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現れた男

 結局、家にある調味料等を全く把握しておらず、そちらも一通り買い揃えたので、当初の予算を大分オーバーしてしまった。


「でも、これから継続して使っていくわけだから……いいよね?」


 舞夏は自分自身に言い聞かせるように呟くと、手にした袋を強く抱きしめた。

 これで美味しい料理を作って進を驚かせてやろう。

 自分の過去を話した一件以来、進との距離は縮まったが、それでも舞夏は、年長者として、年下である進に舐められてはいけないと思っていた。

 それに、ここ最近は一緒に仕事に行くことが少ないので、先輩らしいところを進に見せられていない。なので、出来ないと思われている炊事を完璧に行う事で進をあっと言わせ、自分の存在というものを再認識させてやろうと思っていた。


「じゃあ、歩ちゃん帰ろうか?」


 自分の目的を再確認し、家に帰ろうと隣にいるはずの歩へ手を伸ばすが、


「あれ?」


 その手が歩の手を掴む事は無かった。

 考え事をしている間に、何処かに行ってしまったのだろうか?

 歩の小さな姿を探して辺りを見渡してみるが、中々見つからない。

 歩の性格からいって、何処かに隠れて舞夏を困らせる。なんていたずらはしないだろうと思いながらも、舞夏は歩を探してスーパーの駐車場の奥へ奥へと進んでいく。

 そしてスーパーから最も遠い、殆ど人気のない駐車場の最奥へ辿り着いたところで、


「舞夏ちゃん」


 後ろから誰かに名前を呼ばれた。

 その酒焼けしたようなしゃがれた声に、舞夏の体が硬直する。


「よかった。ようやく見つけた」


 全身から汗が噴き出し、体が震え出す。


「酷いじゃないか。一年以上も連絡の一つもくれないなんて」


 今すぐにもここから逃げ出したいのに、まるで水中にいるかのように体が重く、肺にいくら空気を送り込んでも苦しくて堪らない。

 そうこうしている内にも声の主は、すぐ後ろにまで迫っていた。


「さあ、舞夏ちゃん。僕と行こう」


 声の主が舞夏の肩を掴んだ所で、


「ヒッ!?」


 ようやく呪縛から逃れた舞夏が男の手を振り払って距離を取る。

 充分に距離を取った所で舞夏が振り返ると、そこには一番会いたくない男がいた。


「……合田…………さん」


 ボサボサの頭に無精髭を生やし、ボロボロのジーンズに首元がくたびれたTシャツという決して綺麗な身なりとはいえないが、目だけはギラギラと怪しい光を放つ男。舞夏の母親の元同僚で、失意の底にあった舞夏の母親を癒すという名目で舞夏の家に住み着き、そして舞夏の全てを奪ったと言っても過言でもない男、合田大樹がそこにいた。

 舞夏からの軽蔑の視線を受けた合田は、汚れて黄ばんだ歯を見せて笑う。


「やだなあ、舞夏ちゃん。合田さんなんて他人行儀な呼び方やめてよ。僕は君のお父さんになる人だよ?」

「やめて! あたしのお父さんは一人だけよ!」


 舞夏は両耳を押さえ、イヤイヤと首を振る。


「フフッ、君は相変わらず強情だな」


 舞夏からの拒絶の意思に介することなく、合田は薄ら笑いを浮かべて手を差し伸べる。


「でも大丈夫。僕ね、新しい仕事を見つけたんだ。さあ、僕と一緒に来るんだ。今度こそ、本当の親子になろう」

「い、嫌よ! あたしはもう、あなたとは関らないで生きるの。新しい仲間と……新しい家族と共に生きていくって決めたんだから!」


 涙目で叫ぶ舞夏の脳裏に、年下の兄妹の姿が浮かぶ。


「新しい家族……だって」


 さっきまで笑っていた合田の顔が舞夏の言葉を聞いた途端に一変する。


「僕を捨てて新しい奴の下へ行くというのか?」

「そ、そうよ! 誰と生きようとあたしの勝手でしょ!」

「ふざけるな!!」


 合田は声を荒げると、その場で地団太を踏み出す。


「何処の馬の骨とも知れぬ奴と一緒に暮らすなんて、僕は絶対に許さないぞ!」

「な、何よそれ。あなたになんの権利があって……」

「父親は娘の行動を管理しなければならないんだ。権利なんかじゃない。これは僕に与えられた義務、使命なんだ!」


 合田は舞夏へ詰め寄ると、肩を掴んで唾を飛ばしながら捲くし立てる。


「僕はこんなにも君を愛しているのに、舞夏ちゃんはどうしてわかってくれないんだ!?」

「い、いやっ、離して!」


 舞夏は合田の鬼の様な形相に慄き、逃れようと必死にもがく。


「クッ、このっ、おとなしくするんだ!」

「いや、いや、汚い手で触らないで!」

「あがっ!?」


 暴れているうちに、舞夏の右手にあった買った物が入ったエコバッグが合田の顎にクリーンヒットした。

 顎を強打した合田は堪らず尻餅をつく。

 合田の手から逃れた舞夏は、一目散に逃げ出す。

 今は一秒でもここにはいたくなかった。

 あの男から少しでも離れた所へ行く。

 それだけを念頭に行動していれば、逃げられたかもしれなかった。

 だが、


「待て! 一緒にいた子供がどうなってもいいのか!?」

「――っ!?」


 合田の叫びに、思わず足を止めてしまった。

 舞夏は震える体をどうにか御し、勇気を振り絞って振り返るとそこには、


「歩ちゃん!?」


 さっきから姿が見えなかった歩が、見知らぬ男によって拘束されていた。

 意識が無いのか、男の肩に担がれている歩は、舞夏の呼びかけにも反応しなかった。


「あ、ああ……歩ちゃん」

「ククク……ここで、この子を見捨てて逃げなかったことは褒めてあげるよ」


 口の端から流れてきた血を拭いながら、合田が得意気に口を開く。


「舞夏ちゃんが素直に僕の言う事を聞いてくれない可能性を考えて、僕の仕事仲間を呼んでおいたんだ。もし、舞夏ちゃんが逃げていたら……おっと、これ以上は僕の口からは言えないな……おい」


 合田が男に指示を出すと、男は歩を担いだまま歩き出す。

 そして駐車場の一番奥に停めてあった黒のワゴンの扉を開けると、歩を車内へ放り投げた。

 それを見届けた合田は、満足気に頷くと、呆然と立ち尽くす舞夏へ向き直る。


「さあ、舞夏ちゃん。僕と一緒に来てくれるよね?」

「…………」


 絶望の底へと叩き落された舞夏は、合田の言葉に答える余裕すらなかった。

 変わりに、力を失った舞夏の手からエコバッグが滑り落ち、中に入っていた瓶が割れる音を響かせる。

 それはまるで、舞夏の心が砕けてしまった音のようだった。

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