第13話 願い
悩んでいることを誰にも相談できなかった主な理由としては、人に相談するにしてはあまりにも小さなことだと、悩んでいること自体がばかばかしいと雪自身が思っていたから、ということがあげられるだろう。
自己解決できる問題だと、自己解決しなければならない問題だと思い込んでいたから、一人で悩み続けていたのだ。
もちろん、光希の死に雪が直接かかわっているわけではない。ただ、あまりにもつまらない別れ方をしてしまったと、そのことだけをずっと後悔しているのである。
雪が小学校5年生のころ。
その学校は、一つの学年に3クラスほどしかない学校だったが、それまでは1人だけ別のクラスになったり、全員クラスが分かれたりと、3人そろうことがなかった。しかし、その年になってようやく、雪、光希、水香が同じクラスになったのだった。
そんな、ある日の出来事である。
とある授業で、テストの返却がされていた。そのテストが何の教科だったのか、雪は今でも覚えている。算数のテストだった。そしてその点数―――水香が82点、雪が95点、光希が96点だったことも、雪の記憶に焼き付いていた。
比較的難しいテストだと事前に言われていたため、俄然やる気を出して勉強をしていた雪だったが、光希に負けたことが相当悔しかったのだろう。そのあとの授業中、雪の機嫌は最悪だった。
光希が単独でトップだったというのが、雪の悔しさをさらに膨らませたのかもしれない。
「なんで私が光希に負けるの!? 一生懸命勉強したのに!」
放課後の教室に、興奮した雪の声が響いていた。
「そりゃあ、僕の頭が雪よりもいいからかな?」
昔から要領のいい光希は、雪や水香よりも上を行くことが少なくなかった。
「なんでそんなにムキになるかな・・・。ほら、雪、落ち着きなって。私には勝っているんだから、よかったじゃない」
「水香は最初からやる気なかったじゃん! 私は光希に負けたのが悔しいの!」
もともと勉強自体が好きではない水香は、そのテストの結果をたいして気にしていなかったようだが、負けず嫌いな雪は納得がいかなかったらしい。
光希に負けた雪が抗議の声をあげるというその光景は、珍しいものではなかった。
「光希がいなくなれば、私が一番なのに!」
雪がそう叫び、教室を飛び出すのも、また見慣れた光景だった。
そして、水香が雪をあわてて追いかける。それを見送った光希が困ったように笑いながら、普段なら三人で並んで歩いている帰り道に着く。
そこまでは、今までに何度も繰り返されたことだった。
そのままいつも通りに進んだのなら、水香になだめられて頭を冷やした雪が、翌日の学校で光希に謝る。すると光希が軽い嫌味を言い放ち、再び雪が頬を膨らませる。おかしそうに笑う光希の隣で、疲れ果てたという顔の水香がため息をつく。そうなるはずだった。
しかし、その光景をもう一度繰り返すことは不可能になってしまった。
光希が殺されたからだ。
犯人は20代後半の男だった。一人で歩いている光希を後ろから家庭用の包丁で刺したその男は、すぐに救急車を呼んだらしい。
『発作的に殺人を犯した後、我に返った犯人が救急車を呼んだ』という記事を数日後に読んだ雪は、新聞紙を涙でぐしゃぐしゃにしていた。気が迷って人を殺すような奴に、自我なんてあってたまるか、と。
そして、雪はあることに気付いた。いつものように三人で歩いていれば、光希は殺されただろうか? 彼が一人だったから狙われたのではないだろうか? 私が光希を一人にするようなことをしたからだ。なんだ、悪いのは私じゃないか。私が悪いんじゃないか。
次第に彼女の体が震え始める。私が光希を殺してしまった、と呟きながら。
追い詰められた人間というのは、しばしばあり得ないことを本気で考えるようになるらしい。ふと、雪はこんなことを思った。
私があんなことを言ったから、光希は死んでしまったのではないだろうか? 「光希がいなくなれば」なんて言ってしまったせいで、彼はいなくなってしまったのではないだろうか?
もちろん、そんなことはないと否定する自分がいるのもわかっていた。ただ、どうしてもその考えをぬぐいとることができなかったのだ。
「光希がいなくなれば」と言われた彼が自分を恨んでいるのではないだろうか、という考えがこびりついて、雪はそれを取り除けないままでいる。
「・・・わかっているんです。世の中には仕方のないこともあるんだって、理不尽なこともあるんだってことは、私も知っているんです」
雪の頬を何かが伝った。なぜ室内で雨が降っているのだろう、と考えた雪は、それが自分の涙だということに気付かなかったはずだ。
「ただ、あんな別れ方をしてしまった自分が、あんなことを言ってしまった自分が、どうしても許せないんです」
水香に相談しようと、何度も思っていた。それができなかったのは、もちろん水香も悲しんでいることを知っているからだ。
強気に振る舞ってはいたが、彼女の言動はわずかながら「作り物」に近づいていた。無理をしているのか見て取れたのだ。おそらく、雪以外のほとんどの者には気付かれていなかっただろう。
「・・・怖いんです。光希にどう思われていたのか、ずっとそれが気になって仕方がないんです・・・」
雪の願い。それは、死んだ人間の考えを知ること―――光希が自分に対して何を思っているのかを確かめること。そして、
「私は・・・私は、どうすればいいの・・・?」
どうすれば許してもらえるのか、光希に訊くことだった。
「・・・」
しばらくの間、蛇は何も言わなかった。
「・・・ちょっと光希、何か言いなさいよ」
水香にそう言われた蛇は、はっと顔を上げるとこう言った。
「ああ、ごめんごめん。ちょっとだけ驚いちゃったよ・・・。なんだあ、雪の願いってそんなことだったんだ。それなら、僕が光希だってわかった時に訊けばよかったのに」
思っていたより軽い返答が返ってきて、雪は拍子抜けしてしまった。
「・・・これは私の問題ですから、光希に訊いてしまっては意味がないと思ったんです。光希からは、ヒントさえ得られればそれでいいと・・・」
突然、高い音が聞こえた。思わず後ずさった雪に対して、水香はある物を見て眉をひそめている。
蛇が、大きな声で笑っていたのだ。
「・・・どうしたの? 急に」
少しずつ落ち着いてきた蛇に水香が訊くと、愉快そうに、彼が言った。
「いやあ、僕が死んでから雪は変わっちゃったなあって思っていたけど、相変わらず雪は雪のままだね! 安心したよ」
初めはあっけにとられていた雪だったが、次第にむっとした表情になってこう言った。
「な、なにが言いたいんですか」
「だって、ヒントは聞いて答えは自分で考えるって! なぞなぞじゃないんだから。相変わらず雪はちょっとずれているよね」
その後もしばらく笑っていたが、ようやく収まると雪に向かって言った。
「どうすればいいのって、そんなの、決まっているじゃないか」
蛇が微笑んだ―――気がした。
「雪が何かをする必要なんてないよ」
え? と情けない顔をさらしてしまった雪に再度笑いそうになるのを抑えて、蛇が言う。
「だって、僕は自分が死んだのを雪のせいだなんて思っていないからね」
「でも、私は光希にあんなことを言ってしま―――」
「雪、よく聞いてね。僕はあの別れ方が悲しいだなんて思っていないよ。だって、雪らしい雪を最期に見ることができたからね。負けず嫌いで努力家の雪が見れたから。水香にしてもそうだよ。呆れたふりをしながら人に優しくできる水香も見ることができたんだ。思い残すことなんてないよ」
「・・・本当ですか?」
「僕が嘘をつくと思う?」
「思います」
「なら残念、ハズレだ。本当だよ」
身体が軽くなったように、雪は感じた。それは間違いなく錯覚だったが、間違いなく雪の中で何かが変わったのだ。
長年取り憑いていた足枷が外れるのと同時に泣き崩れてしまった雪を、二人が見守っている。
「さて、雪の願いはかなったから、次は僕の番かな?」
雪が落ち着き、仕切りなおすように蛇が言った。
「夢中になれるものを見つけたいんですよね」
「何よ、それ・・・」と呆れたように水香が呟いたあと、蛇が申し訳なさそうに、
「ああ、ごめんね。雪には嘘をついたんだ」
そう言った。
はあ? と言いたげな様子の二人をよそに、蛇は続ける。
「さっきも言ったと思うけど、僕は思い残したことなんてなかったんだ」
「でも、この世に留まっている死者は、何かしらやり残したことがあるんですよね?」
「その通りだよ。本当なら僕はそのまま成仏するはずだったんだ。でも、死んだ後に未練ができたんだよね」
ちょっと話は変わるけど、と蛇が言った。
「願いっていうのは、本来生きている人のためのものだと、僕は思うんだよね。死んだ人間がこの世に未練を残すなんて、あってはいけないことなんだ。つまり、死者が願いをかなえるということは、この世に対する償いだと思うんだよ。そして僕の場合は、雪に対する償いでもある」
「どういうことですか・・・?」
「だって、僕が死んだせいで雪は悩んでいたわけでしょ? それを放って成仏するわけにはいかないよね。それで、本当の僕の願いだけど―――」
少しの間の後、
「雪の願いがかないますように、ってね」
つまり、
「さっき、僕の願いもかなったよ」
蛇の姿が、暗闇の中でも認識できるその体が、一瞬だけ雪の視界から消えた。それは水香も同じだったようで、目を見開いている。もちろん蛇は一歩も動いていない。
その体を徐々に薄くしながら、蛇は続ける。
「これで、お互い目標達成だね」
霞む蛇の姿を見ながら、水香が訊いた。
「あんたそれ、かっこいいと思ってるの?」
「僕の人生の中で、一番かっこいいと思うよ」
雪は笑いながら言った。「かっこいいですよ。すごく」
蛇は満足そうにうなずいた後、一つ息を吐いた。
「これからどうなるのかなあ。天国って本当にあるのかな。それとも生まれ変われたりするのかな? それなら僕は、鳥になりたいなあ」
蛇の体は、ほとんど透明になっていた。
「もし鳥になれたら、世界旅行でもしてみようかな?」
いいですね、と雪が言った。楽しそうです、と。
とてもきれいな笑顔だった。




