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『ミラン王国』という名の国が生まれたのは、今から1300年ほど前のようだ。どの本にも、原始人のような存在は書かれていない。人間は最初から知能を持った生き物であり、種の滅びを迎えることなく文明を発達してきて今に至る。
神と人間の間に生まれた不義の兄弟が神の住まう土地を追われ、この土地に移り住んできたのが始まり。ミランというのは、その兄弟の兄の名前らしい。
兄弟を匿う侍女は無限の富を持っており、周辺の町で様々な物品を買い漁り、それがいつしか村となり、町となり、小さな国となった。
王都と呼ばれている以上、王政であることは予想がついていたが、たった1300年前の歴史に神が登場することには驚きを隠せない。
最初に国を作った兄弟が人間の寿命で死んでからは世継ぎ争いがおき、兄弟の血を引く者達がいくつかの勢力に分かれ、周辺の村や町や国を飲み込みながら勢力を拡大、決着がつくのに300年もの時間を費やしたが、全勢力が合併された時には、ミランは広大な土地を持つ大国となっていた。
大陸図がある。海を渡って神の住まう土地に行けないよう呪いをかけられていた兄弟の意思を継ぎ、国がどれだけ大きくなっても海に面した国、地方には手を出していない。300年も世継ぎ争いが起きていながらそれを順守できたということは、宗教的意識があったのだろうか。
フェムの町には教会があるとナディアが言っていた。その教会が祀る神というのは、恐らくこの兄弟のことだ。
王家は今に至るまで初代である兄弟の血を引いており、断絶はしていない。それはつまり、神の血を引いているということに他ならない。
土地は広いが選民意識はあまりなく、世継ぎ争いが終わり平和になってからも何度も国土を広げている。これが戦争によるものなのか交渉によるものなのかは分からない。詳細がどこにも書いていないのだ。
1300年前から1000年前にかけてはほとんど神話に近い体裁であり、頻繁に神本人や神の使い、神の意志を継ぐものなど、神話的・宗教的要素が見て取れる。しかし、1000年前から今に至るまで、その要素は完全に抜けてしまっている。
歴史を辿れば神から始まるので王家は神の血を引いている、ということは分かるが、ならば神というのは何なのか、そういった情報が抜けているのだ。選んだ本が悪かったかもしれないが、思い返してみると、そのような神について書かれていそうな本は見当たらなかった。
根本には宗教的な何かがあっても、以後1000年は特に何もなかったというのは分かる。現実に超常の力を使う神など居るとも思えないが、そもそもこの世界には日本人という異物が居る。あちらの世界の人間がこちらに居るという現象はこの世界において何を示すのか、それに関わる情報は歴史には存在しない。
あまりにもあちらの世界と似た形の銃がある、日本語が通じる、メートル、キロなどの単位がそのまま使えるのは、何故だろう。どこかでそれを広めた人間が居るのか、偶然同じになったのか。
私達の存在は、歴史には記されていない。あまりに少数の為にこれといった出来事を起こさなかっただけかもしれないが、もしかしたら、この歴史に登場する人物の何れかも、あちらの世界から来た人間かもしれない。
焼き鳥屋のあの男性は、祖父が日本人と言う。相澤のように4年前にこちらに来た人間もいれば、焼き鳥屋台を作った男は少なくとも50年以上前前にこちらに来た日本人だ。私と相澤では明らかに時間がズレていても、それ以上にズレている人間も存在する。それらがあのゲームをプレイしていた人間なのか、そうでないのかは分からない。
私達をこの世界に呼んだのは、こちらの世界の神様か何かだろうと予想をつけることはできる。しかし、神というのは何なのだろう。
少なくともこの国においては、神は海の向こうに住んでおり、歴史に登場するときも人の姿をしている。そもそも神と人間の間の子が生まれるのだから、人間の形をしていて当然だ。
私は、私達は、そんな神になど会っていない。神の意志を聞いてこちらに来たわけでもないし、拒否権があったわけでもない。
寝て起きたらこちらに居たのだ。何のガイドもなく、何の情報もなく、ゲーム中に所持していた武器弾薬を持ったまま、こちらへ来た。
あの銃は何なのか。当面の護身用と見れば良いのかもしれないが、それは明らかな人間の意図だ。
誰の、誰かの意図で私達はこちらの来たのだろうか。
私達は、何に、誰に求められてこちらに来たのだろうか。そして、何を成すべきなのか。
何も教えてもらえない。
だからこそ、私は自分の思っているように行動している。これが誰の影響も受けていない私自身の思考であるとそう信じ、行動する。
気にはなる、だが、いざここで神が出てきて何をしろと言われても、私はそれを聞かないだろう。今、もう決めているのだから。
だから、構わない。誰が何の目的であちらの世界の日本人をこちらの世界に呼び出しているかは分からない。だがそれで、構わないのだ。
フェムに教会があるならば、もう少し神について知ることはできるかもしれない。本に書かれていないような内容を、知っている人が居るかもしれない。
多少時間があるなら、そういう人に話を聞いてみるのも良いだろう。ただそうすると、私の素性がバレることにもなりかねないが。
ノートに書き記し思考を纏めていると、ナディアが御者席から馬車の窓をコンコンと叩く。休憩するときの合図だ。
本を纏めノートを閉じ、彼らへの質問を考える。ロレンソは全く興味がないようだが、ナディアはそれなりにこの世界について詳しい。知識が現代に偏っているとはいえ、最低限の知識はあるようで、疑問解消する手助けをしてくれる。
馬車は少しずつ速度を落とし、山沿い、草木で日陰になっているところに入り、休憩に入る。
馬を休ませるのに3時間ほどここに居たいとのことなので、早めの夕食を取ることになった。といっても料理するほどの道具は持ち込んで居ないので、パンやハムを切り、野菜の入った缶詰を開けるだけの簡単な食事だ。
移動2日目ともなり移動中の読書には大分慣れた気持ちはあるが、パンを貪るナディアには疲労の色が見える。御者として馬車を走らせている以上、彼女の気が休まるのは休憩中くらいのものだ。負担を押し付けたことを今になって後悔する。仕事で御者をしている者ならともかく、彼女はただの女の子だ。あまり、無理はさせたくない。かと言って私が変われることでもないので今は頑張ってもらうしかないが、フェムに着いたら彼女をゆっくりと休ませてあげたい。
ロレンソはピンピンしているが、「今日は17人でした」との報告が“矢を放った数”であり“襲ってこようとした人間の数”だというのに気付くのに、相当時間がかかってしまった。食事をしながら何てことを報告するのだろう。
いつ弓を射たのか全く分からなかったが、馬車の音、外を見ていなかった事からも、仕方がないのだろう。ナディアは気付いていたようで驚きはしていなかったが、私はゆっくりと驚いた。襲ってきたかも分からないうちに退治されたのでは、はなから銃の出番など全くなかっただろう。
もしかして、ロレンソは相当凄腕の兵士なのかもしれない。いくら護衛対象が馬車一台、2人しか居ないとはいえ、17人襲ってきて全てを撃退しているのだ。700mもの距離で命中させられる弓を掻い潜れる人間も居るのかもしれないが、そんな異常人が居なければ全ての護衛が彼一人で賄えてしまう。
彼にも、相澤の言っていたような銃弾を回避する運動能力があったりするのだろうか。剣や槍などは使えないにせよ、弓一つであちらの世界では考えられない技術だ。銃弾の回避ができても、そこまで驚けないかもしれない。
「質問なんだけど、良いかな?」
「はい、なんでしょう? リカさん」
「今のところ読んだ本には、1000年位前まで神様が海の向こうに住んでたらしいんだけど、それって今はどういう扱いになってるのかな? なんか、情報が完全に途切れちゃってるんだけど……」
「ああ……そういえば、ミラン語で書かれてる本は大体そこで切れてますね。ハウテス語かルシテ語で書かれてる本ならそのあたりの話もあると思いますが……リカさんが持ってこられた本、ミラン語の資料だけでしたか?」
ナディアの言葉に、一瞬思考が止まってしまう。
知らない言語が出てきたのだ。ミラン語、ハウテス語に、ルシテ語。
ちょっと、ちょっと待ってほしい。今の質問とは桁違いの、重大な勘違いをしていたのかもしれない。
それに、この疑問は――
「えっと……ごめん、ミラン語って、この本はミラン語で書かれてるの?」
「……? ええ、それはそうですが……リカさん、それを読んでたのではないんですか……?」
彼女が差したのは、私が読みかけで持ってきていた本。
私には読める。この表紙に書かれてる文字も、中身も、全て読むことができる。
日本語で、だ。
「混乱してきた、えっと……今私たちが話してるのは何語?」
「ミラン語ですよ? 違う世界から来たとおっしゃったとき、その国でもミラン語が使われてるんだなと、少しだけ驚いたんですが」
「……私、日本語を話してるつもりなんだよね。ナディアもロレンソも、いや、これまで会ったどの人とも、日本語で会話してる、はず……なんだけど」
ナディアは少し考え込む。私よりかは混乱してないであろうナディアは、この言葉をどう解釈するのだろうか。
私は一応の結論を出そうとしている。ただ、その結論は、とても納得はできない内容だ。
「リカさんの知っている日本語と、私たちの話すミラン語が同じ言葉……ということでしょうか?」
彼女の答えは、可能性その一。
偶然言語が同じだった、という可能性。
明らかな異世界から来ている私でも言葉が通じる理由とすれば、間違いなくそれが一番納得しやすい答えだ。
ただ、この答えを回答とすると、疑問が生じてしまう。第二、第三の疑問だ。
「それなら、いいんだけど……ナディア、その、ルシテ語とか、書ける?一文字だけで良いから」
「ええ、ハウテス語は書くことも読むこともできませんが、ルシテ語ならある程度は。地方によっては、ミラン語を喋れない方もいらっしゃいますし……と、こんな感じです。読めますか?」
ナディアは紙を手渡ししてくる。パンの包み紙に、ペンで書かれた簡単な文字列。
「ナディア、これ、なんて書いてあるの……?」
「“こんにちわ”、ですよ。やっぱり読めないですか? それとも私、そんな字下手ですか……?」
「いや、ごめん、違うんだ。読めるの、読めるんだけど……」
「けど?」
「この紙に書かれた文字と、本に書かれた文字、私には同じに見えるよ」
「……え?」
私の言葉に、ナディアは明らかに困惑している。
この反応から見るに、ルシテ語とミラン語はよっぽど形が違う文字なのだろう。似た言語ではなく、全く違う言語なのだ。
私には、全てが日本語に見えるが。
「ごめんなさい、ちょっと意味が分からないんですが、紙、もう一度お借りしますね」
先ほどの紙をナディアがひったくるように取り、更に文字を書いていく。
しかし――
「上から、ミラン語、ルシテ語、イルミ語です。これはリカさんにはどう見えますか?」
結果は同じ。
彼女の筆跡を目で追っていても、全てが同じように見えていた。
理解が及ばない。頭がどうかなっているかのようだ。
「全部、日本語に見えるね」
「分かりました。ではリカさん、この下に日本語で、同じように書いてください」
真剣な眼差しで、紙とペンを手渡される。
パンの包み紙には、ミラン語、ルシテ語、イルミ語、そして、日本語による“こんにちわ”という文字が書かれる。
私には全て同じに見える。それでも、リカには違う文字に見えているのだろうか。
「私には、リカさんが書かれた文字はミラン語に見えます。上から、ミラン語、ルシテ語、イルミ語、そしてミラン語です。ロレンソはどうですか?」
包み紙をロレンソに手渡す。彼は少し考え込むような動作をしたが、結論はすぐに出た。
「ミラン語に見えます。あの、今のやり取りで思い出したことがあるんですけど……良いですか?」
紙を返し、ロレンソは控えめに手を挙げる。
「昔、似たようなやりとりを見たことがあるんです。6年前か、7年前か、まだアダリナに居たころに。詰め所に居た兵と、どこかから来たって旅人が今と同じような話をしてたのを、思い出しました。何語って言ってたのかは覚えてないですけど……」
「リカさんと同じように、違う言語が全部日本語に見えるという、話ですか?」
「はい。ただ、ニホンゴなんて音じゃなかったような……何か、伸びる音だったかな……何だったかな……」
伸びる音。長音が入っている言語、それか、そう聞こえる言語。少し考えてみたが、やはり最初に浮かんだものが正しいだろう。
「英語、じゃないかな」
「ああ、たぶんそれ、それです、エーゴ。肌の黒い男でした。たぶん、30くらいですかね。名前とか、どこに行ったかとかは全く分からないんですが。話の途中ですみません、それだけです」
「その黒い肌の人は、ミラン語が英語に見えてた、ってことだよね」
「たぶん、そういう話だったと思います」
「じゃあ、決まりかな――ちょっと、想像以上に厄介だけど」
「決まりとは、どういうことですか? 私にはさっぱり分からないんですが、その、英語というのは、リカさんの世界の言葉なんですか?」
静かにしていたナディアが、口を開く。納得できたのは私だけで、恐らく、この世界の人間ではきっと納得できないだろう。
それでも、分かったことはある。理由は分からないが、説明することはできる。
「私が来た世界、地球ってとこなんだけど、そこに住んで日本語を話してる人は1億人くらい。で、英語を話してるのは4億人くらいだったかな? 全然違う言語で、文字も話し方も文法も、全部違う言語。つまり――」
「リカさんがこれらの言語を読めるのは、偶然ではない、ってことですね? 偶然同じ言葉を話していたわけではなく、全く別の言葉を自分の母国語として聞き取って、読み取って、書き取ってる、と。納得するのは難しいですが、そういうことなんですよね」
「うん。たぶん、そういうこと。逆に、私の言葉はミラン語になってるみたいだね。書く文字も、話す言葉も、全部ミラン語。となると、英語を喋る人とあった場合、それはどの言語が優先されるのかな……」
「明らかに異常なことなんですが……よく考えたら、違う世界から来るってだけで異常なことでしたので、まあ、それは置いておくことにします。英語の件もありますが、それより大きな問題があると思うんですが」
「問題?」
「はい。私たちは他国、敵国の人を言葉で聞き分けることができます。ルシテ語やハウテス語はこのあたりの地方に昔からある言葉なので別ですが、ミラン語に関しては、国が建った後に生まれた言語なんです。よほどの理由がないと、他国の人はミラン語を喋ることができませんので、私たちは異邦人をそれだけで見分けることができます。ただ、リカさんにはそれができないんですよね」
問題。
言語が自動的に翻訳されてしまう。それは大変便利なものかもしれないが、読む文字も、書く文字も、全てが日本語になってしまう。恐らく、この世界全ての言語が、だ。
ならば、別言語で書かれたそれらを、私が見分けることは可能なのか。
いや、不可能だ。
筆跡も、全て日本語として認識してしまう。訛りも方言もなく、全てが統一された日本語となってしまう。その状態で、敵国の人間と対面したら、どうなるか。
分からない。相手からしたら私の言葉がミラン語ではなく、母国語で聞こえるかもしれない。自動的な翻訳が私だけに働いているとしても、それは同じことだ。
言語Aと話す人間、私、言語Bを話す人間が居ても、私には全て言語Cである日本語として認識してしまう。
それを聞いた他人にはどう見えるのだろう。言語Aを話す人間と私が話しているところを、言語Bを話す人間が見たら、だ。
私はどの言葉を話しているように聞こえるのだろう。
まだそれは分からない。他言語による致命的なズレがどこかで起きるかもしれないが、それを私が認識する手段がない。
この世界全ての言語を理解する人間でもいない限りは、私が誰とどの言語を使って話しているかなど、分からないだろう。
幸い、自動翻訳は今すぐ重大な欠陥があるわけではない。他言語を見分け、聞き分けることができないのは確かに支障があるが、全てを読み、聞き、喋ることができるのならば、デメリットを打ち消すほどのメリットに成り得る。
今知っておいて良かった。発覚が遅ければ遅いほど、知らない間に問題に巻き込まれかねないことだ。
「うん、どれが何語か分からないのは確かに問題だけど、読めない、聞けないよりはマシ、かな?」
「それはそうですね。仮にリカさんが日本語以外を喋れないままでしたら、まずあの村でコミュニケーションを取ることもできなかったでしょうし、悪いことだけじゃないと思います。あと、純粋に羨ましいですね」
「羨ましい?」
羨ましい。その言葉を言われたのは、いつ以来だろう。記憶にはない。初めてなのかもしれないし、昔言われたことがあるかもしれない。
勉強漬けの私を羨ましがる人が居たとも思えないし、ゲームのプレイヤースキルも別に高くなかった私は、そこで羨ましがられることもなかったが。
「ええ、本もそうですが、どの国の人とも会話することができる共通言語を、リカさんは持っているわけですから。それが羨ましくないはずがないです」
「それもそっか。勉強して覚えたわけじゃなくて、ただ自分の言葉で喋るだけで誰とでも通じるんだから……」
「仕事には困らなそうですね。外交とか、翻訳とか」
「確かにね。まあ、当分仕事しないでも生きていけそうなお金はあるけど」
そう言うと、ナディアは「それもそうですね」と小さく笑う。
デメリットはあるが、それ以上にメリットはある。この言語自動翻訳を、うまく使う手段も考えないといけない。課題は山積みだ。




