戻れない日常
「それで、俺たちはこれからどうしたらいいんですか?」
優貴が車で家まで送ってくれるというので、進はその行為に甘え、車で一路新しい我が家となった社員寮を目指していた。
歩を気遣ってか、いつもの荒っぽい運転ではなく、快適とも言える速度で走る車に、密かに胸を撫で下ろしていたのは秘密だ。
「ん、何がだ?」
クラッチペダルを踏み、シフトレバーを操作しながら優貴が首を傾げる。
「舞夏さんから、今日は仕事に来なくて良いって聞いたんですけど……」
「ああ、その話か。皆、歩ちゃんに気を遣ったのだろう」
「歩に……ですか?」
「そうだ。身の回りの生活環境ががらっと変わってしまったんだ。歩ちゃんにとって、それは相当なストレスだろう。だから、君は出来るだけ歩ちゃんと行動を共にして、彼女の心のケアに務めてくれ。何なら、数日休んでしまって構わない」
「それは、ありがたいですけど……でも、何をしたらいいんですか?」
「別に何もする必要はないさ。ただ普通に暮らせばいい。君も学生なら、たまには学校にでも行って勉強でもすればいいだろう」
「…………」
優貴からすれば何気なく言った一言だったのだろうが、進はその一言で目に見えて落ち込んだ。
それが出来ればどれだけいいだろうか。
別に好き好んで今の生活を選択したわけではないのだ。元の生活への未練がないといえば嘘になる。
だが、戻りたくても戻れない。
何よりお金がない。
歩は義務教育だから問題ないが、高校というのは通うのに学費が必要だ。
今の生活を続けて給料がどれくらい貰えるのかはわからないが、生活費、家賃を支払った上で学費も払うとなると絶望的だろう。
「学校は行きたいのですが、それは無理です」
「何故だ? 学費の心配をしているのか」
「それもありますけど……」
問題はそれだけじゃない。
進は流れそうになる涙をどうにか堪え、必死に平静を装いながら優貴に説明する。
「俺、家を取り壊された時、家の中から何一つとして持ち出せなかったんです」
学校に行きたくても、私物は勿論、進の制服から歩のランドセル、教科書、ノートに至るまで学校に行く為に必要な物、その全てが今や瓦礫の下に埋もれてしまった。
これらの物をもう一度全て揃えるのは容易ではないし、制服に関してはオーダーメイドなので、注文してから出来上がるまでそれなりの時間がかかる。
学校へ行けと言われても、そう簡単にはいかないのであった。
「でも、歩だけはどうにかして学校へ行かせてやりたいんです。俺の給料を全部使ってもらって構いません。どうか、歩の勉強道具だけ工面してもらえませんか?」
「兄ちゃん!」
「歩は黙っているんだ!」
進は後部座席に座る歩を睨んで黙らせようとする。
しかし、
「……イヤだもん」
歩は目に涙を一杯溜めながら、進に抵抗の意思をみせる。
「歩は、兄ちゃんが歩の為にイヤな目に遭うのはイヤなの! 歩だって兄ちゃんの為に何かしたいのに、どうしてダメって言うの?」
「そ、それは、歩がまだ子供だから……」
「兄ちゃんだってまだ子供だもん。歩、知ってるよ。二十歳にならないと大人じゃないんだよ?」
「う……で、でも、兄ちゃんは歩の保護者だからいいんだよ」
「そんなのズルいよ。それなら歩、兄ちゃんに保護されなくてもいいもん。変わりにお姉ちゃんに保護者になってもらうから」
「ハッハッハッ、それはいい考えだ」
歩の意外な言葉に、優貴は豪快に笑いながら進の肩をバシバシ叩く。
「イタッ、痛いですよ。いきなり何するんですか」
「進君、君の負けだよ。諦めて歩ちゃんの言うことに従ったほうが良い」
「従うって……まさか、歩も働かせるつもりですか!?」
進が懐疑的な眼差しで優貴を見つめていると、車に制動がかかり、やがて停止する。
窓の外へ目を向けると、いつの間にか社員寮の近く、集合住宅が並ぶ一角まで来ていたようだった。
優貴は颯爽と車から降りると、顎で社員寮の方を指す。
黙ってついて来い、という事だろう。
進はそれに不満を覚えるが、優貴にも何やら考えがあるようなので、仕方なく車の外へ出る。
「歩、おいで。新しい家に案内するから」
進は歩を外へ促し、荷物を持ってやると、空いた手で歩の手を握って歩き出した。
集合住宅の脇を抜け細い路地に入ると、途端に景色が心寂しいものになる。
汚れてくすんだ壁、濃厚な土の匂い、何年も放置され、伸び放題となっている柳が空を覆い、昼間だというのに薄暗く、ジメジメとしてまるでお化け屋敷に迷い込んだようだった。
最初、これから見る家がどんなものなのかと、浮き足立っていた歩は、徐々に寂れていく景色を見るにつれ、その表情に陰りが見え始める。
柳のトンネルを抜け、路地を曲がるといよいよ目的の社員寮が姿を現す。
「兄ちゃん、あれが?」
「そうだよ。あの家だよ」
「……ボロいね」
「でも、あの家、中は凄く綺麗なんだぞ? トイレは水洗だし、蛇口を捻ればお湯だって出るぞ」
「ふーん」
進が家について感動した事を伝えても、歩はそれほど興味を持たなかったようだ。
外からの見た目が悪い以上、これ以上ここで話をしても仕方ないだろう。
中を見れば歩の態度もきっと変わるはずだ。
進はそう結論付け、歩を新しい我が家へと促した。
作ってもらった合鍵を取り出し、鍵穴に手を伸ばすと、
「おい、進君。こっちだ」
進の真上から、優貴の声が聞こえてきた。
声に従い上を見やると、建物の二階、欄干部分に寄りかかった優貴を見つけた。
「何をしている。早く上がってくるんだ」
「え? あ、はい」
進は歩にここで待つように言うと、慌てて二階へ上がって優貴の隣へと立った。
優貴がいたのは、二階の倉庫として使っているという部屋だった。
「中に入るんだ」
「え? あ、はい」
中に入るように促された進は、恐る恐る扉を開けて中に入った。




