父親
扉を潜って先ず感じたのは、長年使っていない部屋特有の埃の臭いだった。
部屋全体には新聞紙が敷かれ、土足のまま上がれるようになっていたので、進はそのまま中へと足を踏み入れた。
ダイニングの部分には、仕事で使うワックスや、故障中と張り紙されている業務用掃除機等が乱雑に積まれている。
流石にここには用がないだろうと、進はリビングへと続く扉を開ける。
「こ、これは……」
そこには信じられないものがあった。
少し汚れてはいるが、子供の頃から見慣れたタンス。中を開けると、丁寧に折り畳まれた進と歩の私服が入っていた。流石に勉強机やそれ以外の家具は見当たらないが、進の制服や、鞄、教科書、ノート等の勉強道具の数々、勿論、歩のランドセルもあった。
もう二度と手に入らないと思っていた進と歩の私物を前に、進は信じられないものを見るように優貴を仰ぎ見た。
「ど、どうして俺たちの持ち物が……」
「何、勇輝さんから連絡があった際、破産して家が取り壊されるから、家の中の物、とりわけ進君と歩ちゃんの荷物だけは、何とか持ち出してくれと頼まれたんだ」
普通、家の中の物が残っていた場合、家主が勝手に家の中の物を処分することは法律で出来ない事になっている。
最悪、後で不法行為として損害賠償を求められる可能性がある。
それは家についても同じで、普通ならば自己破産したからといって、いきなり家を追い出されたり、勝手に家を壊されたりはしない。
だが、進の父親は、あの物件を格安で家を買う変わりに、何かあった時は全ての判断を家主に一任する、と契約の段階で申し出たらしい。
いつ死ぬかわからない冒険家をやっている進の父親らしいといえばらしいのだが、残された人間からすると堪ったものではない。
その結果、今まで一度も会った事がない進の家の地主は、父親の破産宣告と同時に取り壊しを決めたのだから、一体どんな人物と契約を結んだのだろうか。
「それは聞かないほうが君の為だと思うぞ」
進の疑問に、深刻な顔をした優貴からの忠告が入る。
「世の中には、君みたいな善良な一般人は知らない方が幸せな事が多々ある。これもその一つというわけだ」
「で、でもですよ? あの、碌でなしの親父にどうにか出来たことなら、そこまで心配しなくても……」
「君が勇輝さんの何を知っているんだ?」
「え?」
優貴の冷たい声に、進は思わず身を竦める。
進にとっては何気ない一言だったのだが、どうやら優貴の琴線に触れたようで、優貴はいきなり進の胸倉を掴むと、鼻がくっつきそうな距離まで顔をくっつけて猛禽類を思わせる眼光で進を射抜いた。
「あの人は、君が思っているより十倍は立派な人物だ。私が尊敬してやまない人物を、自分の評価で勝手に判断して、決め付けないでもらいたいものだな」
「え、あの……その……」
「確かに、あの人の言葉は、いつもどこか足りないかもしれない。それであらぬ誤解も生むだろう。だが、それは相手を大事に思うからこそ、余計な心配をかけまいとしてのことだと何故気付かない。そもそも、君が碌でなしと言う父親に、今まで生活費の全てを賄ってもらっておきながら、文句を言うとはどういう了見だ? ああっ!?」
「は、はひ……すみませんでした」
優貴が発する余りの迫力に、そして言い返しようのない正論に、進はカクカクと壊れた人形のように頷いた。
「……わかったのならそれでいい。余り自分の親を悪く言うものではない」
すっかり怯えきっている進に興が冷めたのか、優貴は手を離すと「悪かったな」と小さな声で謝罪して、進の肩を軽く叩いた。
改めて「すみません」と優貴に謝罪した進は、ある種の驚きが隠せなかった。
仕事も出来て人望もある。そんな理想の上司像を体現しているような優貴が、進の父親を尊敬していると言うのだ。
進が知っている父親の姿は、いくら切り込んでものらりくらりとかわし、真面目な受け答えを一切しない碌でなし。人生そのものをふざけているという印象しかなかった。それに、小さい頃「正義の味方にしてやる」という名目で、何度も死ぬような目に遭わされた進は、年を重ねるに連れ、過酷な環境に連れて行こうとする父親にいつしか苛立ちを覚え、反目していた。
そして、中学生なる頃には、進は父親と殆ど接点を持たないようにしていた。
父親について何を知っていると問われれば、何も知らない。
知りたいとも思わなかった。
そうやって父親との間に壁を作った進に対し、優貴は進の父親と向き合っていたのだろう。
進が知らない、真面目な父親の姿というのも知っているに違いない。
それを羨む気持ちはないが、どこか釈然としない気持ちはあった。
そんな進の気持ちを察してか、優貴は小さく嘆息すると、
「本当は、君に伝えるな。と言われているのだがな……」
そう言ってある物を取り出した。
反射的に受け取ったそれを見てみると、それは手紙だった。
それも一通や二通ではない。紐で束ねられた何十通もの手紙だった。
宛名を見てみると、全て進の父親の名前、白川勇輝とあった。
「これは勇輝さんの私書箱に届いた手紙だ」
「……中を見ても?」
優貴が頷くのを確認した進は、一番上にあったピンクの可愛らしい便箋の封を切る。
黙々と手紙を読み、二通、三通目の手紙を読み勧めた所で進はある事実に気付いた。
「驚いたろ?」
「はい、驚きました」
微笑を浮かべて尋ねてくる優貴に、進は素直に頷いた。
手紙の内容は、進の父親に対する感謝状だった。
子供らしい、精一杯の感謝の気持ちを伝えようとする文面に、進は胸が熱くなるのを感じた。
「もしかして、これ全部……」
そう言って次の手紙を見た進は、驚きに目を見開いた。
次の手紙は、何と英語で書かれたエアメールだった。
何て書いてあるのはわからないが、感謝の言葉が書いてあることぐらいは理解できた。
他にも中国語やハングル、アラビア語から果ては今まで見た事がない字で書かれた手紙もあった。中には手紙の他にも写真が添えられているものもあり、その中で写っている人は、誰もが満面の笑みを浮かべていた。
「一ヶ月に一度、私が勇輝さんの私書箱に手紙を取りに行っているのだが、行く度に届いている感謝状の多さに私も驚いているよ。一体、何をどうすればこれだけの人に感謝されるのだろうかとね」
流石の優貴も進の父親の行動力に呆れているのか、苦笑して肩を竦める。
「それと、もう一つ君に渡す物がある」
そう言うと、優貴は進にある物を差し出した。
それは一冊の通帳だった。
「それは、勇輝さんがもしもの時に、私に託していた君たちの為の通帳だ」
「俺の……」
あの父親が、万が一を考えて自分たちの為にお金を残していた。その事実に呆然としながら通帳を開いてみる。
「こ、これは!?」
そこに書かれている金額を見て、進は思わず息を飲んだ。
一……十……百……と何度も数えてみるが、間違いない。
その数、実に八桁。何と三千万円と記入されていた。
「勇輝さんには、この通帳を使って君たちの学費、生活費を賄って欲しいと言われている。これでわかっただろう? どうして私がお金の心配はしなくて良いと言ったか」
「…………はい」
ずっと身勝手で、子供を全く顧みない碌でなしの父親だと思っていた。
その父親が色んな人から、それも世界中の人から感謝されるような事をしており、更にいざという時の為に、これほどの蓄えを自分たちの為に残してくれていた。
「畜生……カッコイイじゃないかよ」
進は通帳を胸に抱くと、その場に蹲って静かに泣き始めた。
それに比べて自分はどうだ。
仕送りを節約して、いざという時に備えていたつもりだったが、それだけだ。
結局、生活の全てを父親からの仕送りに頼り、自分で生活費を稼いでは来なかった。
挙句の果てには、犯罪行為にまで手を染めるところだった。
こんな自分が、父親の事を悪く言う権利なんてあるはずがない。
進は自分の器の小ささを思い知り、自己嫌悪から消えてしまいたいと思った。
「あだっ!」
「何を暗い顔している。反省なんていつでも出来るだろう。君はその前にやるべき事があるのではないか?」
「やるべき……こと?」
赤い目をして、縋るように見上げる進に、優貴は荷物の中から赤いランドセルを拾い上げ、上に積もった埃を軽く払うと、進へと差し出す。
「そうだ。歩ちゃんは君の事を心配して泣いているのだろう? だったら、ここにある物を持って行って少しでも安心させてやるといい」
「……はい!」
進は乱暴に涙を拭って立ち上がると、通帳を優貴に返し、かわりに歩の赤いランドセルを受け取って転がるように部屋を飛び出していった。




