第6話 迷子
ボタンを押すと、ピン、ポーン、という聞き慣れた音が耳に届いた。
「この音を聞くと、なんだか落ち着くよね」
「そうですか?」
「音が鳴る間隔とか高さとか、安心できない?」
「できませんね。むしろ私はあまり好きじゃないんですよ、この音」
「えー、何で?」
まったく理解できない、というように蛇が尋ねると、雪は少しだけ顔をしかめた。
「だって、チャイムが鳴ったということは誰かが来たってことですよ? 対応しないといけないじゃないですか」
「その性格のせいで、君は人生の三分の一くらい損してると思うんだよね」
三分の二も損していないならいいじゃないですか、と言いながら再度ボタンを押す。
雪と蛇は家の前に立っていた。もちろん雪の家ではない。
白を基調としたおしゃれなデザインの一軒家だ。いつかこんな家に住みたいな、と。お世辞にもきれいとは言えないアパートに住んでいる雪はそんなことを考えていた。
「住所はここで間違いないんですよね?」
「たぶん、大丈夫だと思う。表札の名前も、張り紙に書いていたものと同じだしね」
それは雪も確認していた。「犬を捜しています」と書かれたあの紙には、飼い主の名前、住所のほかにも、犬の名前、特徴などが、写真とともに記されていたのだ。それは、先ほどまで雪たちが探していた犬、つまりチョコのものと一致していた。
家族の方にもお話を聞いておきましょう、と雪が言ったため、生前ウサギが住んでいたというこの家にやってきたわけだ。
「留守でしょうか?」
二度目のチャイムが鳴った後も誰かが出てくる様子はない。
次鳴らしてみてダメだったら諦めよう。そう考えた雪が再びボタンに手を伸ばした。
ピン、ポーン、と三度目の音が鳴る。やっぱりいい音だよ、と言った蛇を無視し少しの間待っていたが、やはり誰も出てこない。
「また今度来てみましょうか」
そう言った雪がドアから離れようとした、その瞬間。ガチャリ、という音とともにドアが開いた。
「ごめんなさい。音楽を流していて、チャイムの音が聞こえなかったの」
慌てた様子で出てきたのは、30代ほどの女性だった。
「どちら様かしら?」
「あの、迷子の犬を捜している、というお宅はこちらでしょうか?」
すると、女性が怪しいものでも見るような目つきになった。
「張り紙を見たのですが・・・」
雪がそう説明するも、女性の表情に変化はない。
もしかして家を間違えてしまったか、と雪は思い始めた。だとすると、名前が同じなのは偶然だったのか。珍しいこともあるものだ。そんなことを考えていた。
「その張り紙って、どこで見たの?」
そう言われたので、雪は張り紙を見つけた場所を思い出し、説明する。近くに目立つ建物がなかったため、少し時間がかかってしまった。
「まだ残っていたのね・・・」
小さくため息をつきながら、女性が言った。
その言葉から察するに、本来あの紙は回収されるはずだったということだろうか。チョコはまだ見つかっていないはずではないのか?
「どういうことですか?」
女性は、何かを考えているようだった。しばらくして、口を開いた。
「・・・そうね。わざわざ来てくれたのに、家の外で立ち話というのは失礼かもしれないわね。どうかしら、中でお茶でも」
自分の人生で「お茶でも」という言葉を聞く機会があるとは思っていなかった雪は、どう返答すべきか迷ってしまった。結局、「いただきます」とだけ答えた。
「お菓子ももらっていいですか?」と言うのをやめたのは、気の利いたジョークと思われるか、図々しいと思われるかわからなかったからだ。
「少しだけ待っていてもらえるかしら?」
女性はそう言うと別の部屋に行ってしまった。
雪は正座して座ると、部屋の中を見回してみた。
外から見ておしゃれな家は中を見てもおしゃれだった。観葉植物や額縁に入れられた絵など、一つ一つの配置が細かく考えられているようだ、と雪は思った。気のせいかもしれないが、とも思った。
部屋の中を珍しそうに眺めていた雪は、あるものを見て疑問を感じた。
小さな台の上に、花などと一緒に女の子の写真が飾られていた。おそらくウサギの生前の写真なのだろう。
死者の写真を飾ることは、珍しいことでもないだろう。問題なのは、女の子の写真に並んで飾られている写真である。
そこには、真っ白な犬が映っていたのだ。
まるで、その犬もすでに死んでしまっているようではないか。
いや、あの犬はチョコではないのかもしれない、と雪は考える。チョコのほかにも、白い犬がいたのかもしれない、と。
そんなことを考えていると、女性が紅茶の入ったティーカップをもってやってきた。
「ごめんなさい。お菓子でも用意できればよかったんだけど、切らしていて」
一瞬、先ほどの考えを見抜かれたのかと思ったが、それを表情に出すことはなく、
「いえ、全然大丈夫ですよ」
そう言いながらティーカップを受け取った。
女性が正面に座るのを確認してから、雪は口を開いた。
「あの張り紙なんですが。『まだ残っていた』とおっしゃったのは・・・」
「そうね。この家で飼っていた犬―――チョコって名前なんだけどね、もういないのよ」
「いない、というのは、見つからなかったということですか?」
「いいえ、違うわ。死んでしまったのよ。交通事故でね」
「交通事故、ですか・・・」
「いつものように娘とチョコは散歩に行ったのよ。いつもの道を歩いて、いつもと同じ時間に帰ってくると思っていたんだけどね。車が歩道に突っ込んできたのよ、娘とチョコに向かって」
飲酒運転だったらしい。かなりスピードを出して走っていたようだ。
「チョコが突き飛ばしてくれたおかげで娘は車にぶつからずに、倒れただけで済んだんだけど、チョコのほうは車に轢かれて、即死だったらしいわ」
チョコを轢いた後、その車は電柱にぶつかって止まったらしい。運転手も即死だった、というところまで女性は話した。
そこまで聞いて、雪は首を傾げた。チョコは迷子ではないじゃないか、と。あのウサギは存在しない犬を捜していたということだろうか。
「あの張り紙は・・・」
「娘は、命に別状はなかったけど、倒れた時に気を失っていたみたいで数時間後に目を覚ましたのね。そしたら、『チョコがいない、チョコはどこ?』って言ったのよ。チョコはもういないんだよって言っても、聞かなくてね。次の日から、チョコを捜しに行くって言って、毎日出かけていたの」
張り紙は、チョコが迷子になったと思っていた女の子が、両親に頼んで作ってもらったらしい。
「あの子が必死になって捜しているのを見ていると、もう何も言えなくなってしまって。でも、ちゃんと話していれば、あの子は死なずに済んだのかもしれないのよね」
雪は黙って聞いていた。
「きっと、高いところから捜そうと思ったんでしょうね。あの子はジャングルジムに上ったのよ。でも、チョコがいなくなってから、あまり食事をとっていなかったから、体調がよくなかったんでしょうね。バランスを崩して、落ちてしまったの」
あまり抑揚のない話し方だった。思い出して取り乱さないように、抑えていたのかもしれない。
「娘さんは、最期までチョコを捜していたということですか?」
「チョコは迷子なんだって、信じて疑わなかったわよ」
「そうですか・・・」
女性は目を伏せて続けた。
「娘とちゃんと話し合うべきだったって、今ではとても後悔している。悲しむかもしれないけれど、死んでしまったら悲しむこともできないからね」
女性は顔を上げて雪を見た。
「もしかして、あなたはチョコのことを捜してくれたのかしら?」
「今日だけですが・・・」
女性は柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。娘もきっと喜んでいると思うわ」
女性が女の子の写真を見たので、つられて雪もその写真に目を移した。
活発そうな女の子だ。写真の中から笑い声が聞こえてくるのではないか、と思うほどの笑顔を見せている。
「あの子は今でも、チョコを捜しているのかしら・・・」
雪に答えを期待したわけではないだろう。
独り言に返事をするつもりはなかった雪だが、
「あなたはどう思う?」
そう尋ねられたら、答えたほうがいいだろう。
「私は娘さんのことを知らないので、答えられません」
「ふふ、そうよね。ごめんなさいね、おかしなことを聞いて。・・・でも、もし今も探しているのだとしたら、チョコを見つけることはできるのかしら」
私も同じことを考えていました、と言う代わりに紅茶を飲みほした。
「お話、ありがとうございました」
「あなたも、チョコを捜してくれてありがとう」
紅茶もありがとうございました、と言って、雪はその家を後にした。
帰り道。ふと、チョコの名付け親を聞いておくべきだったか、と思ったが、足を止めることなく帰宅したのだった。




