第8話 正体
もし雪が嫌いな曜日を訊かれたら、間違いなく、月曜日だと即答するだろう。
理由を問われたら、自明だと答えるはずだ。太陽は東から昇り西に沈むように。音楽を流したまま横になると、いつの間にか寝てしまうように。月曜日が嫌いだということは、雪にとって、もはや常識のようなものだった。
では、二番目に嫌いな曜日を訊かれたら。少し考えた後に水曜日だと答えるだろう。
理由を問われたら。少し考えた後に、微妙な曜日だからと答えるはずだ。一週間の折り返しということは、つまり半分終わったが半分残っているというとだ。一週間を長いと感じるか、短いと感じるかは意見が分かれるだろうが、雪は長すぎると感じているらしい。水曜日になっても、「もう半分」というより「まだ半分」と思うわけだ。
そんな微妙な水曜日の放課後。太陽がだいぶ傾き、オレンジ色の光に照らされた教室にいるのは、雪ともう一人のクラスメイトだけだった。正確には、雪の肩に真っ黒な蛇もいるわけだが。
ほか生徒は帰宅やら部活動やらで教室を出て行ってしまっていたが、読みかけの本の続きが気になった雪は教室に残って、少し読んでから帰ることにしたのだ。
秒針の動く音が聞こえてくるほど静かな教室で、しばらくの間小さな文字を目で追っていた雪だったが、切りのいいところで本を閉じ、帰る準備を始めた。
本をしまい、机の上の消しかすを払い落とし、立ち上がる。
声がかけられたのは、机の中に忘れ物がないか確認しているときだった。
「ちょっと、雪」
顔を上げると、そこにいたのは教室に残っていたクラスメイトーーー鼓谷水香だった。
「何ですか?」
雪がそう言うと、なぜか水香は顔をしかめた。
今の5秒にも満たない会話の中で、どこかおかしなところがあっただろうか。雪が考えていると、水香が答えを出した。
「前にも言ったと思うけどさ、いい加減その話し方やめなって」
「その話し方って何ですか?」
「それだよ、それ。ですとかますとか、何考えてんのかわからない話し方のこと。前みたいに何も考えてないみたいな、馬鹿みたいな話し方の方が雪らしいよ。今の雪は、気持ち悪い」
毒舌にもほどがあるのではないか、とは思わなかった。彼女のこういう言い方は昔からだ。何も変わっていない。
「気持ち悪い、ですか・・・?水香はそんなこと気にしないかと思っていましたが」
「あのね、いくらなんでも急に雪の話し方が変わったら気になるよ。それに、そんな調子だからクラスにも馴染めないんだ。同級生とコミュニケーションをとるのに、丁寧な話し方は壁になる」
雪が学校で誰かと話してるのを見たことがない、と付け加えた水香に、雪はこう返した。
「適度な距離を保つために、ですますほど便利なものはないと思いませんか?」
「高校生がクラスメイトと話す時に、適度な距離を保つ必要がある?」
「たぶん、水香が必要になることはあり得ないと思いますが、私にとってはレンズの度が合わなくなってきているこの眼鏡と同じくらい必要です」
眼鏡を外し、軽く振ってみせながらそう言うと、
「まったく・・・。もう、いいよ。雪の好きなようにすればいい」
呆れたように水香が言った。
「意地でも自分の意見を変えようとしないところは、昔のままなんだけどねえ・・・」
水香が昔の雪を知っているかのように言うのは、もちろん昔の雪を知っているからだ。
というのも、雪と水香ともう一人、三人は家が近所だったため、小学校に入る前からの知り合いだったのだ。
水香は気が強く、男子と喧嘩をすることは日常茶飯事といってもよかった。だが、困っている人を見たら迷わず手を差し伸べるような、そんな嘘みたいな性格をしているため、嫌われるようなことはなかったはずだ。
ちなみに、雪は引っ越して、通っていた小中学校から離れた高校に通っているのに、なぜ同じ小中学校に通っていた水香が同じ高校にいるのか。以前、雪が尋ねると、「このまま雪を放っておくと、知らない間に死にそう」と返ってきた。この言葉にも、水香の気の強さとお節介さがよく表れているだろう。
「それで、私に何か用ですか?」
そう訊かれた水香は、困っように、しかし真剣さを帯びた表情でこう言った。
「何というか、その、言いにくいんだけど・・・。雪、取り憑かれてるよ」
何を馬鹿なことを、と笑い飛ばすことはしなかった。
今に始まったことではない。水香は昔からおかしなことを言うことがあった。
交差点の真ん中に黒いものがいるだとか、あの木の後ろから誰かが見ているだとか。
もちろん雪の目にはそんなものが映るはずもなく、水香の発言を気にしたこともなかったのだが、今改めて考えてみるとただの冗談や妄想ではなかったのかもしれない。そう思ったのは、「取り憑かれている」と表現するのにふさわしいものが、雪にも見えているからだ。
「これも取り憑かれているということになるんですね」
雪が自分の肩を指さしながらそう言うと、水香は驚き、目を見開いた。
「え? もしかして見えるの?」
水香も雪の肩を指さしながら、そう尋ねた。
二人に指をさされた蛇は、何のつもりなのか後ろに顔を向けていた。おそらく、「後ろの誰かではなく、お前のことを言っているんだ」とでも言って欲しかったのだろうが、残念なことにそんな蛇の想いに応えてくれる者はいないようだった。
雪が頷くと、水香は拍子抜けしたように言った。
「なんだ、心配して損した」
「心配してくれていたんですか? やっぱり優しいですね」
「雪から目を離すと、何が起こるかわからないからね」
優しいと言われたことに動揺することも照れることもなく、過保護な親のようなことを言った水香は、続けてこう言った。
「それにしても、こんなところで光希と会うなんてね。久しぶり」
雪に向けられた言葉ではない。雪の肩にいる蛇に向かって水香がそういうと、蛇は残念そうな声を出した。
「あー、水香。なんで言っちゃうんだよ・・・」
はあ? と首を傾げた水香に、雪は感心したように言った。
「すごいですね。死者が誰かもわかるんですか?」
「え? ああ、なんとなくね。ってことは雪にはわからないんだ。・・・光希、あんた何も言ってなかったの?」
「い、いやあ・・・。言うタイミングがなかったんだよね・・・」
「そんなことないだろうに・・・。まあいいや、光希なら悪さもしないだろうし。でも雪、何かあったらちゃんと私に相談しなよ」
じゃあね、と言って教室から出て行ってしまった水香の後ろ姿を見ながら、呆れたように蛇が笑った。
「相変わらず、水香はお節介だね。あれも一種の心配性なんだろうね」
「そうですね」
「あー・・・。雪、怒ってる?」
雪が素っ気ない返事をするのはいつものことのはずだが、何を勘違いしたのか蛇がそんなことを訊いてきた。
「今の状況で私が怒るようなことがありましたか?」
「いや、ほら、僕何も言わなかったからさ」
気まずそうにそう言った蛇に、雪は一つため息をつくと、
「あなたが私のことをどれだけ鈍感だと思っているのかは知りませんが、薄々感じてはいましたよ」
「あれ? そうなの? それなら言ってくれてもいいのに」
「言わなくてもいいかと思いまして」
そうだけどさ、と蛇が言う。
「水香に指摘されたのに曖昧なままなのは、少し気分が悪いよね。それじゃあ改めて・・・」
こほん、とわざとらしく咳払いをした。
「やあ、こんにちは! 僕は琴瀬光希っていうんだ。君は?」
「鈴野雪です」
「ああ、雪! 久しぶりだね! 5年ぶりくらいかな。元気だった?」
「もちろんですよ」
「それは良かった。それじゃあ、お互いの目標達成のために、これからもよろしくね!」
「よろしくお願いします」
何の茶番だ、と思いつつも律義に返事をしたのは、彼がこういう形だけのやり取りを好むようなところがあったのを思い出したからだ。
琴瀬光希。5年前に死んだ、もう一人の幼馴染の名前だ。




