Fly High
一メートル先もまともに見えない夜の森を、進は全力で駆けた。
何処へ行ったらいいのかなんてわからないので、考えない。
ただがむしゃらに、進は追っ手から逃れる事だけを考えて走った。
草を掻き分ける激しい音が、いくつもの枝が折れる音が辺りに響く。
当然ながら、それだけ大きな音を立てれば追っ手も進たちの居場所に気付き、後ろからけたたましい音を立てて追いかけて来ていた。
ここから先は、どちらかの心が折れるまで走り続けるだけだ。
根性勝負だけなら、絶対にあいつ等には負けないと進は確信していた。
何故なら、自分には譲れないもの、守るべきものがあるからだ。
歩という大事な妹を背負っている限り、進は誰にも負けないと思っていた。
「はあ……はあ……絶対に……負けるものか」
だが、運命の女神は進には微笑まないのか、更なる試練を与える。
それは、やっとの思いで森を抜け、見晴らしがよくなったので更にスピードを上げようと足を踏み出そうとした時だった。
「なっ!?」
一メートル先の地面が突然無くなっているのに気付き、進は慌てて急制動をかけた。
「どわっ……とっとっとっ」
手で必死にバランスを取りながら、どうにか落下するのだけは避ける。
「ふ~、死ぬかと思った」
「に、兄ちゃん苦しい」
「あ、ごめんよ」
じたばた暴れる歩を地面に下ろし、進は改めて目の前の崖を見下ろした。
岩肌はごつごつとして手を引っ掛けるところは多そうだが、何の訓練も受けていない進では、歩を背負って下まで下りるのは不可能だろう。
ここから崖の下までどれくらいの距離があるのかわからないが、水の流れる音が聞こえるから、下は川が流れていると思われる。
じっと見ていると、思わず吸い込まれてしまいそうな深遠の闇に、進は小さく武者震いをして後退りした。
すると突然、
「うひゃおう!」
「ど、どうしたの兄ちゃん?」
いきなり奇声をあげた進を、歩が心配そうに見上げる。
「な、なんでもない。ちょっと携帯が鳴って驚いただけ」
進は歩の頭を一撫でして、ポケットからマナーモードにしておいた携帯を取り出す。
開いてみると、またしても父親からのメールだった。
何でこのタイミングで……進は怪訝に思いながらもメールを開く。
先ず飛び込んできたのは、
『さっき送ったメールだけど、間違えて変な宗教団体の行き先を送っちゃった……』
「おっせええええええええええええええええええよおおおおおおおおお!」
可愛らしい顔文字と共に『てへぺろ』と書かれたメールを見て、進は今の自分の置かれた状況を完全に忘れて魂の咆哮を上げた。
「に、兄ちゃん、声、声!」
「あっ!」
歩に強く袖を引っ張られ、思わず口を押さえる。
どうか気付かないでくれ……そう思って進は辺りを見渡すが、
「こっちだ! 男の声が聞こえた間違いない!」
「バカめ。この先は崖になっていたはずだ」
後ろから追っ手の色めき立つような声が聞こえた。
駄目だ。もう、これで元来た道に引き返すことも出来なくなった。
父親からのメールは、まだ先があったが今は読んでいる暇はない。
進は携帯をポケットにねじ込むと、崖下と後ろを何度も見比べ、ぐっと顎を引き、口の中に溜まっていた唾を飲み込む。
覚悟を決め、歩の手をしっかり握って絞るように声を出す。
「歩……兄ちゃんの手、絶対に放すなよ」
「兄ちゃん……」
その言葉だけで、何をするのか察した歩が小さく息を飲む音が聞こえた。
しかし、歩もすぐに覚悟を決めると、進を見上げ、力強く頷いた。
それを見て進はニッコリと微笑むと、膝をつき、歩を力強く抱き締める。
「行くよ。絶対に兄ちゃんが守ってやるからな」
「……うん」
進は歩を抱き上げると、躊躇うことなくその身を虚空へと投げ出した。
一瞬の浮遊感の後、直ぐに重力が進たちの体に降りかかる。
「――っ!?」
下から受ける暴力とも取れる圧倒的な風に、叫び声を上げることも、目を開けることすら儘ならない。
進は目を強く瞑り、口をぎゅっと閉じると、まるで大事な物を誰かに取られないようにと、胸に抱いた歩を力いっぱい抱き締め、来るべき衝撃に備えた。
程なくして、崖下を流れる川に大きな水飛沫が上がった。
それと同じくして、作業着姿の男たちが進達のいた崖までやって来た。
だが、そこには既に追うべき人間の姿が見えず、男たちはまさか、と顔を見合わせると、一様に崖下を覗き込み、灯りで照らした。
しかし、いくら目を凝らしても、見えるのは荒れ狂うように流れる川の水だけだった。