30
「……朝か」
まだ陽も昇らぬ早朝。
やけにすっきりと目が覚めた。
寝覚めが異様にいいのは、緊張しているからか、それとも昨日一日中と言ってもいいほどに寝てしまったからか。
こんな早朝に目が覚めてしまったのはなんてことは無い、常にこの時間に起きる癖がついているからである。
すっきりとした頭に反して気持ちは鉛のように重い。
訳が分からないお家事情に巻き込まれてしまった。
それも、かなり大事である。
どこかずきずきとするこめかみを抑えながら低めのベッドから起き上がると、自室とは違う畳の柔らかい感触に足裏が包まれる。
ほのかな藺草の香りと、優しい柑橘系の香り。
客室だろう豪華ながら繊細かつ重厚な調度品達、品良く、こざっぱりと整えられた趣味の良い部屋。
………落ち着く。
「………和室、いいな」
どうでもいいことをぽつりと零し、これまた母の趣味で、古風な屋敷といった外見を裏切る全室フローリング仕様な我が家になんとなく思いを馳せた。
時刻は丁度、5時半。
どこにいても、どうやらわたしの体内時計は正確らしい。
………といっても何もすることがない。
こんな時ばかりは己の正確な体内時計を呪うしかないのだけれど。
勝手に部屋を出て屋敷を彷徨いていいとも思えないし、大きな出窓には、なるほど、丁寧に枠がハマっている。
わたしがあと10キロの減量に成功したところで抜けられはしなさそう。
「…はァ」
本当にどうしてこんなことになってしまったのだろう。
昨日の至の表情がなんとなく頭にこべりついている。
いつものどこか飄々とした、線引きをして俯瞰しているような顔ではなく、悟り切った諦めた目でもなく、面白がるような冷めた表情ではなかった。
どこか悲痛で必死で泣きそうな、それでいて、物凄い感情を押し殺したような……。
桧木沢は、本当にその魔女の呪いとやらに苛まれているのだろうか。
………にわかには信じ難いけれど。
とにかく、一度、お兄様や麗華と話をしてみたい。
「御姫様」
廊下へと続く、唯一の襖から淡々とした声が響いた。
びくりと肩を揺れる。
ああ、まずい、ね、寝てるふりをしていた方がいいのだろうか、とにかく、ベッドに戻るべき?
この声は確かあの、沙都子と呼ばれた侍女だ。
どうやら、桧木沢夫人付きらしい彼女がなんやかんやと世話をしてくれたわけであるけれど、それはきっと監視の任も担っているに違いない。
……というかその御姫様っていうの辞めてくれないかな。桜姫より抵抗あるんだけど。
「御姫様、侍女の沙都子、と申します。
起きておいでですね」
「は、はい!」
初めから伺う言葉ではなかった。
監視カメラでもついているのかと慌てて辺りを見回すけれど当然、ついていたとして、わたしごときに見つかるようなところに設置するわけもない。
「本日は、至様と学園へお通いになられると主より伺っております。失礼しても?」
「え、ええ、どうぞ」
「失礼いたします」
すすーっとひかれた襖の先に床にひざまづき頭を下げた沙都子さんがいた。
それからゆっくりと顔を上げそのまま入室しまた一礼して立ち上がる。
ほ、おお、かっこいい………和室、いいな…。
どうしてお母様は和室が嫌だったのだろう。こんなかっこいいのに。
「お早ようございます。御姫様。
制服と、学園の備品は僭越ながらこちらでひと揃えさせていただきました」
そう言って手渡された真新しい制服と学園の諸々………。
うわあ、本気でここから学園通うんだ…まじか。
引きつった顔を見てまったく表情を動かさない沙都子さんはそのまま再び出口に向かっていく。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください」
「なんでしょう、御姫様」
「………すみません、その、御姫様っていうのやめていただけないですか?普通に名前で良いです…」
「しかし、至様の奥様となられる方にそのような…」
「……えっと、じゃ、じゃあ、桜ヶ丘って苗字でも……それが無理なら理子、様とか…お、お嬢様!とか、」
「………かしこまりました。ではお嬢様、いかが致しましたか?」
……ふぅ、渋りながら不承不承といったふうに頷いた沙都子さんに胸を撫で下ろす。いくらなんでも御姫様はない、うん、ない。
「至……至様や、ご当主様がたはいつも何時頃ご起床されますか?」
「至様はだいたい七時頃、でしょうか、主様はもう少し早いですが大方その辺です」
「そうですか…。わかりました」
恐らく沙都子さんはわたしか早く目覚めてしまったせいでいつもより、早く仕事を始める必要があったのだろう。
実家では使用人に伝えてあるので特に気にしていないが、なぜだか大仰な勘違いをされている私のせいでこの家のリズムを崩してしまうのはいただけない。
わたしが起きたのを物音で気がついたのか、はたまた監視カメラなのかは分からないけれど、明日からはその時間まではベッドに潜っておこう。
「お嬢様、あまり、お気遣いなく。
気兼ねなく寛いでいただくことを我が主も、我々も望んでおります」
「……あ、いえ」
こ、心を読まれたのだろうか。実は監視カメラなんぞではなくこの侍女が心象の、しかも兄とおなじ読心の魔法使いだったとか?!
なにそれ、笑えない!
「言っておきますがわたくしは桧木沢の分家の末の産まれですが魔法使いの素質は継いでおりません。お嬢様はわかりやすいお方ですね。
……………では、お着替えのお手伝いを……はい?…そうですか。かしこまりました。
……それでは後ほどまた伺います」
淡々とした声音ながら少し目元を緩めた沙都子さんが着替えを手伝うなどと宣ったので必死に両手と顔を振った。
そんな恥ずかしいことしてもらう訳には行かない!
あっさりと引き下がってくれた沙都子さんに安堵しつつ、のろのろと着替えを始めた。
余談だがサイズがぴったりすぎて、なんか怖くなった。
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桧木沢至は戸惑っていた。
全く寝付けなかった。まだ日薄の外をぼうっと見つめて部屋を出たら沙都子がどこかに急ぐのを見つけて、咄嗟に声をかけた。
聞けば、既に目覚めているらしい理子の着替えがそろそろ終わるだろうから
呼びに行くという。
以前教室で三雲に付き合い待ち伏せをしたことがあったし、その後も早朝学園で会ったことがあるから知ってはいたが、本当に朝が早いらしい。
……と、そんなことはどうでもいい。
どうでもいいんだ。
問題はその、朝食へ案内する役目を自分が強引に沙都子から奪ってしまったということだ。
先程から襖に手をかけかけて、やめて、また手を触れる寸前で、やめて。
…………あああ、くそっ!
こちら側に彼女を引き込めた、と思った途端これだ。
家のプレッシャーに押しつぶされそうだし、彼女の挙動にいちいち動揺する羽目になる。
とにかくどうすべきか分からない。
あのぽやんとした呑気そうな彼女にどこか振り回されている気がして気持ちが悪い。
大切にしないといけない、するべきだと思っているのに、失敗するのが怖くて思うように行かないし、どう動くべきか分からない。
……………これじゃヘタレの三雲と同じじゃないか。
昨日、あの後混乱したまま、全然寝付くことが出来ず、彼は両親と兄の元へとむかった。
正直魔女の意識のせいで家族の情、などいままで持ってすらいなかったのに、頼るようでなんだか気持ち悪かったけれど。
彼らに恥を忍んで、沸騰しそうなそれを飲み込んでどうにか助言を乞う。
「……恋をしたことが、ありますか?」
人を愛したことがあるか、人に愛されたことがあるか。
一縷の望みをかけてそう問うてみたものの、答えはすべからく「否」。それはもうあっさりと。
「桧木沢がそんなもの望めるわけもない」
「恋?さあ、一体どういうものかしらね」
「至が成功すればその望みも叶うかもね」
そりゃそうか……。
はっきりとため息を落として落胆したのがつい、昨日のこと。
それはそうだ。
魔女の意識に上塗りされた家系で、自我、欲の最たるものであるだろう愛とか恋とかそんなものができるわけが無い。
両親でさえ、ただただ、桧木沢の分家に都合よく産まれる呪い持ち……魔女の意識を持つものを嫁に迎えるだけ。
完全なる政略結婚である。
そもそも、魔女の現身を愛するためだけに生かされる自分たちが他を愛すなど不可能。
まるで道具だ。
だが、そうだとして、そうだとするのならば、人を愛するとはどうしたらいいのか。
恋とはどうするものなのか。
魔女は望みをただただ垂れ流すのみでその方法なんて教えてはくれないし。
彼女を屋敷に迎え入れてからは、魔女の意識は浮かれるか、幾らか薄くなった憎悪が思い出したように迸っているだけで、意思の疎通など到底出来はしないし。出来たことなどないし。変わらず鬱陶しいばかり。……いや、鬱陶しいと思うようになっただけ、逆に面倒でもある。
なんと厄介な呪いか。
「望みを叶えて欲しいなら、せめてその方法を教えて欲しいよね……」
はぁ、至は再び深いため息をついて意を決した様に襖越しに口を開いた。




