14 誓いのしるし
ゆっくりと、冷たい頬が温度を取り戻す。
長い睫毛が震えて瞼に力が入るのを、オレは見ていた。
瞬間、サクヤの喉が、ぐっ、と鳴った。
ごふ、と血液が吐き出される音とともに、瞼が開かれる。
紺碧の瞳が月光に透けてオレを見た。赤い唇が動いて名前を呼ぼうとする。
「……ゾ、ミ」
それは、オレの名前じゃない。
いつだって、あんたが。
目覚めたときに呼ぶのはそいつのこと。
――でも。そんなことは織り込み済みだ。構わない。
掠れていても愛らしい声に、本当は頷いてやりたかった。
オレの気持ちなんてどうでもいい。何なら一生、ノゾミの振りをしてやってもいい。
だけどオレは所詮、サクヤの求めるノゾミにはなれない。似ていたってやっぱり違う人間だから。ここで嘘をつけば、結局最後は失望させることになる。
だから、いっそ頷きたいのを堪えて、答えた。
「違うよ」
サクヤが朦朧とした意識の中で、記憶を整理するように眉をひそめる。長い時間、茫然としていたが、ふと何かに思い当たったらしく瞳が曇った。
「……お前……」
絞り出すように呟いて身を震わせる。
「――カイ、お前……何で、ここにいる……?」
ようやく意識がはっきりしたらしい。
それでもその声に混じる感情は、ほとんどが驚きのように思える。ずいぶん怒りの割合が少ないなと、オレは他人事のように分析した。
「あいつら、命が……惜しくないのか」
呟きながら、力の入らない腕で身を起こそうとして失敗した。肩から床に落ちて、小さく呻く。
慌ててオレが手を差し出すと、サクヤは力なくその手を押し返してきた。
「オレが嫌なのは分かるけど、そんな身体で無理させるワケにいかないよ」
「放って、くれ。……何と言われようが、今、お前の……手は、借りたくない」
拒絶されるのも織り込み済みだ。当然のことだから傷付きもしない。
サクヤが何と言おうと聞く気はない。
今の状態で、オレの手を振り払う力はサクヤにはない。
オレは無理やりその身体に腕を回すと、背中を支えて床に座らせてやった。1人では身体を支えられないようなので、そのまま肩を抱いておく。
サクヤは嫌そうにこちらを見上げるが、身体に力が入らないのだろう。時折、肩を震わせる以外は、なすがままだった。
その苦々しい視線に促されるように、オレは口を開く。
「エイジや師匠を殺す必要はないんだ。オレは鍵ももらってないんだから」
放っておくと、力が回復するやいなや、誓約を守る為に動こうとするに違いないので、早めに説明しておいた方が良い。
現にサクヤは、随分、思い詰めた表情をしている。
多分エイジや師匠やアサギをどうやって殺すかなんて、余計なことを考えていたのだろう。
本当は殺したいワケでもないのに。
姫巫女の誓約を守るためだけに。
「……あいつらが、進んでお前を入れたかどうかは関係ない。お前がここにいることが全てだ」
「そういうことじゃない。あんた、自分で言ったこと覚えてる?」
「?」
訝しげな表情を、斜めに覗き込みながら。
オレは、バカバカしい答えを述べた。
「あんたは、『その扉からオレを入れたら』殺すと言った。でもオレは『その扉』じゃなく、窓から入ったんだ。だから、問題ない」
「――ぇ……!?」
素っ頓狂な声が返ってきたので、そんな場合でもないけど、つい笑ってしまった。
慌てて自分の口を塞いだサクヤが、その視線をオレの傷だらけの指先にあてる。
「馬鹿か、お前……」
「まあ、割と。……だからあんたは、そんな思い詰めた顔しなくていいんだ」
オレの言葉で、紺碧の瞳が見開かれた。
唇が震えているのは、何のためだろう。
怒りか、安堵か、失望か。まるで言葉遊びみたいな内容で、誤魔化される自分への嘲笑か。
吐き捨てるようにもう一度、サクヤが呟いた。
「……この、馬鹿が……」
「知ってるって」
腕の中の身体から反発する力が抜けたので、両腕に力を入れて、背中から抱き締めるように抱えた。
――こう言えば、サクヤは絶対に納得すると分かっていた。
だってサクヤ自身が、そんな約束、守りたくないと思っているはずだから。
オレがこうして中に入ってしまえば、エイジや師匠を牽制した意味もなくなる。
残るのは、嘘をついてはいけないという誓約だけだ。
こんなことをされていても、身内に甘いサクヤが、エイジや師匠を殺したいなんて、本気で思っていないことはすぐに分かった。
「――それでお前は何しに来た。自分でやったことを忘れたのか? いっそ、二度と俺の前に顔を見せられないように、ここで殺してほしいのか?」
ようやく回復が追いついてきたらしい。
サクヤの声が段々はっきりしてきた。
……いや、ただ単に、興奮がダメージを上回っているだけかもしれないけど。
「サクヤは、何でエイジの味方をしてやらないんだ?」
問うたオレに言い返そうとして、鋭く息を吸い込んだ瞬間に、サクヤは咳き込み始めた。肺の負傷を無視して大声を出そうとするからだ。
思わず背中を撫でようと手を離すと、離した手がぴしりと叩かれた。でもこんなぼろぼろの体力で叩かれたところで、痛くも痒くもない。
だから、その冷たい手を逆に掴んで、至近距離から瞳を覗き込んでやった。
「――何で、『五方の守護』を引き受けないんだ?」
もう一度問うと、サクヤは明らかに顔色を変えた。黙ってその青い瞳を伏せる。
先ほどまでの語調の激しさと裏腹に、小さく呟いた声は、驚くほど弱々しかった。
「……これ以上、誰かの命を背負って闘うなんて、まっぴらだ……」
予想にない答えにオレは少し驚いた。
ノゾミのことを思い出したくない、って、そんな理由じゃなかったんだ。
握った指先が震えているのを、少しだけ同情した。
「あんた、人の命を背負うのが怖いのか」
サクヤは頷かなかった。
それでも、オレには肯定の答えが聞こえた気がした。
今ですらリドル族の未来を背負う、姫巫女が。
これ以上の重圧に耐えられないと。青葉の国まで背負うなど、ごめんだと。
何言ってるんだ、こいつは。
オレからすれば、そんなの今更のことだ。
「なら、もう遅いよ。『五方の守護』なんて、なってもならなくても一緒だ。この国に何かあったら、あんたは絶対自分を責める。とっくの昔に背負ってる。だからそんなこと考えても無駄だ」
サクヤの紺碧の瞳が、ゆっくりとオレを見た。
オレはその視線を受けて、握ったサクヤの冷たい手を開いて、指を絡める。
絡まった指をサクヤは訝しげに見下ろす。その姿を見つめながら、口を開いた。
「湖の国の宿屋であんたは約束した。オレがあんたに付いて行けば、オレの望みは何でも叶えてくれると」
サクヤが、はっとした表情を浮かべる。
いつかの朝、サクヤが口にした通りの言葉を、オレは繰り返す。
「オレはあんたと一緒に行く。だから、オレの願いを叶えてくれ」
強く、手を握る。
サクヤの唇が震えた。
無言のままに。
その瞳が紅に染まり。
魔力を帯びた髪が、白銀に輝いて広がる。
――ああ、綺麗だ。
こうして願いを口にした瞬間に、殺されるかも知れない。
でも、もう、それでいいと思って、ここに来たのだ。
「オレの願いは、あんたがこの国のために働くことだ」
「……この国の……」
「――それがどうしても嫌なら、ここでオレを殺してくれ。あんたと一緒に行けないように」
瞬間、サクヤの周囲でばちばちと火花が散り始めた。
その強大な魔力がオレとサクヤを囲んでいる。
徐々に大きくなる不可視の圧力に押されて、オレは息を吐く。
オレの命も、ここまでか。
いいよ。それだって予測済みだ。
もしここでオレを殺したとしても。
きっとサクヤはそのまま逃走したりしない。
病死したノゾミのことすら、あんなに引きずっているのに。自分の手で殺したオレのこと、忘れられるワケがない。
その程度には想われていると、もしかするとこれは自惚れかも知れないけど。
後悔して、後悔して、きっと悩んで。
そして、いつか。
もう一度『ノゾミ』を失って傷付いたサクヤは。
『ノゾミ』の夢を叶えようとしてくれる。
この上ない最強の魔法使いとして、『五方の守護』を引き受ける。
そこまでが、オレの。
全部、サクヤの気持ち任せの。
計画とも言えない計画だった。
師匠に救われた命だ。師匠の敬愛する国と王に捧げたと思えば、あんな路地裏で消えるよりは、役に立ったと言えるだろう。
それにあそこで死んでいたら、この美しい光景は見られなかった。
月光と同じ輝きで揺らめく白銀の髪。紅の瞳がまっすぐにオレを射抜いている。この眼に射殺されるなら構わない、と心から思った。
捧げると言うなら、この孤独な姫巫女に。
オレの命、全て捧げても構わない。
サクヤがそっと、自らの血で赤く濡れた唇を開いた。
「……二度と、離れないと誓うか?」
死の宣告が来るのだと思っていたら、それは意外な問いだった。
意外な分だけ反応は遅れたけど、尋ねられたと理解した瞬間に、考えるまでもなく即答した。
「誓うよ」
「二度と、裏切らないと、誓えるか?」
「誓う」
繰り返し、2度。
信じる神を持たないオレは、目の前の紅に誓った。
サクヤは瞳を閉じないまま、ゆっくりと顔を近づけてくる。
オレは身を引かなかった。
オレの唇に、サクヤの冷たい唇が触れる。
重ねただけの口付けは、血の味がした。
絡めた指が強く握られて――
長いような短いような時間の後、唇が離れていくまで、サクヤは眼を閉じなかった。意識したワケではないが、そのことを知っているということは、きっとオレも眼を閉じなかったんだろう。
オレから離れた時には、サクヤは、いつもの不敵な笑みを浮かべていた。
「これでお前は俺のモノだ。せいぜい役に立ってもらうぞ」
高らかに宣言する声は、いつか予想していた通り、それはそれは甘かった。
サクヤが何を考えているのか図りかねているオレは、多分、間抜けな顔をしているはずだ。それなのに見上げてくるサクヤは、何だか楽しそうな顔をしている。
「……今の、何?」
「何だろうな。何となく、そんな気分だった」
オレの手から指を離して、オレの唇を拭ってくれるけど。
その指先に、サクヤ自身の赤い血が滲む。
指で触られたことで、逆にさっきの感触をはっきりと思い出した。一瞬で顔に血が上ったような気がした。
「……なあ。これは姫巫女の誓約に反しないのか?」
「誓約に反するようなことが、何かあったか?」
「純潔……」
「何か問題あるか?」
取り乱すオレの言葉にも、サクヤ自身はけろっとしている。
――あれ? 何でそんな反応なの?
嘘をついたかどうかの判定本人任せなのと同じで、純潔に関する判定も本人任せなのか? 自分で純潔を汚されたと感じなければ、問題ないのか?
もしくは、厳密に『純潔=処女』で、それを汚されなければいいってことか?
大量の疑問が頭を埋め尽くすが、どちらにせよ、今もその瞳が紅に輝いているところを見ると、オレとのキスは誓約の範囲内らしい。
いや、いやいや。でもさ。
あのさ。
つまり……
「……オレ、ファーストキスだったんだけど……」
「安心しろ、俺もだ」
嬉しそうにはにかむ顔を見て、オレは余計に混乱した。
――待て、何だそれ。可愛すぎだろ、あんた。
いや、違う。そういうことじゃない。
驚くべきところは、そこじゃない。
そもそも、あんた、裏切られて後ろから刺されて、そんなヤツをこんな簡単に許していいの!?
それを問おうとして顔を上げると、悩むオレを放っておいて、サクヤは一人で立ち上がろうとしていた。当然まだそんな体力も戻っていないので、よろけてバランスを崩す。
慌てて、その身体を支える為に膝立ちになったオレの方へ、サクヤの身体が倒れ込んできた。何とか力で支えきって、2人で床に激突するのは防いだ。でも良い姿勢が取れなくて、サクヤの胸元が思い切り顔に当たっている。
頬を押す柔らかい素肌の感触に、オレは慌てた。
「ちょ、サクヤ! あんた、何でこんな胸元ぱつんぱつんなの!?」
シャツの隙間から胸が――肌が見えてんだよ!
見えてるって言うか、当たってるんだよ! うわ、何コレ、柔らかい!
「何でって仕方ないだろ。男の時のサイズなんだから。俺だって早く風呂入って着替えたい」
「バカかあんた! こんな生まれたての子鹿みたいな状態で、風呂なんか入れるか!」
「水浴びでも何でもいいから、何とかしてくれ。全身血塗れで気持ち悪い」
「分かったから! もう一回座ってくれ! 何とかするから!」
売り言葉に買い言葉で返すと、ようやくサクヤはオレの身体に捉まりながら、床に再び腰を下ろした。
「……早く。何とかして」
小首を傾げる顔は、少し不満げで。
何となくこの表情で、オレはようやく。
ああ、取り戻したのだと、心から実感した――。
2015/08/11 初回投稿