捨てる神あれば……
緑色の非常灯の灯りで照らされた、誰もいない病院のロビー、大きな柱時計が奏でる規則正しい振り子の音を聞きながら、進は気が抜けたように呆然と天井を眺めていた。
女性の運転がとても荒っぽかったというのもあるが、何より歩の命が助かった事の安堵が大きかった。
歩は川に流され、体温が低下した事で風邪をひき、更に大量の水を飲み込んでしまった所為で肺炎になりかかっていたということだった。
幸い発見が早かった為、二、三日様子を見た後、自宅での療養に移れるらしい。
医者からその言葉を聞けた瞬間、進は安堵の余り、腰が抜けてしまった。
女性は、進の腰が抜けて動けないと見るや、歩の入院手続きに関る一切を代わりに請け負ってくれた。
その為、進は女性が戻るまで、ロビーでの待機を命じられているのであった。
ソファに腰を落ち着けてまだ五分程だったが、進は襲ってきた睡魔に今にも屈しそうになっていた。
試しにソファに横になってみると、革のひんやりとした感触がとても気持ちよく、今すぐにでも夢の世界へ旅立てそうだった。
「もう……休んでもいいよね?」
「いいわけないだろ!」
「あがっ!」
睡魔に負けて瞼を閉じようとすると、誰かに頭を思いっきりはたかれた。
驚いて飛び起きると、そこには呆れた表情の女性が立っていた。
「そんなところで寝たら風邪ひくぞ。それと、病院に迷惑がかかるだろ」
「あ、すみません。そうですよね。あ、あの……それで歩は?」
「大丈夫だ。今は薬が効いて眠っているから、面会は明日にでも、な?」
「はい、そうします」
歩の無事を聞いて、進はほっと胸をなで下ろした。
それから進は、改めて女性に向かって頭を下げる。
「今日は何から何までありがとうございました」
「構わないさ。困っている子供を助けるのは、大人の義務みたいなものだからな」
当たり前の事をしたので別に感謝する必要はない。女性は事も無げにそう言ってのけた。
未成年である進には、そうする事が大人としての義務かどうかはわからなかったが、それでも気になる事がいくつかあった。
「あの……」
「何かな?」
「どうして、俺の名前を知っていたのですか?」
車を発信させる直前、女性は進の事を名前で呼んでいた。
あれからずっと、進は必死に記憶の糸を辿ってみたが、どこにも女性に会ったという記憶はなかった。
対する女性は、進の言葉を聞いて不思議と首を傾げていた。
「おや? 進君は私の事、聞いてないのか?」
「え、誰に……ですか?」
「君の父親、白川勇輝さんから。メールでその旨を伝えてもらっているはずなんだが」
「メール……あっ!?」
その言葉で、進の脳裏に、昨夜の出来事が思い浮かぶ。
崖から飛び降りる直前に来た父親からのメールには、間違えて怪しい宗教団体の場所を送った事を謝罪する文面意外に、まだ読んでいない続きがあった。
読もうにも携帯は壊れてしまったので、すっかり失念していたのだ。
進がその事を伝えると、女性は思わず吹き出した。
「クッ……すまない。そうか、あの人のおっちょこちょいな所は相変わらずなんだな。それに付き合わされる進君も災難だったな。それにしても……クックッ……」
女性は進の災難がよっぽど面白かったのか、お腹を押さえて声を殺して笑い続けた。
女性は一頻り笑った後、進に笑顔で手を差し出す。
「それじゃあ、改めて自己紹介しようか。私は勇輝さん……君の父親の古い友人で、御神楽優貴という。余り名字で呼ばれるのは好きじゃないので、呼ぶ時は名前の方で呼んでくれ。メールを見てないのは残念だが、君たち兄妹の事を任された者だ」
そう言って女性、優貴は懐から名刺を取り出すと、進に渡してくれる。
名刺には『有限会社、御神楽クリーンサービス社長、御神楽優貴』とあった。
社長という肩書きを確認した途端、進の背筋が思わず伸びる。
「みかぐら……じゃなくて、優貴さんって会社の社長なんですね。どうして優貴さんみたいな人が、ウチの親父なんかと知り合いなんですか?」
正義の冒険家という、社会に全く適合していない父親と、会社の社長という、社会の中心でしっかりと生きている優貴との接点がまるでわからなかった。
「接点と言っても大したことではない。私と勇輝さんは同じ院の出身なんだ」
「院? ってまさか、しょうね……あだっ!」
進が全てを言う前に、優貴の鉄拳が進の顔にクリーンヒットする。
「……君は失礼な奴だな」
「ず、ずみません。冗談です。親父が居たっていう孤児院の事ですよね?」
進は殴られた衝撃で出て来た鼻血を押さえ、頭下げながら必死に弁明した。
対する優貴は、ハンカチで拳に付いた血を拭きながら、鼻を「フン」と鳴らす。
「何だ、知っていたのか。だったら最初からそう言いたまえ。私はそういう冗談が余り好みではないのだ」
「わがりまじた。肝に銘じます」
優貴に冗談は言わないようにしよう。そう心に決める進であった。
「じゃあ、親父が優貴さんに俺たちの事を?」
「そうだ。他ならぬ勇輝さんの頼みだからな。だからここの治療費の払いや、今後の生活については安心して欲しい」
「え……ほ、本当ですか?」
「ああ、勇輝さんは私にとっては家族、兄も同然の人だった。その息子である進君も、私にとっては家族みたいなものさ。それに、あの人にはいくら感謝してもしきれない恩がある。それが少しでも返せるなら、私としては本望だ」
進の父親を心から敬愛しているのか、優しげな笑みを浮かべる優貴を見て、進は驚きを隠せなかった。
進には、父親との思い出は碌なものがなかったからだ。
本当に、本当に小さい頃は、正義の味方を名乗る父親に憧れたものだ。
しかし、正義の味方の特訓と称して連れられた先で、進は数々の地獄を体験した。
獅子は千尋の谷に我が子を落とす。そんな言葉を鵜呑みにした父親によって本当に谷に落とされて大怪我を負った。かと思えば「世界で生き残る為には、サバイバル技術が必須」と言って進を樹海に置き去りにした事もあった。あの時は、その辺の草や、見た事もないキノコ、芋虫なんかを食べて救助隊が来るまでの一週間を生き延びた。
その他にも、進を正義の冒険家にしようという画策する父親によって、進はありとあらゆる特訓という名の責め苦を味合わされた。
そのお陰で、進は同年代の男子よりは丈夫な体と、普通に暮らしていく上では無駄な知識を豊富に手に入れたが、そのように育ててくれた父親に全く感謝はしていなかった。
だが、今日は生まれて初めて父親に感謝してもいいと思った。
父親が優貴に何をしたのかはわからないが、その尽力によって歩の治療費と、これから暫くの生活を補助してくれる人が現れたのだ。
「ん? 私の顔に何かついているか?」
優貴の顔をジッと見ていた所為か、優貴が小首を傾げる。
進は異国の地で、借金取りから逃げているであろう父親に小さく感謝しつつ、優貴に向かって深々と頭を下げる。
「いえ、何でもないです。それと、これからよろしくお願いします」
「うむ。では、そろそろ行こうか」
「は、はい。でも何処へ?」
「いつまでもここにいるわけにもいかないからな。今日から君が暮らす家に案内しよう」
優貴は車のキーを取り出すと、指でクルリと回してニッコリと微笑んだ。
「はい……あの、やっぱり車で、ですか?」
「そうだが、何か?」
「い、いえ……なんでもないです」
また、あの無茶な運転につき合わされるのか。
そう思うと、進は体から嫌な汗が溢れてくるのを自覚した。
そして、今更ながら偉丈夫が「無事を祈る」と言った意味がわかった気がした。




