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桜ヶ丘家の当主の執務室。

そこに集まった桜ヶ丘家当主夫妻、次期当主、そして桜ヶ丘の盾と鉾がひとりずつ。

加えて、白樺の次期当主と、桧木沢家の分家である野分の長子が集まるそこに、顔色を土気色にまで落とした家令が今にも倒れそうなほど動揺しきった様で飛び込んできた。


大変な面々が神妙な面持ちでいるその様子を見て家令は堪えきれなくなったようにふらついた。



話を聞くところによると、桧木沢の次期当主が突然、たった一人でやってきたらしい。


先触れもなしに、などと悠長なことを言っている場合では無い。

そんなレベルの話ではない。

なにしろ、つい先刻この家の一人娘が桧木沢に攫われたばかりである。


ずかずかと大股で家令に迫る白樺の次期当主は未だ回復しきらない顔色と力の入り切らないそれで、しかし精一杯睨みつけながら家令を掴みあげかけて、やめた。


ひぃっと、情けない声を家令があげたからという訳では無い。

彼になんの罪もないことに思い至った訳でもない。身体が思うように動かなかったからだ。


発散しきれない苛立ちを舌打ちに替えて、なんとか折をつける。


他家に取り繕う余裕すら失った彼であるが、そんなことを今更気にするものなどこの部屋にはいなかった。



「旦那様、いかがなさいますか…?」


「うん……、当然私が行こう」


「待って父さん、俺が行く。

相手も次期当主だ。父さんは母さんとこれからのことについて考えていて」



机に頭を抱えて座り込んでいた彼が立ち上がったところで桜ヶ丘の次期当主、理人が名乗りをあげる。



桧木沢が何を言いに来たのか、正直予想はついている。

桧木沢の本家は得体がしれず不気味で得意ではないが、自分が対峙しておきたかった。


なにより妹に関わることなのだから。


長子、理人が妹に並々ならぬ執着を持っていることを理解し諦めている両親は顔を見合わせる。

御三家に対して失礼だろうが、先に喧嘩を売ってきたのはそちらである。


言葉を介さずに返答を得た理人は家令を伴って部屋を辞した。


「…なんで来るんだよ、三雲」


「俺も、一緒に行きたいです」


「話しをするだけだ。内容はあらかた想像がつく。理子は帰ってこない」


「…はい…それでも、です」



青い顔で未だ玉のような汗を浮かべつつ無理やり着いてきた三雲に理人はため息をついた。


彼の心境がもう、とんでもなく、ねちっこく頑固で譲る気が全くないものだったからである。


自分を犠牲に三雲を逃した理子に、相当、義理立てているらしいし、悔いている。

理子になぜそんなに執着しているのか、感情を揺さぶられているのか、心を覗き見ている理人ですら簡単にわかると言うのに、彼はこれで無意識らしい。

面白いものだ。



自分が、取り戻すと意気揚々な様は有難いが、精神とは相反して身体は満身創痍である。

そもそもそんなうまい役目を易々と譲ってやる気もないのだ。


苦笑を浮かべつつ理人は黙って歩を進めた。




このクソガキは、いつまで経ってもバカで面白い、そういう愚直さは嫌いじゃない。





ーーーーーーーーーーーー





「ええ、ですから、しばらく御息女をお預かり致しますと、そう申しているのです」



「はあ、そうですか、では………。

それはウチと戦争をする気、ということで相違ないですね」



「ははは、さすが、噂に違わぬ溺愛っぷりですね、桜ヶ丘の次期当主様。

何も危害を加えるわけじゃないんですよ」



ニコニコと邪気なく笑う桧木沢の次期当主に調子が狂う。


いったいなんなんだ、こいつらは。

気味の悪さとやりにくさに内心、舌打ちした。



表面では笑顔を崩すことなく対応しているけれど、それは当然向こうもそうだ。

分かっていたことだけれど、やはり、聞こえてくるのは隣にいるアホの三雲の声だけである。


今にも掴みかかりそうな穏やかではないセリフを惜しげも無く吐きながら、毅然と名家らしく取り繕っているのは、意外であった。

というか、こいつ案外器用だな、と思う。


まあ、だてに七枝の次期当主として育ってきてはないな、とも。



「そうでしょうか、いくら善の桧木沢様と言えど、突然妹を攫い、この白樺の嫡男に暴挙を働いた訳ですから、‘その妹を溺愛する俺’がそう簡単に信頼するとお思いで?」


とにもかくにも、問題はこの男だ。


桧木沢至よりも更にくすんだトーンの低いブラウンの髪に、鳶色の瞳。

線の細い中性的な顔立ちに柔和な笑顔。


見るからに優男であるが、こいつも桧木沢の当主、弟と違わず一切、心の中が伺いしれない。


これが、魔法?

防がれている風ではないのだ。

そもそも、魔法が通らない。弾かれているのではなく通用しない…そんな感覚。



「ああ、先程はウチの愚弟が少々手荒な真似をしたとの事でしたね。

兄として、桧木沢として、謝罪致します。

桜ヶ丘理人さん、白樺三雲くん、本当に申し訳ない」


優しげな顔を崩すことなくあろう事か、事も無げに頭を下げた桧木沢綴に正直驚いた。


御三家ともあろう人が下手に出るなんて有り得ない。

良くも悪くも、プライドと訳の分からない無駄な矜恃に雁字搦めの世界だ。上下の区別は割としっかりしている。

内心はどう思っているかは別として、桧木沢が桜ヶ丘に頭を下げるなんて有り得ない。


かといって俺が易々と許すかといえばそれはまた別の話。


「…桧き」


「桧木沢様、桜ヶ丘……桜ヶ丘理子さんは無事ですか」


俺の返答を待たずしてはじめて三雲が口を開いた。

真剣なグレイの瞳がまっすぐに桧木沢綴を貫く。


顔色は回復しないままだが、両手は爪が食い込むほどに握りこまれていた。


「ええ、勿論。

彼女も弟と共にあることを望んでおります」


にっこり、そう音が着きそうな程に甘い笑みを浮かべた桧木沢綴に三雲が分かりやすく顔を顰めた。


心のうちの口汚い罵り声が聞こえてくるけれど、お前、本当によくそれでこの世界を生きてこれたな…。



「それは初耳です。

妹が俺に隠し事をする事はないのですが……。

なにはともあれ、妹に確認をする必要がありそうです」


失礼、隠し事をすることが無いわけではないけれど。

ただしくは隠し事をすることが出来ない、だけれど便宜上そういうことにしておく。

やめろ、三雲そんな顔でこっちを見るな。

(桜ヶ丘も大変だな)ってお前……どういう意味だ。



「まあ、それはおいおい……ということで。

とにかく彼女の身の安全は保証致します。もちろん通学も教養もしっかりサポートさせていただきます。

しばらく滞在していただき、その間は準備期間……ということに」


「準備期間?いったいなんのでしょう」


白々しい。

実に白々しい提案に、こちらもとぼけて返す。

桧木沢の、桧木沢らしい……善人らしい笑みが余計に胡散臭く見える。

心を読まずとも、この優男然とした男の勝ち誇ったような声が聞こえてきそうなものだ。


というか、なぜ、そこまでして理子を欲しがる。

理子は確かにこの世のものとは思えないほど可愛くてアホで可愛いおバカな妹であるけれど、それをなぜ桧木沢ともあろうものが欲しがるのだ。

確かに理子の血は貴重であるが、心象としてあまり役に立つとは思えない。

それに今更、桧木沢ともあろう家が桜ヶ丘の血を欲しがるか?


桧木沢至が理子を愛している?……正直そうは見えなかった。



「婚姻の、ですよ。

うちの至が高等部を卒業しましたら、正式に結婚をと考えております。

その間はまずは婚約の儀を致しまして、花嫁修業の期間とでも思っていただけたら、と」



「なっ!?」



思わず、と言った様に目を見開き声を漏らした三雲を目で制する。

だって、理人さん、じゃない。

お前が出てくる幕ではない。だから着いてきて欲しくなかったんだ。

大体、お前は別に理子の何でもないだろうが。


……はあ、この手は本当は使いたくなかったのだけれどこの状況になってしまえば致し方ない。


とりあえず、お前は俺に使われていればいい。



「おや、桧木沢様はまったく、人の話をお聞きにならない。

勝手にそんなことを申されても了承しかねます。

そも、理子はまだしも…我が桜ヶ丘とは話がついておいでですか?」


「断る理由がおありで?

その話をまとめに私はいま、ここに参りました」


「物事には順序があるかと存じますが……まあ、御三家の方のなさること。

つべこべとはいいません。

しかし、婚姻、婚約となると話は別です」


「ですから、桧木沢と縁を結ぶことになにか不都合でも?」


まったく、食えない野郎である。

さすがは御三家という口ぶりで、御三家ということを存分に活用してきやがる。

けれど、生憎と、俺はそんな権力に甘んじて平伏してやるような良い子ではない。


にやり、と上品とは対極にあるような笑みを浮かべてしまった。

ああ、恐らくよく‘肉食獣’と称されるような顔をしているのだろう。

三雲の心でそれがよくわかる。…なんでびびる?失礼なやつだね。



「いえ。………ただ、残念ながら理子は、ここにおります、白樺三雲と既に婚約をしておりますので、今ここで話をまとめることは難しいかと…」


「えっ」



え、じゃないよ、合わせろよボケ。


にっこりと三雲を見るとどこか悪くなった顔色で、瞬時に押し黙った。

混乱しまくっている彼の心中は察するところであるが、まあ、どうであろうと、理子を桧木沢に受け渡す約束を取り付けることなく、今のこの状況でとりあえずおかえり頂ければそれでいい。


うそだろうとなんだらうと、彼らは調べる必要がある。

時間稼ぎができればそれでいい。


婚約というものは当然、ふたつ同時に結ぶことの出来ない契約である。

あとは、白樺に話を合わせて貰って…彼らは大喜びだろうけれど。

桜ヶ丘の血を欲するのもあるけれどあの二人は純粋に理子のことを気に入っているし。

既に準備は万端である書類をさっさとまとめて、この馬鹿をどうにかして。


父さんは最近、やはり白樺の当主にせっつかれているだろう白樺との婚約の話をやたらと理子にしようとしていたし。


まあ、宙ぶらりんのまま有耶無耶にしているのもそろそろ限界だということだろう。

理子も年頃である。



「それはそれは……。

となると、確かにこの場で決めることには限界がありますね」


「ええ、そうですね。

互いに当主も不在です。きちんと伺いを立てて、後日、父をそちらへ向かわせましょう」



先触れもなく、当主が来るでもなく、というか人の家の娘を勝手にさらっておいてのこのこやってきた桧木沢の若様に満面の笑みで嫌味を言ってやったが、食えない男はやはり気味の悪い柔和な笑みを崩すことは無かった。


想定内なのかもしれない。



まあ、そんなことはどちらでもいい。

時間さえ稼げれば、うまくいけば、このバカと理子を婚約させずとも、取り返す算段だって立てられる。


「それは、御丁寧に。ありがとうございます。

では、私は今日のところはこれで失礼させていただきます」



「はい、今日はわざわざこんな荒屋へ御足労いただき有難う存じます。

大したお構いもできずに申し訳ございません。

では、妹をお預けする間、くれぐれもよろしくお願いいたします」


「……ええ、それは、勿論」



すぐに取り返してやるけどな。正直預ける気なんかさらさら、ないけれど。



俺の数々の無礼を尽くスルーして(相手にするまでもないと思われたのかもしれない)最後の最後まで仮面のような優しげな微笑みを携えたまま、桧木沢綴は去っていった。



そして、隣のバカは未だに固まっていた。

俺は切実に、理子と白樺の将来が不安で仕方がなくなった。






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