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「やあ、俺の理子。久しぶり。
理子とこんなに離れるなんて…もう兄様は死んでしまいそうだよ」
「お、お兄様!」
なんでこんな所に。
昇降口のすぐ側で黒い傘を広げて佇んでいる、よく見慣れた威風堂々とした立ち姿。
我が兄ながら整いきった隙のない容姿。
肉食獣めいた獰猛な切れ長の漆黒の瞳。
にこり、と笑った先に見える尖った犬歯がやたらと凶暴そうに感じる。
平素ならばひぃっと叫びそうなセリフと意味深な笑顔であるがわたしはなんだか安心感で涙が溢れる寸前だった。
なんでこんな所に?とか、何故こんな時間に?とか、お仕事は?とかいつからそこにいたの?とか誰が俺の理子だ、とか、そんな所にいたら傘をさしていたとしてもびしょ濡れになってしまうだとか。
言いたいことは山のようにあったけれど結局、何一つ口から出ることは無く、代わりに出たのは足だった。
こうして会えたのだから、なによりもまずは冷静に自分の状況をお兄様の魔法で読み取ってもらうべきだし、至も他の生徒もいるのだから安易に行動すべきではない。
自分のどこか冷静なところがそう言っているのに
結局わたしは雨だということも忘れて足を踏み出し、その広い胸に飛び込みたくて仕方がなかった。
いつも、過保護で鬱陶しい最強の兄。
けれど、ただひとりの誰よりもわたしを思ってくれている兄。
自分の、言わば人質のような立場も軟禁されている状況も至と共にいた事も全て、すべて忘れて腕を伸ばした。
困ったようにお兄様が微笑む。
まったく、仕方の無い理子だな。
わたしは心象の力を持たないけれどそう言っている気がする。
もう少しで届く。
手が、足が……………。
しかし、それは叶わなかった。
ぐいっと、羽のように優しい手つきで、けれど強引に引っ張られ、微かに後ろに仰け反る。
そういえばそうだった、と急激に冷却される脳が至を認識して血の気が降りた。
「こんにちは、理人さん」
「こんにちは、至くん。
……随分、仲睦まじい様子だけれど、一体誰の許可を得て、俺の理子に触れてるの」
お兄様が首をくてんと動かした。
漆黒の瞳がぎらりと好戦的にぎらついた気がする。
その手には指輪がひとつもない。
つまりは本気だ。
けれど、その笑顔はどこか曇っていて、やはり恐らく至に魔法は通じない。
そして、もしかすると、至に触れられているわたしにもそれはそうなのかもしれない。
忌々しげな口調に対して余裕そうな至はゆったりと唇の端を上げてみせる。
「誰の許可がいりますか?理子ちゃんは僕の婚約者です」
「……え?」
「理子はそうは思ってないようだけど?というか、白樺家の嫡男の話、知らないわけじゃないだろ?君はあいつの友人のはず。
そもそも桜ヶ丘は君との婚約を許した覚えはないし、実の兄と久しぶりの抱擁さえさせてくれないなんて狭量にも程がある。
そんな奴にうちの理子はあげられないな」
チラリとこちらを見遣るお兄様と目が合うと、ぱちっとウインクをした。
キザだ。
キザすぎる。カッコつけがすぎるよお兄様。
容姿が整っているから許されるけれどその顔じゃなければ寒いにも程があるからね。分かってるのかな。
冷静になってちょっと辟易したけれどお兄様は気にした素振りも特になし。
やはり魔法が使えなくなっているのか。はたまたわたしのこんなどうでもいい内心なんてとくに気にとめることもないのか。
「ふふ、そんな出鱈目でいつまで誤魔化す気ですか、桜ヶ丘は。時間の問題ですよ。
それに僕は案外独占欲が強いらしくって」
ね?
と視線をよこされたけれど、いったいわたしにどんな回答を期待しているというのだ。
というかそんなこと知らん。
瞳を泳がせるとクスリと笑われた。
その瞳がやはり甘さを含んでいて、妙に慈しむような生暖かい熱に居心地が悪くなる。
…だから調子が狂うんだって。魔女とやらの変な思惑に利用しているだけなくせに。
そんなまるで本当に……。
「……時間の問題、ね。
ああ、時間の問題だな。けれどそれで都合が悪くなるのは本当に俺らの方かな」
「はったりを。
仰っている意味がよく分かりませんね」
「だから、つまり、君達桧木沢が人を見下してられるのも今のうちってことだよ」
にたり。
まるで獲物を目の前にした獣のように鋭い瞳で、真っ赤な唇を横に引いたお兄様に我が兄ながら恐怖を感じた。
お兄様が自信満々にこう言っている。
お兄様は本気でどうにかする気だ。
お兄様が本気なら、わたしは絶対に大丈夫。
わたしもお兄様の妹。だから、きっと何かを変えられるはず。
至のよく分からないお家事情も、桧木沢の得体の知れない力も。
「理子」
「お兄様?」
「ごめんな、今日はまだ連れて帰れない。無理矢理奪い去るってこともできない訳では無いけど、お前に危険が及ぶ可能性があるから」
「……うん」
「けれど、全てが整ったら、必ず迎えに来る。
だからそれまで、もし身に危険が及ぶことがあれば迷わず、自分を守ることだけを考えて行動しろ」
「分かった」
至がいるのに堂々とこういうことを言うお兄様は流石、というかなんというか。
交渉ごとに長けている彼のことだ、なにか考えがあっての事か、それともただの過保護なのか。
至は「完全に僕は悪人だね」と小さく呟いたけれど、それはそうだろうと心の中で思った。
桧木沢には桧木沢の事情がある。
けれどそれとこれとは話が別なのだから。
「じゃ、それだけ。理子、顔見れてよかった」
「お兄様……うん、ありがとう」
お兄様に会うだけで安心する。
お兄様はわたしが心配で忙しい仕事を抜けてこの雨の中待っていてくれたのだろうか。
わたしを安心させるために、わざわざ。
眉を下げて笑うお兄様は少し疲れているように見える。
早く帰って休んで欲しい。早くあの家に戻りたい。
大丈夫だよって言って、お兄様を安心させたい。
去り際、お兄様が口元だけを動かして言葉を告げた。
5文字、何だろう。
さようなら?
いや、違う。
だ、いじょうぶ?そうかも。そうに違いない。
まったくお兄様はどこまでいってもキザだ。そしてそれが良く似合う。
「あ」
名残惜しそうに踵を返しかけたお兄様が少しだけ身体をこちらに戻して首を傾ける。
「言い忘れてたけど……」
「俺の理子に手ェ出したら、殺すよ?」
低い低い聞いたことの無いような冷たい声でそう言った。
もうすっかり雨を含んだ黒髪に隠れて表情は見えない。
ははーと安心して呑気な思考にだれかけていた頭がすっと冷えた。
恐ろしい声音だった。地を這うような。本当にお兄様の声なのか疑わしいほど。
至はそれを無表情に受け止めていた。彼の表情もまた、わたしには分からない。




