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「あの、…大変失礼ですが、し、白樺様……ももう少し離れてくださいますか?
その……あまり、近すぎますと殴っ……あれなので…」
「あ?なに?これ以上離れたらどう見たってパートナーに見えないだろうが」
さすが、白樺家の嫡男。
笑顔を張りつけたまま、押し殺したような声で不機嫌そうに言ったこの男の妙技がいったいどのようなものなのか、検討も付かないけれど、というかどうでもいいけど、わたしは悲鳴を飲み込んだ。
1m離れているかどうか、くらいの距離で手を取り合っているかに見せかけて微かに浮いた手袋越しの掌がそろそろプルプルしてきた。
肘から下が異様に重い。
どう見ても不自然なのではないだろうか。
そう思うのに、すれ違う紳士淑女の皆様はどこか微笑ましげに見守るような視線を向けてくるばかりである。
しかし、事実、ものすごい量の視線を浴びているし、遠目に見つけた麗華はその赤茶色の丸い瞳を飛び出させていた(ように見えた)。
社交の場とは、夜会とはこういうものなのだろうか。居心地が悪すぎる……。
なにか、見世物になった気分だ。
絶対、不自然。
けれど、この絶妙な距離が突然この男を宛てがわれたわたしの精一杯だった。
勿論、この男……白樺三雲にとってもそれは同じ事なのだろう。
先程からずっと器用に笑顔は浮かべていれど、わたしに向ける声音は不機嫌そうであるし、なにより、怒りのせいか金髪の隙間に覗く耳がほんのり、赤い気がする。こわい。
このあとが怖すぎる。
確か、彼の魔法は雷。
それも、魔力と操力は今代最強とされる気象の魔法使いである。
死ぬ、殺される。消し炭にされる…。
この手が一瞬でも触れればわたしが殴り倒す前に感電死させられるのではないだろうか。
よく考えたら、こんなやばい男をよく殴ったなと自分が恐ろしくなる。しょうがないじゃないか、身体が勝手に動いていたのだから。……いや、しょうがなくない。
「………理人さんが帰ってくるまでだ。我慢しろ」
囁くように言われたそれに鳥肌がたったが、笑みを崩さないようにしながらなんとか頷く。
そう、そもそもは桧木沢邸の前に着いた時、ばったりと会った白樺三雲に兄が
「ごめん、三雲、急用ができた。お前、同伴者は………いないな、よし、じゃあ理子を頼む。」
とか言ってどこかにいってしまったのが原因である。
それから白樺三雲になにかしら耳打ちした兄が何を言ったのかは分からないけれど、白樺三雲はやけに神妙に頷いた。
先程まで「別に、早く着いたから外の空気を吸いに来ただけで、さ、桜ヶ丘のことが気になったとか、そういうんじゃないからな、勘違いするなよ」とか訳の分からないことを言っていたというのに。
まるで別人である。
いや、うん…知ってますけど、どうやって勘違いするんだよ。何言ってんだこの人とか心の中で言っていたわけだけれど。
そして、それはきっとお兄様に筒抜けなわけだけれど。……まあ、割とそんなことはどうでもいい。
わたしを庇うように半歩前に出て卒無く会話をこなす白樺三雲にわたしは生まれて始めて尊敬の念に近しいものを向けていた。
それ程までにスマートで美しい所作であった。
そっか、この金髪も伊達に次代の七枝当主では無いのだ。
彼は彼できっと、たくさんのことを乗り越えてたくさん努力して今、こうしているのだ。
そしてわたしはそれに庇われている。
嫌っているこの人の努力に支えられている。
しかしながら、やはりなぜだかふつふつと湧き出る嫌悪感に首を傾げ鳥肌を立てつつわたしは金髪の後ろ姿を視界にいれないよう、絶妙に視線をずらしていた。
わたしは本当にこの男のことがそこまで嫌いなのだろうか。
「こんばんは、三雲、理子ちゃん。
今日はよく来てくれたね、ぜひ楽しんでいってくれると嬉しいな」
「ごきげんよう、至。
本日はお招きくださりどうもありがとう」
もともと触れてすらいなかった腕をするりと外してドレスの裾を持ち上げた。
兄があそこまで言う程だ、恐らくあまり長居しない方がいい。いいに決まっている。
彼と長く留まるのは得策ではない。
けれど、最低限の挨拶さえ欠かすのは最大の愚行である。
はん、だか、ふん、だか白樺三雲が息を吐いた気配がするが顔は見ないようにする。なんか怖い。
「理子ちゃん、今日はいつにも増して素敵だね。
こんなにドレス姿が可憐だとは思っていなかったよ。……それにしても僕が振られて三雲とはね……いったいどういう心境の変化?」
探るように腰を折り、上目遣いで覗き込んでくる鳶色から顔を逸らす前にドレスの上から掛けていたショールをぐいっと引っ張られて引き寄せられた。
瞬時に収まりかけていた肌が粟立つ。
「ちげえよ。今は理人さんの代わりだ。俺達はもう行く」
わたしを引き寄せた代わりに白樺三雲が間に滑り込んだらしい。
いつの間にかダークグレーのスーツに視界が遮られた。
婚約者云々、の誤解が解けて以降、勘違いされるのが嫌なのはこの男も同じらしい。
しばしば、こういった場面を、特に今日はよく目にした。
何より一番、友人の至には誤解されたくないのだろう。
まあ、気持ちは分からなくもない。
至はいろいろ知っている……というか、誤解を解くにあたって画策した中心人物であるから大丈夫だよ、と言ってあげたいが、必要以上に言葉を交わしたくないとかいう、感情もどこからか湧き上がってきて戸惑う。
自分の中で自分のことが、分からない……?
「ふぅん…?」
至の声に明らかな好奇が混じっている。
この何を考えているのか分からない友人はこの状況がいたく面白いらしい。
そりゃそうだ、悲鳴をあげて逃げるくらいに嫌っていた相手と、なぜか一緒にいて、そしてなぜか庇われているのだから。
一体何があったのかと、そりゃ思ってしかるべき。
いや、わたし自身何がどうなってこんなことになっているのか分かんないし。
兄はどうやら、白樺三雲より桧木沢至を危険視しているらしいし。
「そっかぁー、まあでもうちの両親に挨拶くらいして行くでしょ?
君達を紹介したいんだ」
「………いや。それは勿論だが。
それは………桜ヶ丘はとくに理人さんが帰ってきてから、きちんと伺った方がいいだろう。」
少しだけ硬さの混じる声音で返した金髪に、ああ、そうかと納得する。
彼はお兄様にわたしと至……いや、桧木沢だろうか…と接触させないように言われていたのだろう。
「そんな堅いこと言うなんて、三雲らしくないね」
「そりゃ桧木沢家主催の会で礼を欠くほど馬鹿にはなりたくないからな。
俺もこいつを送り届けてから改めて伺おう」
「………そっか、それは残念だ」
軽く言葉をかわしてじゃあな、と片足を動かした白樺三雲に、至は笑顔で合わせてそれから気がついたように「あ」と口を開いた。
「待って、三雲。肩になにかついてる…」
「は?……っ」
「お、っと」
それは一瞬の出来事だった。
白樺三雲の背中越しで、何が起きたのかいまいちわからなかった。
けれど、至が白樺三雲の肩に触れた途端、一瞬、赤い光が小さく光った気がする。
そして、その後すぐに目の前の背中がぐらりと、揺れて、それを危うげなく至が支えた。
後ろからだと白樺三雲の表情は全く見えない。
気絶したのか、なぜ気絶したのか、それとも………
周りの人は喧騒のせいなのか、あまりに一瞬で自然な流れだったせいか、気づいている様子もない。
「……っ、、」
恐怖に喉が張り付いて何も言葉が出ない。
この、綺麗に微笑むこの優しげな笑顔が怖い。
あんなに嫌いなはずだったのに、彼の背中で守られていない事に言いしれない恐ろしさを感じる。
なに、何が起こったの?なにが、起きてるの?
「大丈夫だよ、理子ちゃん」
動けずにいるわたしに優しげな笑顔が近づく。
白樺三雲を支えていないほうの腕がなめらかに伸びてくる。
いったいこの細い体躯のどこにそんな力があるのか、いやそんなことどうでもいい。本当にどうでもいい。
逃げなきゃ……!
ようやく動き出そうとした足をあげた瞬間、しかし大きな掌は眼前にあった。
「………残念。捕まえた」
ぷつり、
わたしの意識は、そこで途絶えた。




