18
数十分前の自分をぶん殴りたい。
ひどい後悔に襲われていた。
それと、嘔吐しそうな程の気まずさに……。
その日の放課後、まばらになった廊下で見覚えのある金髪を見つけた。
不審者のように徘徊するそれはわたしを視界にいれると、眉を寄せて口を引き結んだ。
そしてたまに視線を寄越してきては目が合う瞬間に逸らされる。
昨日の様子よりは回復していたけれどそれでも、あの偉そうな態度と馴れ馴れしいムカつく顔はすっかりなりを潜めていた。
わたしは心象を継いでいない。
継いでいないわたしでさえわかるその様子は、どう考えてもわたしに用があるとしか思えなかった。
「……理子様?大丈夫ですか?」
後ろに控えていた草間が、急に立ち止まったわたしと、数メートル先の金髪に気づいて顔を覗き込んでくる。
立ったまま気絶したとでも思ったのか、わたしの顔を見てとりあえずは安堵のため息を漏らす。
それからすぐに盾になるようにわたしの視界をそのすらりとした体躯で覆った。
さすができるお姉さん。気が利くし気が付く。こういう所が大人だな〜素敵〜と思わなくもないけど残念ながら周りの男性陣は割と気が利かない。
人のことをとやかくいえるアレでもないけど。
「さ、このまま、帰りましょう」
眼前に立ち塞がった草間が振り向き優しく笑顔を見せる。
そこでようやく、わたしは自分の両手が震えていたことに気がついた。
昨日の白樺三雲は呪いたくなるほど嫌いではなかった。
遠くでチラチラこっちを伺うあの長身は、はっきりいって気持ち悪いし、情けなくあるし、多少の嫌悪感もあるが不思議とあのどうしようもない憎悪とも呼べるほどの悪辣な感情が湧いてこない。
それからやはり、わたしはどうしてあれほどまでにこの男が嫌いだったのだろうか。
そう、漠然と思った。
こんなわたしごときに二の足を踏むような男に恐怖なんて感じないし、そもそもろくに会話をしたのはあの時だけで、あの言葉にはたしかに傷ついたけれど、でも、あれのおかげで今のわたしがある。
もっと(色々な意味で)嫌なことは麗華にもお兄様にもされているのに、どうして、この両手は未だ震え続けるのだろう。
どうして、この間も嫌悪感はふつふつと湧いて止まらないのだろう。
9年も経って、未だにあれの、なにがそんなに……。
「……理子様?」
すっ、と草間の影から抜け出したわたしに驚愕の声がかかる。
遠くでこちらを伺う変質者はそのグレイの瞳を見開いた。
ビー玉のような美しい瞳と目が合って思わず背中が粟立つ。
けれど目を逸らすのは負けたみたいで、なんだか嫌だった。
「し、白樺、さま。
昨日は、わたしの方こそ申し訳ございませんでした」
カタカタと震える拳をどうにか押さえ込んだ。
さすがに殴ってしまって、だなんていわないけれど白樺三雲はなんの事だか分かったようで、ふいっと顔をそむけた。
「別に……気にしてない」
「そ、そうですか」
変に気負ってしまっていた分、やけにあっさりと言われたそれに拍子抜けした。
てっきり、昨日はよくも!とかいって殴りかかってくるかと(まあ、この様子ではありえないと思ったけれど)思っていなくもなかった。
とにかく、ほっとした。
さすがに手を出してしまったのは悪いと思っていた。
お綺麗なその顔に傷でもできていたらどうしようかとも。
どうやら腫れてもいないようで安心した。
別に昨日はなにをされたわけでもない。というか謝りに来た人の言葉も聞かずに突然殴ったのだ。
普通に捕まっておかしくない。
それに白樺家の嫡男をぶん殴ったと知れればわたしは本当に社会的に終わる。
ちゃんと、謝れてよかった…。
「………」
「…………」
沈黙。
おそらく何かわたしに言いたかったことがあるのだろう白樺三雲は口を数回開き掛け、やはりぐっと引き結んで凶悪な目付きになった。
なんだよ、言いたいことがあるなら言えよ。ど、どうするんだよ、この状況……。
緊張しすぎて浅くなりそうな息をこっそりと吐いた。
そもそもわたしと白樺三雲は仲が良くない。
良いわけがない。ほとんど他人である当然だ。
話が続くわけもないし、談笑なんて言語道断である。
けれど白樺三雲はなにか言いたそうにしているし、無視して帰ってもいいものか……。
ちらりと草間を伺うと彼女も困ったような顔をしていた。そりゃそうだ。
依然、数メートルというなんともいえない距離を保ったまま沈黙を続けるわたしと金髪は酷く滑稽だろう。
見ようによっては睨み合っているとすら見えるかもしれない。
………ああ、なんであのまま帰らなかったんだろうわたしのバカ…。
「……桜ヶ丘あのさ」
「あれ?三雲と理子ちゃん。どうしたの?なにしてるの」
漸く白樺三雲が口を開いたかと思えば新たな人物が現れてわたしは白目を剥いた(かもしれない)。
今度こそ問答無用でわたしの前に盾のように立ちはだかった草間のおかげでわたしの淑女らしからぬ顔面は隠されたかもしれないが。
「「至」」
図らずもわたしと白樺三雲の声が重なった。
重なった瞬間金髪は物凄い勢いで、至に刺さっていた視線をこちらに寄越してきた。
グレイの瞳が不思議な色を映している。
怒ったような、驚いたような……。
そして眉間のシワが物凄いことになっている。こわっ。
草間の影から覗いていた頭を思わず引っ込めた。
「至……だと?なんで桜ヶ丘がこいつを名前で呼んでんだよ」
草間に隠れてやつの顔は見えないが物凄い怒気は伝わってくる。
な、なんだよ、友達の名前を呼ばれるのがそんなに嫌なのか。独占欲が強いんじゃないか、心の狭い男だな。
それとも桜ヶ丘ごときが桧木沢と懇意にするのがおこがましいとでも思っているのだろうか。
というか、どちらにしてもそんなに怒ることかそれは。
「僕がそうしてって言ったんだよ」
「お前には聞いてない」
「じゃあ理子ちゃんに言ったの?ダメだよそんな怖い顔で怖い声で女の子相手に。
ほら、可哀想に萎縮しちゃって。だから君は誤解されるんだ」
「……うるせぇ、ほっとけ」
「というか、君たち何してたの?」
「なにって、べ、別に……」
ぎくりと効果音がつきそうなほど分かりやすく白樺三雲が動揺した。
バツが悪そうに視線が右往左往してからこちらを睨みつけてくる。ひぃ。だからいったいなんなんだ。
再び草間に隠れた。
「ふーうん、あ、理子ちゃんそういえば、来週の桧木沢主催の夜会、来るよね?」
「発言をお許しください理子様。
桧木沢様、理子様はその日、所用の為ご欠席されます」
「そうなの?」
「そうです。理人様のご命令です」
わたしが「え、なにそれ」と口にする直前で草間ははっきりとそう言った。
あまりの堂々たる姿にどちらが本家かわからないほどだと思ったのがわたしだけですように。
本来、分家……しかもわたしの護衛が御三家相手に対等に会話をする事が許されるわけもないが、至は気にした様子がない。
もしこれで激昂して魔法なんか使われていたら草間がどうなっていたことか……ひやひやしたけれど、草間は自分の身など特に顧みはしないだろう。
草間家は代々そうあるのだ。
……というかそもそも至の魔法ってどんなのなんだろう。全然知らない。麗華なら知っているだろうか?
というか、夜会、軒並みすべて漏れなく欠席していたそれである。
存在すら知らなかった。お兄様が既に断っていたのだろう。
「貴方は……」
「草間佳衣と申します」
「草間………桜ヶ丘の分家の、ああ桜ヶ丘の鉾の方ね」
盾じゃなくて鉾の方が護衛にねえ……至が小さく呟いた言葉に肩が跳ねる。
この人は一体どこまで知っているのか。
どこか、面白がるような声音が恐ろしい。
「まあ、いいけど、でも理子ちゃんは出席するはずだよ。お兄さんに聞いてみて」
「え……うん」
「それで、僕のパートナーになってくれないかな」
「な……おまえ…!」
「パートナー?」
「そう、ただちょっと隣に立ってくれてるだけでいいんだ。両親に君を紹介したい」
友達だからね?と物凄い笑顔でこちらを見ていたけれどどう考えてもなんか裏がある。
その証拠に白樺三雲は顔面崩壊もいいとこだぞ、どうした、といった表情でこちらを睨みつけていたし、(こわすぎ)草間は目で絶対断れよ的なことを言っている気がする。
というか、パートナーとかなってしまったらなんだか大変なことになる気がする戻れる気がしない、こわっ。
「あ、ありがとう、あの、けれどちょっと初耳だったから、家族と相談させて欲しい」
おずおずと言った言葉に至は笑顔で了承した。
そして、また更に白樺三雲の顔が般若のようになっていた。だから怖いって。
なに、そんなに友達と仲良くなるのが嫌なのか、それともやはり桧木沢と仲良くなるのが癪なのか。どんだけ至のこと好きなんだこの人。
心が狭いな。誰も取らないって言うのに別に。
「というか、三雲、なんで君がそんな顔してるの?あ、もしかして、君も誘うつもりだったの?」
「は、はァ!?な、そ……そんなわけないだろ!」
いや、そんなわけないでしょ至、あほなの?
面白がるような至についに吠えた白樺三雲に少し同情した。そりゃ怒るわ。
至、彼は君のことだいすきみたいなのに、そんな酷な……。
どんまい、と憂うような視線をこっそり送りつつ、またもや、あれ?わたしはこの男がなんであんなに嫌いなんだ?と思った。




