8 助けてやらない
「……そう拗ねるなよ」
そう言われても、先程のサクヤのひどい態度を考慮すると、拗ねたくもなる。
結局サクヤは、サラがオレの背中で吐いている間中、近寄ってこなかった。
サラが吐くだけ吐いて、もうこれ以上吐くものがなくなった段階で、ようやくオレの背中から下ろすのを手伝ってくれたワケだが。
――遅いんだよっ。
その頃には、オレの背中はどろどろだ。
「オレは金輪際、あんたが誰かのゲロ塗れになってても、絶対助けないからな!」
「そう言うな。悪かったって」
自分でも反省したのか、サクヤには珍しく、本当に悪いと思っている様子ではある。
何と言うか、サクヤにこれ以上の思いやりを求めても仕方ないとは思っているのだが、オレが困って助けを求めているのに遠巻きに見ていた様子を思い出すと、腹立たしさが蘇ってくるのだった。
温泉のある宿に泊まらせてくれたり、こうして汚れたシャツを洗ってくれているのは、やっぱりサクヤにしてはだいぶ気を遣っているのだろうとは思うのだが。
「本当に悪かったと思ってる。だから風呂入って来い。……それとも昨夜の逆で、俺が身体を流してやろうか?」
オレのシャツを絞りながら、サクヤは恐ろしい提案をしてきた。
「……は?」
「だから。昨日はお前が洗ってくれたから。今日は俺が――」
「――いや、いい。全力で拒否する!」
「……そんなに嫌がらなくても」
「あんたこそ、何でそう乗り気なんだ!?」
オレが尋ねると、サクヤはワケが分からない、という顔をする。
「いや、悪いと思ってるから、お詫びに。自分で洗うより楽じゃないか」
「あんたね、もしもオレが毎日身体を洗ってやるって言ったら、喜んで頷くか?」
「助かると思う」
――話にならない。
こいつは、自分がどういう風に見られてるのか、考えたことがないのだろうか。
まだ昨日の艶めかしい記憶も新しいのに、顔だけ見てれば、昨日も今日も違いがない。男の時だってこんなに可愛いのだから、そんなのが裸で迫ってきたら、きっと昨日のことを思い出してしまって、困るに決まってる。
うっかり、男でもいいか、なんて気持ちになってしまうようなことにはなりたくない。
そもそもあんた、誓約があるんだから自分でちゃんと自衛しろよ!
「もういい。オレは風呂に入ってくる」
「……俺は?」
「あんたはそこで洗濯してろ!」
サクヤが了解の合図の代わりに、肩をすくめた。
その応えを見て、オレはタオルと着替えを持ってその場を離れる。
軽く拭いはしたものの、後頭部から背中にかけて、サラの吐いた何かねっとりとしたものが残っているような気がする。
汚れたシャツは今サクヤが洗ってくれてるし、着替えを汚すのは嫌なので、宿の風紀上は良くないかもしれないが、上半身裸のままで移動することにした。
吐き切ってぐったりしたサラは、続き部屋で取った隣室で休んでいるはずだ。
きっとオレが上がる頃には、気分もマシになっているだろうから、風呂へ行くように勧めてやろう。
宿の風呂場に向かうと、脱衣所には誰の着替えもなかった。
独り占めか、いいじゃないか。
オレは服も下着もぱぱっと脱いで、風呂場に足を踏み入れた。
身体と頭を思いっきり石鹸で流してから湯船に浸かると、汚れと一緒に色んな疲れも流れていくような気がする。
思えばサクヤと会ってからこっち、毎日が飛ぶように過ぎていったと思う。
そもそもは師匠がオレを助けてくれたのだって、オレがノゾミに似ていて、サクヤを捕らえる役に立ちそうだから。そう考えれば、もっと前から全てがサクヤのせい、いや、サクヤのおかげ、とも言えるか。
出会ってたった2週間で、サクヤとずっと一緒にいるなんて約束したことになるが。……いいんだ。例えサクヤが、オレを透かして、ノゾミのことしか見ていなくても。
――もう二度とサクヤと会えないと思っていた、昨日までよりは全然マシだ。
そう言えば、うまくコトが運んだのは、半分以上サラのおかげだ。
改めてのお礼など何もしていなかったが、どうしよう。もう、さっきの件で、帳消しでもいいだろうか。
背中に生暖かいものがへばりつく感触を思い出して、オレはちょっと頭を振った。
もうキレイになってはいるけど。もう一回、背中を洗おうか。
浴槽から上がって洗い場に座ると、カラリ、と浴室の扉が開く音がした。
……まさか、サクヤじゃないだろうな。
扉の方に視線を向けたが誰もいない。おかしいな、誰か入ってきたような気がしたんだが。
首を傾げながら正面に顔を戻した瞬間、オレの背中に、ぺたり、と小さくて熱い手のひらが乗せられた。
「――ひ!?」
驚きのあまり、変な声を出しながら振り返る。
オレの背中に手を当てて、素っ裸のサラが、オレを見下ろしていた。
「――な!?」
慌てて顔を正面に戻す。
??? ――!?
何で裸なんだ、こいつは!?
サラから視線は逸らしたものの、オレの眼は一瞬にして、小さな身体を上から下まで視認していた。
身体の大きさに反して、意外におっぱいが大きい、サクヤより大きいんじゃないか、とか。髪が黒いと、下の毛もやっぱり黒いのだ、とか。
……ああ、最低だ、オレ。何考えてんだ、本当に。
オレは頭を抱えて、強く眼を閉じながら自己嫌悪する。
こんな幼い少女の裸を見て興奮するなんて、男としておかしい。おかしい、はずだ。
アサギは同年代だと言っていたが、ぱっと見、サラはもっと年下に見える。少女? ――いや、幼女――いやいや、それは言いすぎだ、やっぱり少女――ってくらい幼く見える。こういうのを、確かロリコンと言うんだ。
眼を閉じて悩んでいるオレの脇腹を、何か柔らかいものが、すすすっとなぞり上げていった。
変な感触につい眼を開けると、黒くしなやかな尻尾がオレの身体に巻き付いている。
「おい! 何やってんだよ、サラ!?」
サラは背中に手を突いたまま、尻尾でオレの身体をなぞりながら、小さく答えた。
「……お詫び」
「お詫びになってねぇよ!?」
オレの声はもう、悲鳴みたいに響いている。
――くそ! 何で2日続けて、こんな緊張感のある風呂に入らなきゃいけないんだ!
ぴく、とサラの尻尾が反応し、オレの胸元で動きを止めた。
顔を見ていないのではっきりとは分からないが、いや、顔を見ていても分からないかもしれないが、この様子は驚いているのだと思う。
――あんたが驚くとこじゃないだろ!?
「何でこんなことしてる!? ――いや、もうそれはいい、早く前を隠せ!」
背後の気配から、大量の疑問符が放たれているような気がする。
しばし逡巡した後に、サラはオレの両眼に小さな手を回し、目隠しをしてきた。
――違う! 残念ながら、そうじゃない!
オレに目隠しをする為に、サラがオレの背中に密着している。
背中に当たる柔らかい2つの膨らみを感じて、オレはもう死ぬかと思った。
背後でサラが小さく呟いている。
「お詫びは、背中を流す……」
どうやら、さっきのサクヤとオレの会話を聞いていたらしい。
聞いてたなら、最後にオレが断ったのも知ってるだろ! 何で実行に移すんだよ!?
「サラ! いいか、これはお詫びにならない。繰り返す、これはお詫びにならない! 分かったら、早くオレから離れて湯に浸かれ!」
背後のサラがますます驚愕した気配がした。
何だよもう、驚いてるのはオレだよ!
それでも許容値を超えて驚きを味わっているらしいサラは、すぐには動いてくれない。
「……お詫びは?」
「それは後で考えよう、な!? 早く離れてくれ。離れてください。お願いします!」
オレの懇願を聞いた結果、サラは、とにかく離れようとは思ってくれたらしい。
黒いしっぽが、ゆっくりとオレの身体を離れていく。
だけど、サラ本体がオレから離れるより早く、風呂の扉が再び開く音がした。
「カイ。お前、うるさいって宿から苦情が……」
そちらを見ずとも声だけで、誰が入ってきたのかは分かった。
そして、その言葉がなぜ途中で止まったのかも。
サラの目隠しがあるはずなのに、サクヤがどんな表情をしているのか、手に取るように分かる。分かってしまう。
多分、あの青い目をいっぱいに見開いているはずだ。
先程までと変わらず、サラはオレの背中にくっついているが、その熱を一切感じないくらい背筋が冷えた。
「さ、サクヤ……」
「…………」
無言のまま。
カラカラと扉を閉めて、サクヤが出ていく気配がする。
「ちが、サクヤ! 出て行くな! お前は重大な勘違いをしている!」
オレはサラの腕を振り切って、慌てて立ち上がった。
少し乱暴かもとは思ったが、正直そちらに気を遣う精神的余裕がない。
立ち上がって振り返った時には、既にそこにはサクヤの姿は見えなかった――。
2015/08/29 初回投稿