第1話 協力
「なるほど。おかしくなったのは目ではなく頭でしたか」
真っ黒な蛇を見ながら、少女———鈴野雪はそう呟いた。
高校に入学してから半年以上が過ぎ、新しい環境にも慣れただろうと思っていたが、それ以前から溜まっていたストレスが気付かぬうちに限界を超えていたらしい。さすがに幻覚を見るほどにとは思わなかったが。
休日に家から出ずに一日中本を読んだりパソコンと向き合ったりしたのではストレスは解消されなかったらしい。やはり体を動かしたほうがいいのだろうかと思うも、もともと運動は苦手———というよりも嫌いな雪である。せっかくの休日に運動などしたら、ストレス解消どころかさらに疲れが溜まってしまうだろうという結論に達してしまい、結局振り出しに戻るのであった。
自分一人で考えていてもわからないのだから、誰かに相談するべきだと思った雪だったが、相談する相手が思い浮かばず何とも言えない気分になっていた。
「あれ? もっとリアクションがあると思ったんだけどなぁ・・・」
少しの言葉を発するだけで終わった雪に対して、蛇は残念そうに言った。
蛇を見る前に謎の靄を見ていたのだから、反応が薄くなるのは当然のことだと思ったが、この蛇を見たのが自分ではない誰かなら驚いたり逃げ出したりしたのかもしれない。
まあ、だからと言って自分が悪いということもないだろう。雪はそう考えた。
蛇は、声の調子を変えてこんなことを尋ねてきた。
「あ、もしかして僕のことが見えていないとか?」
そんなことはないだろう、と確信したような言い方だった。
一方、雪はその質問に対して言葉を返すつもりはなかった。幻覚が見えた場合の対処法は知らないが、こういうのは無視するのがいいだろう、と考えたからである。相手をすると、症状が悪化するかもしれない、と。
それに、幻覚だとわかったのだから、靄のある道を通っても大丈夫だろうと考えていた。あの靄も自分の想像だけの存在だとしたら、実際にはそこにはないのだから。
遠回りをしなくて済むことに少しだけ喜んで歩き始めた雪は、どこか楽しそうな蛇の声を聞いた。
「あれの近くを通ったら危ないと思うなぁ。死んじゃうかもね」
反射的に足が止まってしまう。
「あれはまだ形が定まっていないからね。生きているものが近くに寄ると、全部持っていかれちゃうよ?」
幽霊が怖いとは思う。でも、見たことがないから信じてはいない。未確認生物だの宇宙人だの、そういった類のものはすべてフィクションだと雪は思っている。
人の形をしているのならまだしも、目に映っているのはよくわからない靄と黒い蛇なのだ。こんなもののいうことを聞くのは馬鹿らしいと思いつつも、それで本当に死んでしまっては笑えない話だ、とも思った。
あきらめたようなため息を一つつくと、雪は尋ねた。
「持っていかれるって、何をですか?」
蛇は、心底楽しそうに言った。
「生きる気力とかじゃないかな!」
なるほど、それならあの靄に飛び込んでみるのもいいかもしれない、とはさすがに思わなかった。いろいろと疲れが溜まっているのだろうが、だからと言って死にたいわけではない。
それに、自分にはやらなければならないことがあるのだ。それを解決する前に人生に終止符を打つのは、許してはならないことだと思っている。
そんなことを考えていると、蛇が話しかけてきた。
「ちょっとだけでいいから、僕とお話しない?」
「嫌です」
本当に死ぬのかは定かではないが、一応この蛇は忠告してくれたわけである。
しかし、信用できるかどうかは別の話だろう。
これ以上よくわからないものと話すつもりのない雪は、一応蛇の忠告を受けて、いまだに黒くぼやけている道を通らないように回り道をして帰宅するべく歩き出した。
「そんなこと言わないでさ」
そう言いながら自分の前に回り込んできた蛇を見て、雪は自然と足を止めてしまう。
蛇がにやりと笑った———ように見えた。
「死んだ人間と話す機会なんて、滅多にないと思わない?」
なるほど、そう来たか、と。
「高校生で一人暮らししてるんだ、すごいね! 大変じゃない?」
テーブルの上に乗った蛇がそんなことを言ってきた。
結局、話を聞くことにした雪は、蛇を連れて帰宅したのである。さすがに自分の家にこんな不気味なものを入れたくはなかったが、外で話しているところを万が一誰かに見られでもしたら通報なり何なりされかねない。
周囲の目を気にする必要がなく、かつ落ち着いて話を聞くことができる場所と言ったら、高校生になってから一人暮らしをしている自宅くらいしか思い浮かばなかったというわけだ。
そんなわけである程度腹をくくった雪は、蛇の質問には返答せずにこう尋ねた。
「それで、話って何ですか?」
「え? 何が?」
蛇は首をかしげながら聞き返してきた。
雪は、目を閉じて深くため息をつくと、再度蛇に問いかけた。
「さっき、話をしないかって言ってませんでしたっけ?」
すると蛇は、さも今思い出したかのように言った。
「ああ、そうだったね。すっかり忘れていたよ!」
相当性格の悪い奴だ、と雪は思う。このままでは、こいつをその辺の草むらに投げ捨てたくなる衝動に駆られるのも時間の問題だと思ってしまった。
自分の手が、この蛇をつかむことができるのかはわからないが。
「ふざけてないで、早く話してください」
「まあ、少し落ち着こうよ。必要のないときに焦っても、何もいいことはないと思わない?」
なだめるように蛇が言った。
こいつは生きていたころからこんな感じだったのだろうか、と考えてしまう。どうせいろんな人に嫌われてきたのだろう、と。
「生きていたころから」である。
「あなた、自分のことを死んだ人間だって言ってましたよね」
「そうだね。言ったよ」
「私に霊感なんてありません。今まで幽霊なんて見たことないですし」
「昨日までがそうだったからって、今日もまた同じだとは限らないよね」
「そんなことが聞きたいんじゃなくてですね」
まず尋ねるべきはこれだろうと思った。
「あなた、私があの黒い靄を見たタイミングで出てきましたよね?」
この蛇は、雪が異変に気付いた直後に声をかけてきたのだ。まるで、ずっと機会をうかがっていたかのようだった。
「話っていうのは、私に聞かせないといけないんですか?」
「別に、君じゃなくてもよかったんだけどね」
あっさりと、蛇はそう言った。
「君とは話しやすそうだなって思ったんだよね」
「・・・意味がわかりません」
少なくとも、雪はこの蛇と話しやすそうなどとは思えなかった。
「僕らみたいなのが見える人ってのは、共通点があるんだけど」
急に話の流れが変わり戸惑いつつも、雪は何も言わずに聞くことにした。
「普通では絶対にかなえることのできない願いを持っていること、らしいんだよね」
雪の肩がピクリと動いた。
身に覚えがあるらしいことを見て取った蛇はこう続ける。
「そして、僕みたいに死んだ人間がこの世に留まるためにも、条件があるんだ」
休日の予定でも話すかのような気軽さで、蛇が言った。
「すっごく大事な用事をこの世に残していること、だね」
つまり。
「この世に未練がある場合に、僕みたいになるってわけだ」
そこまで言い終えると、蛇はようやく本題に入った。
「そこでだ、僕と協力してくれないかな?」
馬鹿な話だ、と思った。
「君の願いをかなえるためにできる限りのことをするよ。だから君も僕のために手助けをしてほしいんだ」
死んでいて、それに誰かわからないような人間と協力してまで願いをかなえようとするなんて。
「どうかな?」
だが。
「いいですよ。その話、乗ってみましょう」
悪くない話だ、とも思う。




