2 朝のコーヒータイム
コーヒーの匂いがする。
部屋の中に漂う芳ばしい香り。
それに混じって、果物のような甘い匂いが近付いてきた。
足音もなく、滑らかに動くその気配。
ベッドの端が軽く沈む。
眼を開けないまま、無意識に、オレはそちらに手を伸ばしたらしい。
指先に何かさらさらとしたものが触れる。
「……起きたのか?」
低い声が響く。
ここ数日、何度も夢に見て。
聞きたくて仕方なくて。
でも、諦めていた。
それが、今。
そこにいる、その気配を感じる。
たったそれだけのことが、嬉しかった。
湧き上がるような喜びの中、その名前を呼ぼうとして、オレは眼を開ける――。
「――で、あんたは、何で朝からそんな恰好なんだ!」
眼を開けた瞬間から、オレのテンションはマックスまで跳ね上がった。
何が悲しくて、オレはバスローブ1枚の男と、同じ部屋で寝てるんだ……。
思わずベッドから跳ね起きて、自分の身体を見下ろす。幸いにして、オレ自身はきちんと服を着ていたので、まずは一安心。
バスローブ姿のサクヤは、起き抜けから叫ぶオレのうるささに眉をしかめていた。胸元がはだけていようがお構いなしに、いつものように足を組んで、コーヒーを飲んでいる。
「俺に言われても困る。起きたら、この状態だった」
「胸元直せ、足を組むな! コーヒー飲むより先に着替えろよ!」
どんだけコーヒー好きなんだよ!
しかし、サクヤにはオレの気持ちよりコーヒーの方が重要らしい。オレの言葉もどこ吹く風で、腰を上げる様子はない。
寝起きから混乱しているオレは、何とか落ち着いて、昨晩のことを思い出そうとした。
師匠が教えてくれた部屋のベッドに、サクヤを運んだ。ベッドに辿り着いたところまでは覚えている。
多分、そこで力尽きたのだろう。
大体思い出したところで、タイミング良く、扉からノックの音が聞こえた。
「サクヤさん、カイさん。アサギです。今よろしいですか?」
「ストップ、よろしくない」
「――お、オレもよろしくない! アサギ、ちょっと待って!」
「あ、すみません。待ってます」
申し訳ないが、アサギにちょっと待ってもらっておいて、着替えを探す。
「なあ、この部屋に着替えはないの? コーヒー淹れるときに見なかった?」
「コーヒーしか見てない」
バカ! このコーヒーバカ!
慌ててがさがさやっていたら、扉の向こうから、アサギが再び声をかけてきた。
「あの……お着替え、お持ちしたので良ければ先にお取り下さい」
どうやら足下に泉で、探しモノはアサギさんが持っていたらしい。
扉を細く開いて顔だけ出すと、素直で優しいアサギは、両目を閉じて着替えだけを差し出してくれていた。
「ありがと!」
そそくさと受け取って再び中へ引っ込む。
もらった服の片方をサクヤに押し付けた。
頷いたサクヤが、その場でバスローブを脱ごうとしやがったので、即座に両手でその襟元を閉めた。
「何やってんの!?」
「着替え」
「オレのいないところでやれよ!」
「男同士なのに?」
「だからっ! あんた今――あ、男か」
「そう言ってる」
肉体的にも男だし、精神的にも男なので、何の問題もないはずなんだけど。
オレの気持ちの上で何やら問題があったので、オレが自分の着替えを抱えて、洗面室に飛び込んだ。
着ていた服が血やら石鹸やらでどろどろのカピカピになっていて、ようやく昨晩のことをはっきり思い出した。
そうだった。
サクヤの入浴に付き合わされたんだった。
半濡れのままで眠り込んでしまったにも関わらず、風邪の一つも引いていないのは、オレの頑丈さのなせる技だろう。
「カイ。顔洗わせてくれ」
「おわ!? 何でいきなり入ってくるんだよ!」
ノックもせずにサクヤが顔を覗かせたので、オレは洋服を抱えて胸元を隠した。
「だから。男同士で何を意識してるのかと言いたい」
「そういうこと言うなら、男の時と女の時で、その可愛い顔を改めろ!」
「…………」
無言で脛を蹴られた。
会えない間、あんなに可愛かったような気がしていたのに。
こうやって一緒にいると、相変わらず暴力的だった。
そう言えば、こういう人だったような気がうっすらしてきた。
うーん。忘れてたのか、自分の都合の良いように記憶を改変してたのか。
言っても出ていかないので、サクヤから隠れるように、こそこそと着替えを済ませた。
「よし。アサギ、待たせてごめん」
しっかり顔を洗って、扉を開けるとアサギが両手に大きなバスケットを抱えていた。
「おはようございます。朝ごはん持って来ました」
「おお、ありがとう!」
ありがたく迎え入れる。
窓際の一番いい席でソファを陣取ったサクヤが、いつものポーズでぼんやりとこちらを見ていた。
「おはようございます、サクヤさん」
「おはよう」
サクヤの表情が何となく物柔らかいのは、アサギが可愛くて仕方ないからだろう。妹を見るようなもので。
……ああ。それで言うと、ノゾミは弟みたいなものだったのかな、と気付いた。
ぶっちゃけ、精神年齢の差で言うと、ノゾミがお兄ちゃんなのかも知れない。
身体が触れても性的でなくて、心から安心出来るような。
家族、という絆。
――ということは、今後オレにもそれを求めてくる。
ノゾミが死の直前まで完璧に応えて見せたそれに、オレは応えられるだろうか?
オレの悩みは顔には出ていなかったらしい。
アサギがテーブルにバスケットの中身を広げて、にっこりと微笑んだ。
「さあ、朝ごはんにしましょう。王宮のシェフ特製BLTサンドですよ」
「わーい! オレ、コーヒー淹れるよ!」
「頼む」
「あんた、さっき飲んでなかった?」
「もうない」
ひっきりなしに飲むもんじゃないだろ、と言おうとして、そう言えばサクヤは飯を食わないんだった、と思い出した。
せめてコーヒーくらい、好きなだけ飲めばいいか。
思い直して、オレは部屋の隅の簡易キッチンに近寄った。
すごいな、この部屋。もう、この部屋だけで生活出来るじゃん。ベッドも2人で寝ても余るくらい広いし。
王宮の賓客用の部屋かな。ちょっとばかりオレには場違いな気もするが、サクヤは一切気にしていない。案外、この国では普通のことなのかも知れない。
この1週間で、多少は手際良くコーヒーが淹れられるようになった。
ぱたぱたと用意して、部屋に置いてあったコーヒーカップに注ぐ。
まずは2つ持って行って、片方をアサギに渡すと、笑顔を返してくれた。
「ありがとうございます」
微笑む表情に、オレも何となく嬉しくなる。
もう片方をサクヤに渡すと、無表情のまま無言で受け取られた。
……あれ? これって普通に礼とか言ってもいいとこじゃない?
自分の分を取りに行きながら、解せぬ思いで首を傾げる。
戻って来た時、アサギはオレを待っててくれたけど、サクヤは早々にカップに口を付けていた。
――おい。
若干イラッとしたが……一口飲んでから、オレを見た表情がいかにも嬉しそうで、可愛かったので――うっかり許した。
ええ。うまかったなら、良かったです。
あんたがいない間に、あんだけ練習した甲斐がありましたとも。
「さあ、頂きましょう、カイさん」
アサギがサンドイッチをすすめてくれたので、ありがたくもらう。
「いただきます」
かじりつくと、カリカリのパンの間から、とろりとしたトマトとパリっと焼けたベーコンが丁度良い分量で顔を出す。ベーコンの塩気とトマトの酸味が、マスタードで包まれて、うまく調和していた。
「うまいな、これ」
「はい。美味しいですね」
アサギと顔を見合わせながら、にこにこ食べていると。
そんなオレ達を見ながら、サクヤが少し驚いたように声をかけてくる。
「お前ら……随分仲良くなったんだな」
特に何の含みもなさそうに聞こえるが、何故か突然アサギが慌て出した。
「あ、あの! エイジ様から経緯は全て聞いてます。サクヤさんが心配するようなことは、何一つ、神に誓ってありません!」
「アサギ、慌てすぎ。別にオレとアサギに何かあってもいいじゃん」
「良くない」
「良くありません」
両側から同時に否定された。
「アサギは神職に着いてるんだから。迷惑かけるなよ」
「サクヤさんのものになるって誓ったのなら、他の人に目移りしてはいけません!」
でも、理由はそれぞれ違った。
まあ、サクヤの言葉は頷けるとして。
アサギのは……これをそのまま認めると、オレ一生童貞じゃん。
一緒にいるとは言ったけど。さすがに一生童貞でいいと、はっきり誓えるところまでは、ちょっと覚悟してない。ずるいかもしんないけどさ。
「アサギ……オレ、別にサクヤと結婚するってワケじゃないし。ただ、ずっと一緒にいてやるってだけで」
「それは愛があるからですよね?」
嫌な質問をされたので、一瞬考えてから、畳み掛けるように答えておいた。
「……違うよ。成行きです。腐れ縁です。旅の仲間です」
「そもそも男同士だし」
オレの言葉に、サクヤが補足してくれたけど。
いや、あんた援護してくれるつもりかも知らんけど、オレはその言葉に大いに反論したい。オレの中では、多分あんたはもう、男同士のカテゴリに入ってない。
……かと言って、女のカテゴリにも入れられない。
だから、オレの中では、サクヤは『サクヤ』という特異なカテゴリに入ってる。変な存在だ。
自分でも認めたくないが、男の時でも、気が付くと――いや、何でもないや。
「……愛とは性別に関わらず与えられるものです」
「まあ、家族愛とかあるけどさ。あんまりそういうのって、言葉で括らない方が、オレは好きだな」
『サクヤ』カテゴリを言葉で定義しようとすると、非常に大変なことになる。だって他の誰とも違うことを、1個1個決めていかなきゃいけない。
だから、あんまり言葉を使いたくない……ってことなんだけど。
幸いなことに、オレの答えでアサギは黙った。
どうやら、今の答えがお気に召したらしい。
「私……余計な口を出しましたね。失礼しました。お2人のことですから、お任せするのが一番ですよね」
うふふ、と笑っている。
うん。そのほほ笑みはちょっと気になるな。
オレが言いたいのは――。
いや、もういいや。やっぱり何も言わないでおこう。
サクヤについて語ろうとすると、オレにとってはパンドラの箱を開けるようなもので、自分でも認識したくないことが、その中にたくさん詰まっているような気がするのだ。
「昨晩も大変だったそうですね。指先も傷だらけだし……よろしければ治癒魔法をかけましょうか?」
アサギは少し心配そうに、胸の前で手を組んだポーズで、オレを労る言葉をくれる。
多分サラは何も言ってないと思うけど、皆それなりに推測したのだろう。オレがどうやってサクヤのところまで行ったのかは、バレてるようだ。
指先やら膝やら脛やら背中やら、確かに傷だらけなんだけど。
オレはサクヤの顔を見ながら答えた。
「……うーん、いいや。すぐ治るだろ」
早く治したい傷でもない。
きっと、この傷の何倍もサクヤは痛かっただろうし。
少しぐらいオレも痛い目をみたい。
それは懺悔じゃなくて、多分共有したいって気持ちだと思ってる。本当の意味では全然共有じゃないし、ただの自己満足なんだけどさ。
オレの視線を受けて、サクヤが肩をすくめた。
「治してもらっておけばいいのに。アサギの治癒は完璧だから」
「まあ、いいんだよ。これはこれで」
「……そうですね。それもいいかもしれません」
鈍感なサクヤよりも、優しいアサギの方が、先にオレの気持ちを汲んでくれた。
オレはこくこく頷きながら、更に言葉を付け足す。
「大変って言うなら、その後の方が大変だったし」
「後? 風呂入って寝ただけじゃないか」
「あんたはな。あんたを風呂に入れるオレの気持ちになれ」
「……重いと言いたいのか?」
「違う! あんたがあられもない格好をしてると、オレはいたたまれない気持ちになるんだよっ!」
「俺がどんな格好で風呂に入れば満足なんだ? お前は」
そうじゃない、そういうことじゃない。そもそもオレに入浴介助をさせるなと言いたい。
アサギが同情した瞳でオレを見ている。
ああ、もう。あんたに、このアサギの思いやりの半分でもあればいいのに!
オレの呆れた顔を見て、アサギが助け舟を出してくれた。
「えっと……こういう時は立場を逆にして考えると良いですよ。サクヤさん、昨日カイさんとお風呂に入ったそうですけど」
「うん」
「何故、私を呼ばずにカイさんと?」
アサギの言葉に、サクヤは苦虫を噛み潰したような顔をする。
「何でアサギと入るんだ? お前は神官だし、俺は姫巫女。ともに異性との接触は控えるべきだ」
「異性と言うなら、昨日の状況ではカイさんが異性ですよ」
「……俺の感覚では同性と感じる」
「じゃあ、逆を考えましょう。私の魔法でカイさんが女の子の身体になったとして、サクヤさんは、そんなカイさんと一緒にお風呂に入っても平気ですか?」
サクヤは小首を傾げたまま、しばらく考え始めた。
結構な長考に入っているのは、どうもオレが女の子になったというイメージが、湧き辛いのが一番の理由らしい。時折こちらをちらりと見て、再び考えるということを繰り返している。
残念ながら、悩んでるサクヤはとても可愛かったりするので、少し困る。
つか、黙ってりゃ可愛いんだよ、この人。本人としては至極異議のあるところだろうけど。
オレの視線の先で、ようやくサクヤが長考から復帰した。
「……別に問題ないように思うんだが」
「そんだけ考えて、それかよ!」
思わず叫んだオレの耳に、反対側でアサギがため息をつくのが聞こえた。
「……すみません、カイさん。お力になれなくて」
「今の話は何の意味があったんだ?」
「もういいから、あんたは露出を控えろ! いつか襲われるぞ!」
悪気はないんだろうが――何を言われているのか、全く分からないという様子で、サクヤはオレとアサギを交互に見ている。
「表で肌を晒すのは危険だろうが、お前しかいないのに誰に襲われるんだ?」
――オレだよ、バカ!
……と、言ってやりたかったが、さすがに答えられない。
オレの表情を見て、大体察したアサギが苦笑する。
いや、オレだってこんなこと言いたくない。自分でもワケが分からなくなってきたので、もう、これ以上追求するのは止めた。考え詰めると、例によってオレ自身も後悔する答えが出そうな気がする。
黙ってサンドイッチにかぶりついた。
諦めたオレからさりげなく視線を外して、アサギがサクヤに声をかける。
「転移が必要だそうですね?」
「そう。早いほうがいい。仙桃の国の、王都へ」
「ええ。私の方はすぐにでも。やはり取引なのですか?」
「ああ。ようやく、そっちに尽力できる」
サクヤはソファに深く座り直して、足を組み、頭を背もたれに乗っけている。
対するアサギは、いつものように背筋も綺麗に、足を揃えて座っていた。
こうやって見比べると、サクヤの態度が、普段からどれだけ偉そうなのかが良く分かる。
今朝の会話と、今の2人の姿勢を見て、少し悩む。
……やっぱりオレは人生を早まったかもしれない。
「何を落ち込んでるんだ」
落ち込みの主原因たるサクヤに指摘されて、オレは肩をすくめた。
2015/08/17 初回投稿