interlude5
「これが、泉なのですか?」
「そう、これが泉です」
答える声はいつものように優しい。
青い水が噴き出す様は、確かに泉と言う言葉通り。
普通の泉と違うのは。
一滴一滴が光を放っていること。
神の祝福を受けた水は、眩しく輝いている。
深い青の光が洞窟に満ちている。
(ああ、いつもの夢か)
(夢の中では、同化している『自分』は)
(見えないけど、こうして水に映れば……)
水面に映るのは。
一族とは似ても似つかぬ自分の姿。
あの美しい紅の瞳や、白銀の髪を持たぬ者。
泉が穢れるような気がして、早々に身を引いた。
5年もこの島にいたのに。
この洞窟に入ったのは初めてだ。
そもそも姫巫女以外には。
ここに立ち入ることはない。
この千年、巫女たらぬ身で。
この泉を目にしたのは自分1人のはず。
巫女の許しを得ていたとしても。
そのことを思うと。
何とも言えない畏れが溢れてきた。
振り向けば。
紅い瞳がこちらに向けられている。
自分を見ているのか、泉を見ているのか。
少女のような姿であるのに。
瞳に長く世の中を見てきた疲労と自負を湛えて。
(哀しい、眼だ)
教えてもらったことが事実ならば。
千年もこの姿で生きているのが今代の姫巫女。
地に付く程、長く伸ばした髪は。
月光のように輝く白銀。
頭上に伸びる白い耳が、ゆったりと持ち上がる。
その姿の、清らかなこと。
それなのに。
信じられない。
この、美しい姫巫女が。
優しい声が。
今にも一族を見捨てようとしているなど。
「……もう、限界が近いのです。徐々に一族への愛情が薄れていくのを感じます。次の春を迎える前には、確実に私は姫巫女の資格を喪うでしょう」
哀しいことのはずなのに。
落ち着いた声をしていた。
(落ち着いた? いや、疲れ果てた声だ……)
(いくら長命の種族と言っても)
(千年を生きる者は彼女だけ)
(長い時間を)
(1人で生きることに、疲れているのか)
「そうなる前に、あなたに継いで欲しいのです」
「何故、俺なんですか?」
個体数の少ない種族だが。
その立場に相応しい娘は何人か思い付く。
正真正銘、一族の血を引く娘。
特に、姫巫女が代替わりを主張し始めてからは。
その為の候補を立てているはずだ。
例えば、義姉。
早い段階から候補に上がっていたことを。
知っている。
(義姉のイメージに伴う)
(寂しさと、誇らしさの混じった)
(純粋な、愛情)
「姫巫女の、3つの誓約を知っていますね」
「はい」
――嘘をつかないこと。
――純潔を守ること。
――同胞を愛すること。
誰でも知ってる。
(ああ、あんたが汚されることを嫌がるのは)
(そういう理由か)
(夢の中では、オレも素直なのかな)
(……その誓約、少し残念だ)
「今は、あなただけなのです」
「え?」
敬意と畏怖を持って接すべき人に。
つい、普通に聞き返してしまった。
彼女は何を言っているのだろう。
「どういうことですか?」
「この島の中で、全てを満たせる者は、あなただけです」
その言葉が何を意味しているのか。
理解するのに時間がかかった。
3つの誓約は。
姫巫女となるときに立てるものだ。
姫巫女になる前から守る必要があるのは。
2つ目の。
(純潔――?)
「――何を、馬鹿な……」
泉の水に誓って。
義姉はそんな軽佻浮薄な獣人ではない。
同様に他の巫女候補の娘達も。
むしろ、人間よりも貞節の観念が。
強いとさえ、感じる。
彼女達が姫巫女の候補であることは。
周知の事実。
次代の選定が一段落するまで。
手を出すような同胞はいないはずだ。
純潔を失うなど。
何があれば、そんなことに――?
「……ヒデトが」
姫巫女の言葉で。
同胞の青年の顔を思い出した。
青年とは言え、一族の寿命に従って。
もう130年は生きているそうだが。
「ヒデトさんがどうしたんですか?」
「私を愛しているのです。それで、こんな、無茶を」
無茶、と言うのが何なのか。
問う気にはなれなかった。
愚か過ぎて、考えたくもない。
(……今、非常に嫌な想像が)
(何だ、その変態)
(姫巫女が好きだからって)
(他の女を犯して回るか……?)
「次代へ譲る時、古い姫巫女は消滅します」
「……知ってます」
既に彼の動機は理解した。
愛する姫巫女の為とは言え。
他の娘を踏み躙って歩く。
その性根が理解出来ないだけだ。
(引継ぎを邪魔したのか……)
(彼女を、失わないように)
(それにしても)
(……確かに、愚かだ)
「姫巫女というのは呪いです。古い巫女を食い潰し、新しい巫女へと永遠に繋がる力です」
姫巫女のあまりの言い草に。
反発の代わりに。
共感できるものを見つけたくなった。
「あなたは、そんなことをするヒデトさんに失望して、一族への愛を失いつつあるというのですね?」
一族の誇る神の力を。
守り手自身が『呪い』だなどと。
そう思わざるを得ないような。
何かがあったのだと思いたい。
(でも、結局あんたも『呪い』だと言った)
(理解できない力は)
(『呪い』のようなもんだろ)
「それは順序が違います。もっと以前から、私は同胞を憎み始めていたのです」
「同胞を憎む……」
長い時を。
固定された少女の身体で過ごすことが。
彼女を澱ませるのだろうか。
自分には、想像も出来ない長い時間が。
巫女が小さな手を、こちらへ伸ばした。
跪いて、指が触れるのを待つ。
一族とは決定的に違う、この髪に。
その手が置かれた。
「そんな私をヒデトは愛しました。罪を犯すことを恐れぬ程に。ヒデトの行いは一族への裏切りです。私が彼を許せば、この身は第三の誓約を破ったと感じるでしょう。それなのに……」
(許したいんだ)
(オレには分かる)
(でも、多分、鈍感な)
(あんたには分からないだろ?)
何が言いたいのか良く分からない。
ただ焦りだけが伝わってきた。
焦っているのは、こちらも同じ。
一刻も早く。
その愚か者を罰する必要がある。
放っておけば。
もっと幼い同胞にまで。
手を伸ばすかも知れない。
「……あなたには分からないのですね」
「少し、難しく感じます」
髪を撫でられて、素直に答えた。
苦しそうに微笑む巫女の姿は。
相変わらず美しいが。
清らかだとは、感じなくなっていた。
「分かりました。俺が継ぎます。そして一族の中から次の巫女に相応しい少女が育った時に、その娘に渡します」
次の巫女が育つまで、どのくらいだろう。
義姉達の下の世代が物心つくまでは。
10年か? 20年か?
せめて、片言ではなく。
喋ることが出来るようになるまで。
その程度の時間であれば。
仮初の巫女でもやり過ごせるだろう。
(次までのツナギって?)
(それじゃあ、早死にしろと言ってるようなもんだ……)
「ごめんなさい。もう私には、他の選択肢がないのです……」
今日、顔を合わせていた時間の中で。
今、この瞬間に。
姫巫女は一番苦しそうな顔をしている。
自分の苦しみに浸らず。
俺のことも思ってくれた。
それだけで、満足だった。
(だから、あんたは)
(甘いって言ってるのに……)
「良いんです。島に流れ着いただけの人間の俺を、皆は同胞として迎えてくれました。皆がいなければ、俺は5年前に死んでいた。その一族と、あなたの為なら――」
それ以上は言えなかった。
安易に言葉に出せば、嘘になる。
仮初でも巫女を継ぐ以上は。
口にする言葉に気を付けなければいけない。
一言でも。
この唇から嘘が漏れたなら。
第一の誓約を破ったなら。
その瞬間に。
一族は神の加護を喪うのだから。
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「少なくとも私が生きている間は、姫巫女の代替わりは許さないから」
勝気な義姉をいつも尊敬していた。
元はと言えば。
自分がここで暮らしているのも。
義姉がいるからこそ。
表情の豊かな紅い瞳と。
耳元で軽やかに揺れる銀髪。
頭上で微かに震える白い耳を。
誇らしい気持ちで、見ていた。
初めて会った時は、あんなに差があって。
いつも、見上げるように見ていた義姉に。
いつの間にか身長が追い付いていた事に。
さっき初めて気付いた。
(そうか、これがあんたの義姉か)
これまでは。
義姉に反抗するようなことはなかったが。
今回は、内容が内容だ。
「イワナ、継いでみて実感した。これは人間なんかの手に負える力じゃない。一族の血が流れているから、皆、制御できているんだ。俺の力じゃ――」
言いかけた口を両手で塞がれた。
「言葉にしちゃダメ。実現しなきゃいけなくなるわよ」
……そうは言われても。
現実として、制御できないのだから。
どうしようもない。
(あんた、いつもそう言ってるな)
(こうしていると、その感覚は理解できる)
(腹の中、今にも暴れ出しそうな)
(大きな力が渦巻いている)
義姉が、こちらの口から手を外して。
そのまま両手を腰にあてた。
5年前から、何度も見たポーズ。
「とにかく。練習しなさい。私も手伝ってあげるから」
「……練習って」
そんなもので追い付く話ではない。
もう、これは才能というか。
能力というか。
身体の作りが違うのだ。
とにかく手に余るとしか言えない。
それに、この力。
使おうとする度に。
身体に変な電気が走る。
最初は分からなかったけど。
泉の魔力は。
女性の肉体でしか使えないらしい。
守り手は『姫巫女』なのだから。
当然のことなのだろうか。
魔力を使おうとすると、力が勝手に。
準備を整えるために性別を変えてしまう。
初めて自分の胸の膨らみに。
気付いた時には。
やはり人間が力を使おうとするなど。
不遜だったのだと。
……少し、後悔した。
前代の巫女の言った『呪い』という言葉。
そういう意味ではないのだろうけど。
これが『呪い』かと、思ってしまった。
(余程、驚いたんだな)
(思い出しただけで)
(心臓がどきどきしてるのが)
(分かるよ)
巫女候補として学び続けてきた義姉が。
手伝うと言ってくれるのは心強いけど。
そもそも、義姉の心の傷だって心配だ。
姫巫女の最初の責務として。
あの犯罪者を追放にしたけれど。
いっそ、もっと酷い罰に。
すれば良かった。
(どんな罰でも、きっと)
(そのヒデトというヤツにとっては)
(もう今更、同じことだ)
(彼女が消えて)
(全てが終わったのだろうから)
「ほら、これをあげる」
「……何」
薬指の指環を。
自分の指に付け直された。
「代々、この家に伝わる指環よ」
「そんな大事なもの……」
「古いってだけで別に魔力がある訳じゃないし。もともとは最初の姫巫女が、魔法の練習に作ったって言い伝えだから、また姫巫女の手に戻れば指環も嬉しいんじゃない?」
「魔法の練習……?」
それは有り難いのか何なのか。
どうやら義姉も同じで。
処分に困っているらしい。
最初の姫巫女でも練習したのだから、と。
続けるつもりだろうか。
微妙な表情をしている、と思っていたら。
腕をこちらに向けて伸ばしてきた。
その手が背中に回されるのを感じて。
眼を閉じる。
頬に、輝かしい義姉の銀髪があたった。
「……あなたは、私よりずっと先に死んじゃうと思ってた」
その声が。
震えているところなど、初めて聞いた。
哀しみではないと、すぐに分かった。
「でもこれで一緒に生きられる。見ててご覧なさい。反対する同胞なんか1人もいないから」
「イワナ……」
そうか。
いつも、君が。
皆が。
どこか眩しそうに俺を見るのは。
この命が短いこと、覚悟していたからか。
義姉の背中に。
自分も腕を回しながら。
その愛情の深さを、返したいと思った。
2015/06/29 初回投稿
2015/08/06 校正――誤字脱字修正及び一部表現変更
2016/01/09 校正――誤字脱字修正及び一部表現変更
2017/02/12 サブタイトルの番号修正