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温かい食事など、いつぶりだろう。
病室で食べる食事は、いつも冷たかった。冷たいお粥に、冷たい味噌汁。それが冷たかったのか、温度を感じにくくなっていたのか、あえて冷まされていたのかは分からない。
配膳されてすぐに手をつけても冷たかったから、これはそういうものだと、数日で慣れてしまった。味のしない味噌汁に慣れるのには、もう少し時間がかかったが。
それでも、そのうちに慣れた。食事内容に不満など感じなかった。
入院するまでの食事に、栄養補給以外の意味を感じていなかったから。
家政婦が作る食事も、塾から帰る頃には冷めていた。持たされる弁当も、ほとんど塩味のしないものばかり。
栄養バランスを考えていたのだろう。同級生から見ても、私の持たされていた弁当は美味しそうではなかったようだ。見た目が悪くはないのだが、とにかく味がしなかった。
そんな料理で育った私にとって、このビーフシチューは格別だった。
食欲が三大欲求の一つに含まれる意味を、ようやく知ったかのような感動を覚える。
「……美味しい、です」
食事をして、感想を口にするなど、何年ぶり、いや、初めてなのかもしれない。
少なくとも私の記憶には、食事をした感想を言った記憶が残されていない。いただきますとごちそうさま以外の言葉を、食事において使うことがなかったのだから。
「泣くほど美味しいのかは分からないが……まあ、どれだけでも食べな」
泣いて、いるのか。
私は。
食事をし、涙を流しているのか。さっき会ったばかりの女性の前で、これまで誰にも見せたことのなかった涙を、流しているというのか。
驚きだ。冷静に思考する頭とは違い、感情とは、まったく不可解なものだ。
しかし、恥ずかしさはない。美味しいものに美味しいと言って、何が悪いというのか。
食事を続ける私を、彼女はただ、眺めていた。
それは、哀れみではない。けれど、その瞳の示す意味は分からない。これまでの人生で、誰にも向けられたことのない目なのだから。
「ごちそう、さまです」
「こんなもんでいいなら、いつでも振舞うよ。他人の分を作ったのなんて、いつ以来だろうね。やっぱり料理ってのは、他人に食べさせた方が楽しいもんだね」
片付けだけでも手伝おうかと思ったが、動く前に彼女に手で制された。何も言わなかったが、最後までやらせろと、言われたかのようだった。
待つ間、思考を整理する。食事の感想はおしまいだ。
今の私にできることは、頭を動かすことしかない。
銃、弾、いくつかの手榴弾とトラップツール。この持ち物は、この世界に来た時には、既に持っていたものだ。
そう、こちらに来た時一瞬で理解した。あのゲームで最後に装備していた物と、全く同じものを持っていることに。
使い方は詳しくない。FPSはずっとプレイしていたが、現実の銃器を触ったことがなければ、どのような構造で動くのかも調べてはいない。
知っているのは、あくまでゲーム的な性能だけだ。しかし、それだけなら、誰よりも知っているつもりだ。
足りない技術を知識で補う。思考の高速化。コンマ1秒の判断。フィールド全てを把握して、全ての仲間に指示を出す。そういうプレイスタイルだ。
最も、ソロでは役に立たない。専らチーム戦ばかりで、野良でチームを組んだり、全員敵のバトルロワイヤル形式に参加することは、全くと言っていいほどにない。
それでも、仲間など居ないこの世界で、私一人で何ができるのか、それを考えなければならない。
足りないものは多すぎる。だからこそ、持っているこの武器を、最大限に利用する方法を考える。
銃、弾、手榴弾、トラップツール。一番重要な物は何か。一番不要な物は何か。何かを得るためには、対価を支払わなくてはならない。文無しの私に食事を振舞ってくれた彼女のように、善意で動く世界などありえない。
彼女が特殊なだけだ。
無償で手に入るものを全て得てから、手放すものを考えよう。
まず得るべきは、情報だ。
片付けを終え、珈琲の入ったカップを二つ持ち、彼女が台所から戻ってくる。
黒い液体。コーヒー。あまり嗜むことはなかったが、眠気で集中出来ない時、飲むことはあった。最も、味など感じる余裕はなかったが。
角砂糖の入った瓶を渡されたので、ありがたく頂戴する。
「眠くなるまで、話くらいは聞いたげるよ」
「ありがとうございます。いくつか質問があるんですが……」
一番知りたいこと、それは“私がこの世界に来た理由”だ。しかし、それは問わない。
聞いたところで彼女が答えられるはずもない。答えられる人間が居るとも思えないから。
仮にそれに答えられる人が居るとしたら、きっと神様か何かだ。
「電気は、あるんですね」
田舎の風景は何百年経っても変わらないものだ。それでも、目につくところがいくつかある。
街灯。それに、今居る部屋を照らす光。それは全て人工的な光で、電気があることへの証明となる。
しかし、電柱は見当たらなかった。一体どこから電気を引いているのか。
「……不思議なことを聞くね」
「電気は、いつからあるんですか?」
「そうだねえ……あたしが生まれた時には、既にあったよ。けど、いつからあるのかは知らないねえ」
勉強していた頃の記憶を辿る。三種の神器と呼ばれるテレビ、洗濯機、冷蔵庫が普及したのは1950年以降。部屋から見える限りでは、それに該当する物は一つも見当たらなかった。
一般家庭で電気が使われるようになったのは、いつだったか。
電気を使うといえば、電球だ。白熱電球の特許が申請されたのは1879年、そこからどれだけの月日が経過している世界なのか。
違う世界などではなく、ただの過去という可能性もゼロではない。外国のような草原や建築様式、日本人には見えない顔をした人達は実は田舎の日本人で、だから日本語が通じる――この思考はナシだと数秒で分かった。
日本で、過去だとしたら、辻褄が合わないことが多すぎる。それを考慮するよりかは、世界ごと違うと考えた方がまだマシだ。
しかし、世界は違っても、技術は同じように進歩するはずだ。全く別の場所で同時期に同じ技術が生まれる例だって存在する。
電気がある。銃もある。考えるべきは、今がどこで止まっているか。どこまで進んでいるか。
文化水準。
銃が武器として生まれた時代は分からないが、歴史上に銃が登場したのは1473年、バシュケントの戦いだったか。
オスマン帝国が周辺諸国を侵略した戦いだ。これ以降は歴史上で銃を用いた戦争が数多く存在する。
日本に鉄砲が入ってきたのは1543年、ゲーム外のミリタリー知識はほとんどない私にとって、ここから第二次世界大戦まででどのような発展をしたのかは分からない。
まず、そこから思考を進めていくとしよう。
「銃も、戦争で使われてるんですよね?」
そう問うと、彼女は不思議そうな顔をする。そうして少し考えるようにして、答えた。
「いや、そんなことはないと思うよ」
「……え?」
想定外の答えに、一瞬思考が止まる。
銃があって、戦争に使われない可能性、それを考慮していなかった。
彼女のはじめの発言を深読みしすぎただけで、実用に至るまで技術が発展していないのだろうか。
考えたくはなかったが、剣と魔法のファンタジーという線も――やはり、考えたくはない。
あまりに世界構造が違いすぎると、知識の活用など不可能だ。
体を動かして戦えと言われても、まともな運動など数年間行っていない。何せ、長い間病室のベッドから動いてすらいないのだから。
ただ、この世界に来てから、運動能力は明らかに向上している。
体を動かしていた時代のことはあまり覚えていないが、この村に来るまで1時間程度歩いていたにも関わらず、息が切れることはなかった。大荷物を持っていたのにも関わらず。
足の疲れもほとんど感じていない。健康体だった頃から運動不足の私にとって、自慢にもならないがその距離は確実に疲れる距離である。
「この村で銃を使っているのは、弓が引けなくなった老人くらいかね」
「その老人も、戦争に?」
「いやいや、猟師だよ。詳しくない私が言うのも失礼かもしれないが、銃なんて戦いの役に立つのかい?」
言葉が詰まる。
1274年、元寇の際には“てつはう”という名の、銃に近いものが使われていたはずだ。
殺傷能力はなかったと記憶しているが、後に鉄砲の字があてられた事からも、類する武器なのは間違いがない。
以後200年程経ってから銃が表舞台に上がってくるが、それまでの期間で銃猟があったとは考えにくい。というより、ありえないことだ。
「戦争、してるんですよね……?」
その言葉は、最早思考の整理に等しい。何か言葉を口にしないと、頭がパンクしてしまいそうだ。
「ああ、今みたいになったのはあたしの爺ちゃんの、爺ちゃんくらいの時代かな。なんで始まったのかは、聞いたことはないね」
「その……どうやって戦争を?」
また、不思議そうな顔で見られる。
「何を聞いているんだ」と、その言葉が、口から耳を介さずとも聞こえるようだ。
「どうって……こう、槍とか剣とか持ってね、こう」
そう言うと彼女は、ティースプーンを垂直に振る。剣を、上段に振り下ろす動作。
彼女の認識は甘いかもしれないが、恐らく、誤りではない。
この世界の戦争は、今でも剣や槍が主体なのだ。
「そういえば、3年前だったかにこの村まで攻めてこられたこともあったね。近所の家に刺さった矢が、ひと月くらいそのままだったよ」
銃があるのに、弓を使う。
いくら性能が悪かろうが、銃は銃だ。命中精度が低くとも、横一列に並んで撃てば当たる。槍より、弓より遠い距離から当てることができる。
はずだ。そのはずなのに。
この世界では、銃を戦争では用いない。その理由は、何だろうか。
装填速度が遅い。確かにそれは可能性として充分に有り得る。薬莢というシステムがいつ生まれたかは知らないが、少なくとも火縄銃の段階では存在しない。
銃口から火薬を込め、弾を落とし、それらを棒で押し込んで、火縄で着火する仕組みだ。
しかし、それでもその銃を用いた戦法で、織田信長は武田騎馬隊を破ったとされている。火縄まで進めば、充分戦力となるはずだ。
銃のことも質問しようかと思ったが、恐らくこれは彼女には答えられない。それこそが第二の可能性となり、彼女の知らないだけで、戦争に銃を使われている可能性だ。
「この村で、銃を使っている人に心当たりは?」
「誰が使ってるかまでは知らないが、鍛冶屋んところの息子が、銃を作ってるって聞いたことがあるね。明日にでも案内するよ」
「お願いします」とだけ返し、一旦この思考は中断。銃のことは、他の人に聞いた方が確実だ。
一般の村人はその程度の認識と分かっただけ収穫と言えよう。むしろ、そちらの情報が後に役立つ可能性もある。
次に進めていくべきは何だろう。先程の答えからして、戦争について彼女に聞くのもあまり得策とは言えない。
銃の前例がある以上、技術の進歩があちらの世界とは違う方向に進んでいるのは間違いない。その場合最優先で知るべきなのは、この世界で“当たり前”となっていることだ。
しかし、この質問は中々難しい。何が当たり前かを尋ねるのは、まず質問を作らないといけない。しかし、どこがどう違うのか、私の知識でそれを考えることはできない。
手当たり次第に尋ねるのも無くはないが、彼女がうんざりしてしまうのは間違いない。彼女にとってそれは言う必要もないほど世界の道理であり、当然だからだ。
それら世界の常識は、言語だけを覚えて外国を旅するような感覚で、自然に覚えていくのが良いのだろう。それまでは変人扱いされるかもしれないが、仕方のないことだ。
ならば、次の質問は。
「私くらいの年齢の人は、いったいどんな仕事をしてるんですか?」
「うーん……あたしから聞くけど、あんたこれまでどんな仕事をしてきたんだい? 格好からして兵士かと思ったんだが」
「仕事……したことないです……」
これも、この世界の常識からしたら異常なことなのかもしれない。
学校教育というものがなければ。または、あっても小学生程度の年齢までだったら、この年になって働いたことがない人間など、存在しない可能性もある。
しかし、この質問だけは、ここでしないといけない理由があった。
「じゃあなんでそんな格好してるんだい?」
その彼女の言葉は、重く突き刺さる。
いや、だって。
それは、私が聞きたいことだ。
「気付いたときには、この格好だったんです」
「ううん、なんかよくわからないが、あれが銃ってなら、あんた銃は使えるってことなのかい?」
壁に置いてある銃を指差し、そう言った。
忘れていたわけではないが、考えていなかったこと。
手持ちの銃が使えるかどうか、だ。
それなりの弾丸も一緒にあった以上、射撃ができないことはないはず。しかし、それを“私が”撃てるかどうかは別問題だ。
生まれてこの方、銃など撃ったことがない。日本に生まれていれば当然だろうが、それでも、実銃を撃とうと思ったことすらない私には、この銃のメンテナンス方法すら分からない。
ゲーム画面でリロードの動作などは見た。しかし、どう操作すれば弾丸を装填できるのか、まずそこが分からない。
ベルトに繋がれた弾をどうすればいいのか。リロードの操作をすれば勝手に手が動いてくれるなんて機能は、この世界には付いていない。全て自らの手で行わないといけないのだ。
参考にする動画サイトもない。目を覚ますと草原に居たあの時、まず思ったのは「この銃を使えるようにしよう」ではなく、「人間に会おう」だったのだ。
記憶の中のリロード動作を思い浮かべはしたが、それを実践することはなかった。そして、これまでしていない。
仮に銃弾が装填できたとしても、扱えるかは別問題だ。
この銃“PKM”は、汎用機関銃というジャンルでは相当軽い。しかし、その分反動は大きく、立った状態では同じ対象に連射をするのは難しい。
射撃ボタンを長押ししていると1秒間で10発以上もの弾を吐き出す連射性能があっても、専らタップ撃ち――ボタンをカチッと小さく押すことにより、2,3発だけを撃つのが基本だった。
そうでもしないと銃口があさっての方向に向いてしまい、敵に当てるどころではなくなるのだ。
それならば、同じ連射性能で取り回しのしやすいサブマシンガンを持つという手もあった。それでも私が機関銃を手放さなかった理由は、ひとえに威力だ。
サブマシンガンが撃ち合って勝てる距離は、10mと言われている。それ以上離れると弾丸威力が拳銃と同等しかないサブマシンガンでは、撃たれたのに気付いたアサルトライフル持ちが撃ち返しても負けることまである。
ならばアサルトライフルを使えばいいと、皆が言う。
アサルトライフルならば弾丸はライフル弾、威力は機関銃に近くなり、射程も10~100mまでは対応可能、人によってはそれで狙撃までできる性能があり、取り回しもしやすい。
現にゲームプレイヤーの7割はメインとしてアサルトライフルを持っていたのだから、優秀なのは間違いない。
それでも、私は機関銃を選んだ。自分の立ち位置は突撃でも狙撃でも遊撃でもなく司令が適当だと考えたとき、選んだのが汎用機関銃だ。
汎用機関銃のゲーム上の特徴としては、最大級の重量が上げられる。
武器重量10kgまでは移動に制限のないこのゲームにおいて、ほとんどの銃が10kgを超える汎用機関銃はそれだけで移動制限がかかり、誰よりも移動速度が遅くなる。
それに、銃を構えていない状態から銃口を向けるまでの時間も遅い。PKMでは撃つまでに1,6秒もの時間がかかり、それだけの時間があれば拳銃相手にも負けるほどだ。
連射速度が速いとは言え、サブマシンガンやアサルトライフルでも1秒間に10発以上の弾を撃つのは容易であり、連射速度が特別優れているわけでもない。
これだけでは、ゲーム上で機関銃が不人気銃扱いされるのも当然だ。しかし機関銃は、二脚や三脚を用いて地面に設置した時、真価を発揮する。
立った状態では暴れ馬だった反動は一定の規則で上に振れ、それは十分に制御可能だ。つまり、アサルトライフルを超える威力、命中率の弾丸を、同じ場所に撃ち続けることができるということになる。
極めつけはその連射量。アサルトライフルでは20発程度でマガジンを交換する必要があり、長時間の撃ち合いではどうしてもリロードは隙を生んでしまう。しかし、機関銃は100発以上ものベルト給弾が行えた。
仮に最低量のベルトしか付けていなくとも、100発撃ち続けたら10秒だ。その間、狙われている相手は動くことなどできない。遮蔽物さえなければいくら逃げようが、すぐに弾丸の餌食となった。
勿論、二脚を使って地に固定する以上、自分が狙われた場合には即死となり得る。自らが砲台と化している間は味方のサポートが必須で、尚且つ、味方のサポートも行える。
主力とはなりえないが、補助として使うには十分すぎる性能だ。だから私は、機関銃手として活動していた。
さて、長くなったが、ゲーム上での性能がいくら高いとはいえ、それを直接扱う身として考えたらどうだろう。
軽いと言っても7kgはある。地面に置かずに反動を制御して撃てるほど、私に筋力はない。持ち運ぶので精一杯だ。
個人的には、ここまで持ってきただけで褒めてもらいたい。
「たぶん、扱いきれません」
「じゃあ売るか、預けるかした方が良いね。使えないのに銃を持ってるんじゃ、いくらなんでも不用心すぎるよ」
確かに、言われてみるとその通りだ。
自分で使えないなら売る。それができないなら、信頼できる所に預けておく。
前者は最終手段としたい。銃の水準があちらの世界と大きくことなる可能性のある現状、この銃を売ることによって技術が使われる可能性があるからだ。
剣と槍と弓で100年以上争っている戦いに、銃を与えたらどうなるか。考えたくもないことだ。
しかし、やはり気にかかる。銃が存在しても、戦争で使われない理由。
何か大きな意図があるように思えるのは、考えすぎだろうか。
「なるべくなら、売りたくはない、ですね……」
「ま、大事そうなもんだしね。となると預けることになるが、そういう仕事をしてる人も大きな町には居るだろうが……この村には、居ないね。あそこで会ったのもなんかの縁だ。絶対に盗まれない保証ができるわけでもないが、何ならうちで預かるくらいはできるよ」
ありがたい言葉だ。仮に誰かに盗まれたとしても、たった一挺の銃から量産ができるほど技術力のある世界ならば、銃の発展など心配する必要はない。
促さなくとも、勝手に進化をしていくのだろう。
それでも、何かの理由があって銃が戦争の道具としては発展していない場合。その理由は明らかとなった時には、この銃や弾にも、使い道が出てくるのだろう。
それまで、眠っていて貰おう。ゲームの中で愛用した、この銃に。
「いつ取りに来れるかは分かりませんが、おねがいします。あと――」
「ちょっと、待った」
彼女はそう言った。言葉の割に、真面目そうな顔をしているわけではない。
小さく笑って、続ける。
「後の話は、明日にしようか」
「はは、そう、ですね」
話した言葉は、多くない。それでも、レスポンスがある度に考え込んでいた為に、それなりに時間が経過してしまっている。
自然に笑えたことに気付いて、また笑みが浮かぶ。笑ったのも、いつぶりだろう。
表情筋は死んでいなかったようで幸いだ。
使われていない息子さんの部屋に案内されたが、そこを使う気にはなれなかった。
丁重に断って、今のソファで横になる。
そうして考える。毛布に包まれて寝る時、意識が夢の中に落ちるまでの間、私の思考は一日で一番加速する。眠りにつくまでの短時間でしかない。起きた時には覚えていないことまである。
それでも、この時間に考えるのが一番効率が良いと分かっている。睡眠学習に近いだろう。
寝る前に考え、寝ている間に整理し、起きてから反芻する。
今の気温――高くも低くもない。どちらかと言えば暖かさを感じるとこから、昼間は20度、夜でも15度程度だろうか。
空気は乾燥気味だが、雨が少ない土地とも思えない。雨が少なければ、ああも綺麗な草原は維持できないはずだ。
草は緑だった。快適に過ごせるのが春と秋だとすれば、今は春。それも冬を明けてすぐではなく、夏に近い5月か6月。
これはあくまで日本の気温や湿度に合わせているだけだ。少しでも風土が違えば、春と思っている今でも冬かもしれないし、夏かもしれない。
はじめに会った時彼女が持っていた樽、あれは飲料用だろう。常用するには明らかに少なかった。
トイレは水洗式だった。電気など使われてはいないが、この技術はいつのものだろうか。
小説、“レ・ミゼラブル”の中に、大きな下水道の記述があったのを覚えている。1800年代前半の話であり、その時代には既に水洗トイレが存在していることになる。
彼女の娘が亡くなった流行病というのは、ペストのように不衛生下で蔓延する感染症でもなく、田舎に引っ越すことができるということから、保菌者が菌をばらまくということもないのだろう。
保菌者が隔離されることもなく、それが元で死に至ることもあり、一つの町で流行する可能性のある感染症は何か。
真っ先に浮かんだのは、結核だ。
予防接種さえ受けていれば、滅多に発症することはない。昔は大勢が亡くなった感染症だが、適切な治療法が確立されてからの死者は年間2000人程度、確かに多いが、先進国に広がる病ではない。
しかし、この世界ではどうだろう。
医療のシステムが確立されていなければ、一度蔓延すると止める手立てがない。何せ結核菌は、何が原因でどこから生まれたのかはっきりしていない。世界が違えど、蔓延する可能性は充分にある。
勿論、未知の感染症という可能性もあるだろう。ただ、医療がどこまで進歩しているのかは重要だ。
これも、いつかは明らかにしないといけない。
そういえば、お風呂などはなかった。シャワーもだ。
特に何も言われなかったので忘れていたが、食事が終われば風呂に入ることなどはなく、着替えてそのまま眠る習慣のようだ。
他にも、歯磨きもなかった。虫歯が心配になるところだが、いつまでここに居るのかもわからない状態で、何年後かの虫歯を心配する必要はないだろう。
目が覚めたら、あちらの世界に戻っている可能性も、あるのだから。
さて、まだ他に、今ある情報で考えられることはあるだろうか。