魂の素粒子はピンク色のつぶつぶ
その死体は、毒々しい色をした舌をだらりと垂らしている。口周りは腐食し、不快な匂いが辺りを漂い始めていた。しかしそれは絵の具の油臭さに打ち消され、むしろ画家はその匂いさえもキャンバスに写し取ろうと、木炭を走らせる。
粗く描かれる人物は彼に似ていた。いや、彼そのものだ。画家はいくつもの書きかけの作品と死体から落ちた毒薬の瓶、そして微笑む女一人を観客に、死んだ己を描いていた。
「僕を愚か者と笑うかい、死神」
滑る木炭は白いキャンバスで、死んだ己をほぼ描き上げる。自分とキャンバスを睨むように見つめながら、画家はたった一人の観客に尋ねた。
「別に笑いやしませんよ」
黒いフード付きマントの中から蒼白い腕と顔を出し、死神は肩をすくめた。
「人の願いなど千差万別、十人十色」
それを聞くと画家はしばらく黙り、ゆっくり口を開く。
「君が人の姿でなかったら、これに描き込んであげたのに」
風景画を得意とする彼が言うと、にぃっと死神は笑った。唇だけはさくら色で健康そうだ。
「天才と呼ばれたあなたの絵に入れないとは、アタシは随分損をしたもんだ」
かんらかんらと笑う死神は鎌を持たない。画家は吸い込まれそうな漆黒のマントをちらちらと目の端に入れ、絵の具を絞り出す。
「何故、君は僕の願いを叶えたんだい」
色を整えながら、一つ一つとキャンバスに彩りを重ねていく。死神は笑いを引っ込め、「では、こちらからも」と、画家に尋ね返す。
「何であなたは自分の死体なんぞ、描こうと思い付いたんで?」
椅子に力なく座る己を見つめ、「簡単なことさ」と、画家は言った。
「たった一つ、誰もやったことがないものを作り上げたかったんだ」
現代最高の画家と謳われる、彼は言う。
彼は過去も未来も現在も、誰も真似出来ないものを残したかった。画家は死体の右手を見やる。
「あの腕は二度と筆を持てない」
「そりゃあ、死体ですから」
違うと画家は首を振った。
「骨の、癌なんだ」
切り落とさなければならなかったと画家は語る。
「僕は画家でなければ僕ではない」
だからこそ彼は己を描く。画家として生きた男の最期を描く。
「死神、質問に答えて貰おう」
小さく、死神は息を吐いた。
「あなたほど御大層な理由からじゃあ、ありません」
つぅっと、彼女は側にある木炭画に触れる。
「魂のこもる物を見たかった」
それだけです、と彼女はにぃっと笑った。画家も小さく笑う。
「つまらない駄洒落だね」
「いやいやいや、これは駄洒落なんぞではなく」
慌てて死神は否定する。
「人は己の魂を削り取って、何かに移せるんですよ」
それは絵だけではなく、音楽だったり文章だったりするのだと、死神は説明した。
「まあ、有名無名様々ですが」
大抵そのような作品は世間に認められるけれど、と死神は付け足した。
「あなたの絵もそうだ。あなたは顕著に魂を磨り減らしていた」
男は、女の言葉に手を止めていた。これが己の魂の一部を持つのかと、しみじみキャンバスを見つめる。
「もちろん、魂を磨り減らすんです。その一生は短い」
多くの芸術家が儚く命を散らすのも、その為だ。
「なるほど。僕の自殺も当然の結果か」
「そういうことで」
死神が柔らかく答えると、画家は作業を再開した。絵はどんどん完成へと近付いている。
「もう一つ聞いても良いだろうか」
「何でしょう」
陽気に答える死神と違い、画家の声は真剣だ。
「死神には僕の絵はどう見えるんだ」
魂の見えるものに、魂のこめられたものはどう見えるのか。画家である彼は気になった。
「人間とさして変わりはしませんよ。ただ」
「ただ?」
言葉を切った死神を促す。
「ピンク色の、粒が見える」
どこがさしたる違いだと、画家である彼は思う。自分が認めた色以外が、キャンバスに映るなどあってはならない。粒というのも気に食わなかった。
「魂は思ったより下世話な存在なんだな」
彼女はこれに、ピンク色の粒が撒き散らかされて見えるのかと思うと、最期の一筆を入れる力が抜けた。
「どこが下世話で?」
荘厳じゃあ、ありませんか。と彼女は男の傍らに立ち、言ってからパレットに出された赤と白を指差す。
「ピンクは赤と白から出来る」
赤い母の血肉と白い父の精液を混ぜて出来上がるのが、ピンク色をした御霊だと、彼女は形の良い歯をむき出して笑った。猫のような瞳は赤と白だ。右の赤と左の白を混ぜれば、さくら色の唇が出来上がる。男はため息を一つ落とし、パレットの赤と白を混ぜた。赤と白、一対一で混ぜ合わせれば、鮮やかなピンク色が出来上がる。
「ピンクが似合うのは、何も人間だけじゃないよ」
死神の右手を取り、甲へ筆を滑らす。簡単に描かれた花に、死神は微笑んだ。
「これじゃあ、しばらく手は洗えませんね」
「僕が消えるまでの戯れだ。すぐに流してくれ」
そして彼はピンクとは正反対の、汚濁を含む黒をキャンバスに乗せ、たった一つきりの作品を仕上げた。寒色の背景に黒い死体が佇む。しかし、吹き上がるのは激烈なる赤だ。そこから虚無の白が生まれる。
「君にはこれがピンクを彩っているのか」
死神は頷いた。画家はサインを記す。そして死体の絵に、ピンクの粒がまとう様子を想像してみる。それは、なかなかに悪いものではなかった。
空想の粒に触れようと、彼はキャンバスに手を伸ばす。もう、触れることは出来なかった。
「この世にお別れだ」
死神の手に咲く花を見つめ、さようならと呟くと、彼はピンク色の素粒子へと戻っていった。ひどくあっさりとした別れだ。
魂の分解物は死神の持つスプーンに乗る。スプーン一杯のそれに、死神は苦く笑った。
「磨り減らしすぎだね」
とろとろとピンク色の粒はとろみを持ち、スプーンの中を泳ぐ。女はキャンバスを見つめた。裏に絵のタイトルを見つける。
「一人地獄、ね」
にぃっと彼女は口角を上げ、ピンク色の粒に囁いた。
「あなたが行くのは地獄じゃあ、ありませんよ」
花の咲いた右手でスプーンを掲げ持ち、それを傾けた。とろり粒を持つ流動物はそこから流れ、開いたピンクの唇から、白い歯と赤い舌の中へと零れていく。思うよりさらりとしたその液体の喉越しを、彼女は目を瞑って感じた。
「アタシの腹ん中を地獄かどうか決めるのは、あなたの勝手ですがね」
ピンクの素粒子は赤い血肉に舞い戻り、また白い精液から生まれ出ることを夢に見る。
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