が締め付けられた。




「………理子様、申し訳ございません」



ーーーーー衝撃。



意識が遠のく中で聞こえたのは至の悲痛な叫びだった。




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