知らば諸共
注意書き
この物語はフィクションです。
内容が陰鬱としているので、気分が暗くなり易い人、塞ぎ込みやすい人は念のため“読まない”ことを推奨します。
読み易さの配慮はあまりしておりません。
縦書きPDFだと、なんかそれっぽく読めるかもしれません。
呼んでくださる方へ。
深く受け止める必要はありません。理解の必要はありません。
ただ漫然と、そう言うこともあるかもしれないと、受け入れるだけでいいです。
零.
昨日笑っていた人が、今日、いつのまにか死んでるなんて、僕にとってはままあることでした。三十路半ばまで生きてきて、両手の指では数えられなくなってしまったほど、僕はその人たちを見てきました。それだけ僕の周りから人がいなくなりました。そしてその全てが、自殺か、事故、でした。
確か、十三人、死にました。友人、知人、親戚、同僚……間柄は色々で、あまり仲が良いわけでもなかった人もいた気がします。性別、容姿、性格、趣味や嗜好も様々でした。ただ、彼らには決まって、いくつか共通点がありました。
その内の一つが、何故だか死の間際に僕に寄ってくる、という余りにも不可思議なものです。間際と言っても、本当にその寸前にと言うわけではありません。決まって彼らは、死ぬいくらか前に僕の前に現れ、僕と話すようになってしばらくして、死ぬのです。
冗談だったら、どれほどよかったことでしょう。しかし、事実なのです。僕の記憶の中に、彼らは確かにいるのです。否定したくても、否定できない、なんというか、呪いとよんでも可笑しくないと思います。なにせ、実際に私は呪いのようなソレに、僕にとってちょっと変な言い方なんですが、蝕まれて、しまいましたから。
壱.
冗談みたいなそれの始まりは、確か中学生の頃、当時のクラスメイトからでした。
彼は、クラスの中でも外でも、かなり人気者で、僕も会話を交わしたことは何度もありました。けれど、その程度の仲でした。だというのに、僕は帰り際に、彼に声を掛けられたのです。
『相談したいことがあるんだ』
と、とても軽い調子で、笑顔で僕にそう言ったのです。別段、変わったところも見受けられませんでしたし、僕は自分の都合を鑑みた後、すぐにそれを承諾しました。
で、その後日、他愛無い話を交えつつ、彼は僕に尋ねてきたのです。穴場の絶景スポットを知らないか、と。彼がそのことを尋ねた理由は、うろ覚えです。確か、デートがどうたらと言ったような気もします。多分そうだと思います。
では何故、僕にそんなことを尋ねたのか。それはすぐに分かりました。何故なら僕は趣味がサイクリングで、周辺の散策であることを、公言していましたから。実際に友人を連れて回ったこともありました。なので、僕にお鉢が回ってくること自体に、その時はなんら疑問を持ちませんでした。
だから、僕はぺらぺらと喋りましたよ。ここのどこがキレイだ、ここは意外と人が多い、ここは少し行き辛い、などと。あまりにも僕が色々喋ったせいで、その日の内に決めることはできませんでした。なので、彼の……何らかのプランを練るのに、僕も一緒になっていましたし、彼にも迎合されました。
二週間ほど、彼とは放課後によく喋りました。下見も何度かしました。それで結局、彼は夕陽がキレイな海岸段丘に決めました。当日の進行などを踏まえて見ても、なんら無理のない場所でしたし、何よりそこはロマンチックで、僕のおススメの五指に入ってました。だから僕は太鼓判を押してやって、彼にエールまで送りましたよ。
その翌日彼は死にました。転落死でした。僕がそのことを知ったのは、彼の死の翌日でした。学校が、クラスがざわざわとしていて、何事かと伺えば皆が皆、彼が死んだ、なんて、何とも信じられない事実を教えてくれました。冗談だろうと、僕はクラスメイトに今までのことを話しましたが、話したところでそれは、覆りようもない事実でした。彼が、あの海岸段丘を飛び降りて死んだことは、紛れもない事実でした。
そしてその日中に、僕の家まで警察が来て、色々と聞かれました。自殺だと断定しているような口ぶりに、些か腹が立ったことを覚えてます。そして全て話しました。そしたら、彼が僕に相談したことの大半が、嘘であったと判明しました。そんなはずは……と譫言のように呟いた僕は、少し訝しまれましたけれども、後日それは、彼とよく行っていたファミレスの店員の証言で晴れました。
そんなことよりも、僕は肝が冷えました。ゾッとしました。僕は今まで、彼の嘘に付き合っていたのです。騙されていたのです。騙されたことのショックよりも、それら全てがまるで嘘のように思えなかったことが、当時は何よりも怖かったです。彼の笑顔が脳裏に焼き付いていて、軽いパニックにも陥りました。
彼は、二週間も僕を騙しきって、笑顔で手を振って別れて、そして死にました。どうしてそんなことをしたのか、そんなことができたのかを疑問に思ったりもしましたけれど、頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった僕は、その時は一度、思考の全てを放棄して向かい合うことを止めました。解を得られないまま、僕の初めては終わりを迎えました。
弐.
それに気づいたのは、それから二年経って、更に二人死んでからです。従妹と、遠くにいるとても親しかった友人が死にました。あの時から一年足らずで従妹が死んで、その翌年の高校一年の半ばで、親友が死にました。
従妹もまた僕と話して、その数日後に死んだので、その時点で僕は少し奇妙さを覚えました。普通に暮らしていく中で、チラチラと死んだ二人の影が見え隠れする程度には、不安になりました。
そして、インターネットを使ったテレビ電話をし始めた親友が死んだと知らされた時に、そこでいくつか分かりました。
一つ、三人は、恣意的に僕に接触してきたんだと、僕は思いました。丁度、スーパーで卵が安かったから買ったような、そんな感覚だったんだと思います。迷惑極まりない話です。
二つ、三人はどうも、一人では抱えていけないほどの大きな負の感情を、持ち合わせていたんだと思います。最初の彼は、当時混迷と恐怖で手一杯でしたので分からなかったのですが、後の二人はどうもそんな様子でした。特に、親友の彼は少しハッキリと僕に示してくれました。
無論、『死にたい』なんて直球の言葉は言いませんでした。しかし、歓談の最中、そう言えばと言った風に『さっきトマトを落としちゃって、潰れちゃったんだ。もしそれが自分だったら、やっぱり同じように潰れるのかな』なんて、笑みを薄くして言うのですから、なんだこいつ、とは否応なしに思わされます。
もしかしたら彼の周りでは、僕の知らない周りでは、何でもないような言葉だったのかもしれませんが、しかしながら、唐突にそのセリフの時だけ笑顔に陰りが見えたのは間違いありませんでしたので、何かがあったんだと……僕は彼が死んでから気づきました。気付くのが、遅過ぎました。
彼がその暗い暗い心の内を、たった一瞬でも見せてしまったのは、僕が一番親しい人であったからだと思います。気が緩んだ拍子に、ほろりと、本音が漏れてしまったんだと思います。けれど、言い換えるならば、気の置けない筈の間柄でも、そのくらいにしか見せてくれないのです。心に仕舞い込んだ負の感情を、こちらに感じさせてもくれないのです。
まるで鉄仮面を被っているかのようでした。仮面と言うのは、笑顔のことです。彼らはソレの中に、出したくない負の感情を全て押し込めることができる、できてしまうのです。自ら死を迎える、その寸前の寸前まで、仮面を被り続けるのです。
それが一体、どれほどのことなのかは、私には分かりませんが、少なくとも、僕は死にたくなるような事態に直面したら、笑うことなんてできないとその時は思いました。だから僕は、なんとなく彼らを強い人間として見ました。そして、どうして死を選んでしまったのか、疑問を抱きました。
そして僕は、四人目との邂逅で、僕なりの解を得ることになります。十を越える人を見てきて、まだ、たった四人目ですが、僕にとって彼女は大きな切っ掛けです。だからこそ、僕は彼女のことを鮮烈に、痛烈に覚えています。
参.
彼女は、高校二年、三年の時のクラスメイトで、とても勝気というか、活発な女の子でした。行事等では皆のことを牽引するような、そしてそれがしっかりと果たせるような、そんな人でした。その上彼女は姉御肌でしたので、女子の中では多分、困ったら彼女に、というのが少なからずあったと思います。そのぐらい、人に頼られる性分をした少女だと、思われてたでしょう。
そんな彼女との間柄は、かなり良好でした。何故かと言えば、僕も僕で当時の男子の間では、困ったら僕か彼女、と言われるぐらいには僕も頼られ気質だったらしく、何かと彼女と一緒になる機会が多かったのです。なので、彼女とはかなり、密な関係にありました。とは言え男女の仲、なんてことはありません。まあ、互いに異性の中で一番仲の良い間柄であるとは思っていましたが、僕は彼女に、恋慕を抱くより先に、危機感のようなものを抱いていましたから。
もしかしたら、程度の懸念でした。最初はその程度だったんですけど、彼女と関わるうちに、もしやと思い至り、まあ、案の定です。……後にも先にも、これほど早く気づけたのは彼女についてだけです。だからこそ、僕は色々と思う所がありました。植え付けられました。
高校三年の夏のことです。彼女と一緒に夏祭りに行くことになりました。誘われたんです、彼女に。もしも僕が普通に暮らしてきた男であったなら、浮かれでもしたんでしょうが、でも、そんな気は毛頭起きませんでした。けれどもそんな暗い感情で、彼女を傷つけるなんてできませんので、その時は笑顔で承諾しました。
けど、やはり練達者を欺ききることは、当時の僕にはできませんでした。『女の子のお誘いに、憂鬱な顔で来る男があるか』と叱られました。僕は冷や汗交じりに、平謝りしました。その場はどうにか、かき氷一つを奢る約束で事なきを得ましたが、内心ではマズイ、マズイと叫んでました。
そんな出だしで、しばらく縁日を巡りました。花火が上がる頃合いまでは、普通に祭りを楽しんで、その後に人気の少ない暗い場所へ行きました。例によって僕の趣味による穴場です。彼女に教えたら、行こうと唆されたのです。
僕たちはその場に二人きりで、適当な所に腰かけて花火を待ちました。そして花火が始まって、僕はその花の散る音を聞きながら、彼女の胸中のその一端を垣間見たのです。
あー、歩き回ったから、疲れちゃった。最近、よく疲れるんだよね。肩が凝ると言うか、何と言うか。君はない? ……少し? ふーん、少しかあ。
え、私? 私はそうだなあ……しばらく、歩きたくないなあ。花火が終わったら、帰るために歩かなくちゃいけないけど、それすらも億劫。もう手足を投げ出して寝転がりたいくらい。でも、そんなことしたら浴衣が汚れて怒られちゃうから、できないけどね。
……だから苦しいのかななんて思ったり思わなかったり。
その……たまに、全部投げ出したくなる、みたいな。頼られることと、期待とか、嬉しい……んだけど、それも全部投げたくなって、さ。まあ、やるんだけどね。皆に悪いし、心擦り減らしてでもやるよ私。
断るなんて、できないよ。だって私はそう言う人で、そうだって思うからみんな頼って来てるんだから、無碍になんてできない。頼まれたことは全部やり切るよ。
……ん、まあ、確かに。でも、今更そんな、裏切るようでできないし? 私がやらなくちゃいけない、でしょ。大丈夫、意外となんとか、なるんだよ。
手伝ってくれる、ね。……確かに、そうしてくれたら、少しは楽かも、しれないね。うん、ありがとう。じゃあ……どうしてもダメだったら、ちょっと手を借りる、かも。
そう言って彼女は、花のように笑いました。僕は苦心しながら、彼女の三倍は口を回していたので、その言葉の甲斐があったと、安堵したものです。してしまったものです。
ああ、そうです、そうです。気づきませんでした。実に、僕は馬鹿でした。笑顔を見てホッとするような、大馬鹿です。
翌日に僕たちはメールだけのやり取りをしました。そして、そのすぐ後に、彼女は死んだそうです。
肆.
彼女との出来事で得た解。それは、彼ら彼女らは、どうしようもなく、頼ることができない。と言うことです。頼ってはいけないなどという、もしかしたらそのような強迫観念を強く宿しているみたいなのです。だから彼らは、例え自らがどんな状況下におかれていようとも、絶対に他者にその心の内を見せたりなんてしないのです。見せることができないのです。
繕うことが上手いのではなく、繕うことしかできないのです。確かに強い人間だったからこそ、それが得意になるのです。そしてそのまま繕い続けたせいで、自分がいつの間にか弱い人間になっていても、彼らはそれしかできなくなっているのです。負担の軽減や解消が出来ればいいですが、苦手どころか不可能で、頼ることや逃げ出すことが出来ればいいですが、ヘタクソどころか不可能なのです。
そして動けそうになくなったところを、しかし無理矢理鞭打ちます。そしてそれが、更に精神を摩耗させていくのです。感情を消耗させていくのです。そうやって追いこんでいくのです。そうして、完全無欠の笑顔の鉄仮面が磨き上がり、出来上がります。
つまるところ、彼らは何らかの外因から負を募らせ、募らせ、募らせ続けて、しかし頼るまいと動くために心を擦り減らして、擦り減らして、擦り減らす。そんな、半ば連鎖じみたような精神崩壊を加速度的に自ずから起こすんです。一言で言えば阿呆ですが、言ったところで彼らは笑うだけでしょう。
僕は、彼らに本音を、弱音を吐き出させることが、頼らせることがとても難しいとも気づきました。どれだけ口上を述べようが、気持ちをぶつけようが、彼らは笑うだけで心の奥底に届かないのです。
じゃあどうするべきなのかと、私は必死に考えました。今までになく、頭を回しました。何故なら……そこに至ってようやく、僕は彼女に少なからず恋慕を持っていたことに気づいたからです。先にあったのは危機感でしたが、彼女がいなくなった今、残ったのは悔恨とその情だけでしたから。気づかない方が、可笑しかったのです。
なので、親友、初恋の人。立て続けに死んだことになります。もう、僕は自身に起こることを認めざるを得なくなって、そして悔やみきれぬ思いから、僕はこう答えを出しました。
彼らのことが分からないから、止められないのではないだろうか。彼らの心の内を正しく理解すれば、止める方法が分かるのではないか。ならば、僕は彼らのことを理解しよう。そして、もう二度と死なせはしない、と。
正直、生半可な気持ちで挑めるものではありません。彼らは繕うのが上手いので、事前の察知は困難です。彼女に関しては僕の淡い恋が気づかせてくれましたが、普通であれば、前の三人の通りになるしかなく、事前に知ることなんてほぼ、不可能でした。
経験則では、甚だ遅すぎます。五人目、卒業後に担任の先生が死んで、それは実感しました。話をするようになってハッと気づくのでは、ダメなのでした。
もっと彼らを、理解する必要がある。先生が死んで、そう思いました。それから社会人になるまでの間、そしてなってからも、僕はとても頑張りました。
どこに彼らがいるか分からないので、僕は周囲全てに気を配りました。色々と尽くしました。頼み事は常に二つ返事でしたし、全て成し遂げて見せました。兄貴分とまでは行かないものの、おかげか僕はよく頼られるようになりました。
これで彼らが僕を頼る様になれば話が早いですが、そうは問屋が卸しませんでした。それもそのはずです。頼ることができない彼らが、僕を頼るはずもありません。でも、見つけるのは容易くなりました。中々、頼ろうとしない人が、大体そういう人なのです。
ですが、彼らを止めるまでには、至りませんでした。彼らは似たような強迫観念と、弱さを曝け出せない弱さを持ちますが、彼らが抱える負や悩みは、それぞれ違いますから、その都度対応を考えなければなりません。
親身になっていく。理解してやる。それしか手立てはありません。ですが、故にそれにつれて、彼らが死んでいくことが、とても僕の心を押し潰していきました。それこそ、もう止めたいと思うほどに。
また、ダメ。また、ダメ。そうやって失敗が、彼らの死が、積み重なっていきます。今度こそはと意気込んで、その反動がまた重い。誰かの力を借りようかとも思いましたが、今更人の手を借りたところで、事態が良くなるとも思えなかったので、僕は独りで続けました。
そうして十一人死にました。それでも僕は躍起になって、止めませんでした。今度こそは絶対にと、死力を、全霊を尽くすつもりで、鬼神の如く動きました。
十二人目も呆気なく死んで、そしてとうとう、僕の心は折れました。
伍.
もう無理だと思いました。そう思いました、というよりそうとしか思えませんでした。ポッキリと心が折れてます。折れているはずです。それでも私は模索を続けていました。無理だけどやはりやらねばと、もう考えたくもないのに、彼らのことを考え続けていました。
彼らを見つけるために行っていた頼られ役も、もうやりたくありませんでした。やりたくないのですが、断れませんでした。断れないんですよ、なんでか。頼らないで欲しいと思いつつ、そう思うだけで二つ返事で了承しているんですよ、笑顔まで添えて。なんででしょうか、ね。しかも、勝手に上がるんですよ、口角がこう、くいっと。ついでに、目尻は少し下がります。
それに、なんでしょうかね、流石に手が回らなくなって、助けを求めようかと少し思うんです。ちょっと手を上げてみるんですけど、なんでか手が掴まれても引っ張られないのです。あれ、と思って次の瞬間、ああ、って得心します。引っ張られたいのかって。だからよいしょって引っ張ります。しょうがないからやってあげます。……どうやったら、他の人が僕を助けてくれるのでしょうか。いや、違う。僕は人の手を借りてはいけないのです。独りでやらなければいけないのです。
たまに『大丈夫ですか?』とは聞かれましたけど、僕は勿論、大丈夫と答えましたよ。擦り減った心を見せたらダメだと思いましたから。心が擦り減った程度、問題ないと思いますから。で、その内『大丈夫ですよね』なんて軽口も言われだします。その通りですと、一も二もなく頷きます。
もう僕は、完全に、止め方を、断り方を、逃げ方を、すっかり忘れてしまいました。その代わり、笑顔で『大丈夫、任せろ』と言うのが、とてもとても得意になりました。
でも、それでいいんだと思いました。何故なら、それが僕のやるべきことですから。彼らのためにも、やり続けなければいけないのですから。頼らないことがなんなのでしょう。心を擦り減らすことがなんなのでしょう。僕はやり遂げるのです。やり遂げなければ、いけないのです。
そんな強迫観念を抱いていました。疑問にも思いませんでした。
そして十三人目に出会いました。僕はまた、ダメでした。というか、突き付けられました。
『なんだ、君も、同じか』
と、僕はその人に言われました。あっ、と僕は間抜けな声を上げました。
やっと、僕は気づきました。僕は、やり方を間違えてしまっていたようです。やっちゃいけないやり方を、してしまっていたようです。彼にそう言われて、動揺しました。彼が死んだあと、自覚しました。自覚しましたが、もう後戻りはできないところにまで、僕は来ていました。
僕にはもう、彼らを救えない。そして、僕は、救われない。自覚と共に、私は自嘲するように、笑みを浮かべたと思います。
終.
俺はただただ、沈黙を貫いた。全て語り終えて、置かれたつまみを静かに手にするその人を、ただじっと見るだけで、何も言うことができないでいた。
微笑を浮かべながら、彼は酒を呷る。とても楽しそうに話した彼は、とても美味そうに酒を飲んでいる。それがとてもとても、恐ろしく感じていた。
俺の目の前にいる彼は、会社の先輩にあたる人だった。二年ほど前、新人を脱した俺は、会社のあるプロジェクトの携わることになって、そこで彼と知り合い、会えば話すようになったのだ。
彼は人格者であり、仕事もよくできる、というのが周囲での評判であった。とても頼りになる人だと、異口同音に皆は言うほどだ。未だに独身であるから、優良物件だとして彼を狙う女性社員も少なくはなかった。
だが、どうだろう。自慢できるような先輩だった彼は今、どこにも見当たらない。いや、俺の見方が変わったのだろう。今の俺には、どう見ても彼が、狂人と言うか、廃人と言うか、人として色々と失ってしまったナニカにしか、見えなかった。
「あはは、すみませんね。食事の終わりに、こんな話をしてしまって。ま、法螺話程度に思ってくださいよ」
「そう、ですか」
気遣われて、俺はようやく言葉を吐き出した。けれど、窒息してしまいそうな息苦しさは、一向に晴れることがない。
「あの、その、本当に」
「ん?」
「本当に、救えないんですか?」
苦し紛れにそんな疑問を上げると、彼は唸りながら、少し難しい顔をして言った。
「無理でしょうね。やり方を間違えてしまったから、ミイラ取りがミイラになってしまった。もう、無理です」
「それでも、何か。そこまで理解できて、どうにもならないんですか?」
「ミイラがミイラを救えませんよ」
俺は黙った。そう言って笑った彼が、どこまでも悍ましく見えてしまって。
「冗談です。冗談」
彼はクスクス笑い始めて、真面目に答えた。
「……どうにかできるかどうかは、僕には分かりません。だって僕は……ね」
そっと、彼は懐から財布を出して、一万円札を取り出して、俺の方へ差し出した。
「お釣りは、必要ありませんから」
そう言って立ち上がり、まだ色々と整理のつかない俺を置いて、彼は立ち去ろうとした。
「あ、あの!」
「なんですか?」
最後に、せめてこれだけは尋ねたかった。
「なんで、俺に話したんですか?」
「……そうですねえ」
彼は朗らかに笑った。
「僕のようになれば、分かるかもしれませんよ」
そして背を向けて、小さく小さく言い残した。
「おススメは、しません」
俺はしばらく、座り込んだままだった。なんでだろうと、疑問が浮かんでは消えて、何も形にならなかった。
店員に声を掛けられてから、俺はようやく帰ることができた。電車に乗る様な気分ではなかったので、先輩から貰った一万円のお釣りでタクシーを拾って帰った。
その途中、救急車のサイレンの音が、遠くで響いたような気がした。俺は、ソレが先輩を運ぶものでないことだけを、祈ることしかできなかった。
翌日。先輩の訃報が、社内に広がった。皆が深々と嘆き、咽び泣く中で、俺だけが、ああと、憂うように溜息を吐いたのだった。
何を思って書いたかは、まあよく分かってません。なにせこれの元は、高校生の頃に書いた処女作がベースですから。多分、大した主義主張もなく書いたと思います。
ただ、それでも強いていくつか上げるとするなら。
人の心の理解や共感は、味わわないと分からない、という主張。
結局、彼らをどう助けてあげられるか、という疑問の提起。
で、しょうか。
んー、まあ、お医者さんに任せるのが、とても手っ取り早いかもしれません。……なんて、台無しで投げ遣りな言葉を最後に投げておきます。
呼んでくださった方へ。
深く受け止める必要はありません。理解の必要はありません。
ただ漫然と、そう言うこともあるかもしれないと、受け入れるだけでいいです。