13 月光を跳ぶ
暗闇が人の姿をとれば、きっとこんな風になる。
ベランダの手すりに座って、月光を浴びているサラを見ながら考えた。
長い黒髪を夜風にさらわれても、特に表情も変えない。
全身を黒いつなぎのようなもので覆って、その白い顔だけが浮かび上がる程に、闇の中に沈んでいた。朱い唇はゆるく閉じられている。
漆黒の瞳が真っ直ぐに見つめる先には王宮がある。
この時間ともなればほとんどの部屋の灯りは消えて、警備の為の松明ばかりが城壁を照らしている。
その中でもまだ窓から灯りが漏れている部屋もあって、3階のエイジの執務室もその1つだ。
何となく。
サラの視線はそこを見ているような気がした。
――灯りを通して、中の人物を見つめているような。
正直に言うと、サラがいつから来ていたのか、オレは見事に気付かなかった。さっきまでは確かにいなかったのに。いつも通りの神出鬼没っぷりだ。
「あんたと話がしたくて、アサギにお願いしたんだ」
オレが声をかけると、サラはちらりとこちらを見た。
すぐに王宮に視線を戻してしまうが、オレの声が聞こえていることだけは分かった。
いつものように無言を貫くかと思ったら、王宮を見つめたままで答えが返ってきた。
「聞いた」
しばらく待ったが、サラの言葉はその一言だけのようだ。
主語すらないがオレは勝手に想像した。伝言を頼んだアサギがサラに伝えてくれたらしい。
「教えてほしいことがある」
サラは答えない。
それでも聞いてくれていると判断して、勝手に続けるしかない。
「サクヤのとこに、オレの食べかけのカップケーキ置いて行ったの、サラだろ?」
サラは、答えない。
昨日の夜、サクヤが寝ている部屋を覗いた時。部屋の隅に、かじりかけのカップケーキが置いてあった。
それは。アサギが作って、オレがかじって。そのままサラが持って行った、食べかけのカップケーキだ。何であの部屋にあるのか、最初、不思議に思ったけど。
サラはぴくりとも反応しなかった。
否定も拒絶もされていないことに、何とか希望を見出して、再び問う。
「扉には鍵がかかってたのに。どうやって入った?」
サラがこちらに向き直った。
闇よりも深い漆黒の瞳がオレを見る。
「窓」
他にあるか? と、問いたげな視線のように感じた。
……いや、オレだって予想はしてたけどさ。昼間の内に外から見たけど、壁に足をかける場所すら分からなかった。
もちろんサラは、オレに無理なルートでも、ディファイ族の身軽さを持ってやすやすと上っていったのかも知れないが。
出来れば抜け道があれば良いな、と思っていた。
……けど、やっぱり窓か。
頭上の耳をこちらに向けたままで、サラはまた王宮に視線を戻した。
「オレも同じように入れるか? どうやって入ったか、教えてくれないか」
もう、サラはこちらを向かなかった。黙ったまま静かに息を吐くと、ベランダの手すりから跳躍してしまった。
――逃げられた。
仕方ない。近くまで行って、自分でもう一度調べるしかないか。
全く予想もつかないんだけど、サラに出来るなら、物理的には可能ってことだ。オレの身体的には不可能かもしれないけど。それでも、道具を持って行けばオレにも出来るかもしれない。
オレはため息をついて、先程までサラがいた手すりに腕を乗せ、肘をついた。
ふと、数軒先の屋根の上から、こちらを見つめる黒い影を見つけた。
その眼がオレを見たまま動かないので、ようやく気付く。
――付いて来い、と言っているのだ。
目測で、ベランダと隣の家の屋根までの距離を測った。
そして下に眼を向けて、地面までの高さを。
……所詮2階だ。落ちても、死にはしない。
手すりによじ登る。
勢いを付けて。
――思い切り、跳ねた。
スローモーションのように、自分の右足の靴先が隣家の屋根を引っかくのが見えた。
――やばい!
必死で伸ばした両手が、屋根の端にぶち当たる。腕に力を込めて握り込むと、振り子のように揺れたオレの腹から下が壁に激突した。
衝撃で外れそうな手を我慢して、そのまましがみつく。
身体のバランスが安定したところで、両腕の力で懸垂のように全身を引き上げた。何とか屋根に上って、息を吐いた。
衝撃と緊張で震える手を見下ろす。
屋根に掴まった時に何本か爪が折れたらしい。今は震えていて痛みも分からないが、少しずつ痛くなるに違いない。
痛みだす前に終わらせようと正面を見ると、サラは思ったよりも近くに立っていた。様子を見に戻ってきてくれたらしい。
目が合うと、一瞬、動物が水に濡れた時にするように、ぷるぷると身体を震わせた。長い髪が夜空を覆って、オレの視界が漆黒で塗りつぶされる。
すぐにサラは踵を返し、屋根の上を軽い足取りで駆けていく。
オレは出来るだけ音を立てないように気を付けながら、その後を追った。圧倒的にサラの方が早いので、しばらく走ると、どうしても置いて行かれてしまう。それでもその度に、サラは少し先でオレを待ってくれている。
時によじ登り、時に跳躍し、サラがオレを先導する。
オレはサラほど美しくは出来ないが、何とかそれに付いていく。身体のあちこちをぶつけ擦りむいても、出来るだけそのことは考えないようにして、とにかくサラのしっぽを追い掛けた。
どんなにオレが苦労してても、屋根からずり落ちそうになっても、サラは手伝ってはくれなかった。
その代わり少し先で静かにオレを待っていてくれた。
もしかしたら、最初のベランダのところから、ずっとサラを追いかける必要はなかったかも知れない。どこか途中で梯子でも使って屋根に登り、合流すれば良かったのかも。
でも、この意志疎通の難しい美少女は、そんなことをするオレを待っていてはくれないだろうと思ったから。
必死で追いかけているうちに、いつの間にか駆けている足下の感触が変わっていた。今までデコボコした屋根だったものが、固い平らな感触になっている。
顔を上げて見回すと、オレが走っているのは王宮の倉庫の上のようだった。
サラが途中で止まって、オレの方を見ている。
オレがそこまで駆け寄る内に、サラは何でもないことのように、倉庫の上から跳躍した。
その先にあるのは、壁だ。
――ぶつかる!?
一瞬息を呑んだが、サラはうまく壁に空いた窪みに身体を入れ込んだ。しばらくそこでごそごそとしていたが、するりとサラの身体が窪みの奥に消える。
そこまで見てようやく気付いた。
このそびえ立つ壁が王宮の中央の建物で、今サラが入っていった部屋はサクヤのいる部屋だ。
多分外側からうまく鍵を開けて中に入ったのだろう。
後はオレがあんな小さな的に向けてうまく飛び込めるかどうかだ。
壁までの目測を付けて、少し後ろに下がる。
適度に助走距離を取って、オレは右足で踏み切った。
ぐんぐんと目の前に壁が迫ってくる。
――ちょ、ちょっと高すぎ!?
足はうまく窪みに入りそうだが、このままでは頭がぶつかる。
顔の前に両手を構えてぶつかる衝撃を逃しながら、何とか壁の角に指を引っかけた。
直後にばたつかせた足が窓枠に引っかかったので、手を離しながら中に滑り込んだ。
背中を盛大に擦りながら。
落ちるように血塗れの部屋の床に着地する。
衝撃で息を吐いて、そのまま脱力した。
両手を見ると、指先は折れた爪と擦り傷で赤く染まっている。
しかしこれで望み通り、とにかくサクヤの傍までは来れた。
サラにお礼を言おうと室内を見回したが、少女は既にそこにいなかった。
いつの間に移動したのか、今オレが入ってきたばかりの窓枠に腰をかけ、こちらを見下ろしていた。
「サラ、ありがとな」
サラは無言のままオレに向かって1つ瞬きをすると、仰向けに倒れるように背中から夜空に飛び込んでいった。
黒い羽のように長い髪がその身体を包む。
最後の羽が夜空に溶けて消えた。
すぐに窓辺に移動したが、外を見たときには既に少女の姿は消えていた。周辺にも当然真下にもサラの姿はない。
落っこちるなんてことはないはずだから、もう既にオレの視界の範囲を駆け抜けてしまったのだろう。
時々待ってくれていただけではなく、屋根の上で移動している時も、だいぶオレに合わせてスピードを落としてくれていたのだと、ようやく気付いた。
室内に視線を戻す。
むせ返るような血の匂いの中で。
昼間と同じベッドの上で、サクヤは変わらず眠っていた。
躊躇せず、その心臓からナイフを抜いた。
血液が一気に溢れ出す。
シーツを引っぺがして上から押さえた。
両手で押さえ込んでいると、少しずつ血液の流れる量が減っていく。生命の危機を迎えた為か、満月だからか。自動再生はいつもよりも早いスピードで再生を行っているようだ。
血に濡れて赤い唇が小さく震えるのを見て。
オレはその頬を指で撫でた。
オレが触ることは許されないと分かっていても。
今その人が目の前にいると、実感したくて。
会えなくなって、あれほど焦がれた――。
夜を駆ける魔法使い。尊大な奴隷商人。裏切られた眠り姫。
ひとりぼっちで世界を巡る寂しい君が。
2015/08/09 初回投稿
2016/01/30 校正――誤字脱字修正及び一部表現変更
2018/03/11 校正――誤字脱字修正及び一部表現変更