第七十五話:魅魔の祖 VS 食いしん坊聖女! 色欲お姉さん、まさかの敗北
(場所:深淵診療所・社員寮/ジャンヌの寝室)
リンが暴食魔王を“就職”させた頃、第二戦場も静かに火を噴いていた。色欲の魔王・リリス。サキュバス一族の始祖にして、地獄で最も妖艶な存在。彼女は桃色の霧へ姿を変え、元聖女ジャンヌのベッド脇へ侵入する。
計画は完璧だった。深淵の“イメージ大使”を堕落させ、不適切な映像を《幻鏡》へ流し、リンの世論基盤を粉砕する。
「可愛い子。長い夜、寂しくない?」
リリスは艶やかに笑い、天賦の神通――【神級・魅惑夢境】を起動した。桃色の霧が一瞬で部屋を吞み込む。ジャンヌは朦朧と目を開け、気づけば豪奢な酒池肉林の真ん中。周囲には、造形美そのものの裸身の男たち、八つに割れた腹筋のエルフ美男子、野性味あふれる獣人の猛者――視線が絡み、誘惑が迫る。
「さあ……欲望を解放して……」
リリスの声が耳元で甘く囁いた。――だが。
ジャンヌは頬を赤らめない。鼓動も乱れない。代わりに、口元の涎を拭い、目を輝かせて、最も近い筋肉猛者を凝視した。リリスの心が跳ねる。
(かかった! 禁欲の反動は派手よ――!)
ジャンヌは手を伸ばし、猛者の上腕二頭筋をむにっと摘む。そして天真爛漫に、リリスへ向き直った。
「ねえ、お姉さん」
「この大理石みたいな筋繊維……」
「最高級の霜降り和牛(Wagyu Beef)みたいじゃない?」
「薄切りにして、すき焼きに三秒くぐらせて、無菌卵にくぐらせて……じゅる……」
空気が凍った。幻の猛者が、ひび割れた。リリスの精神も、ひび割れた。
「……ぎゅ、牛肉?」
リリスは信じられないという顔で叫ぶ。「見えないの!? これは男よ! 雄のフェロモンよ! 欲望よ!!」
「分かってるよ?」
ジャンヌは枕の下から、携帯用のナイフとフォークを取り出した。目が“屠殺人”みたいに鋭い。
「でも……絶対、角煮にも似てる……」
「ほら、あのエルフの肌、湯引きした白斬鶏みたいだし……」
「あの獣人、丸焼きの羊みたい……」
“最強の食いしん坊”の眼では、万物が料理になる。男? 歩くタンパク質でしかない。色欲 VS 食欲。食欲の圧勝。
「やめて! あなた頭おかしい!! 近寄らないで!!」
ジャンヌが、(見た目が巨大な苺ケーキに見える)リリスへ、ナイフとフォークを構えて突進した瞬間。リリスは崩壊し、悲鳴とともに幻境を解除した。地獄の女王が、鍋一つに負けたのだ。
その時、寝室の扉が開いた。ドア枠にもたれたリンが、人生を見失って壁際に縮こまる魔王を見下ろす。
「診断結果:【演技性パーソナリティ障害(Histrionic Personality Disorder)】」
「リリス。君が人を狂ったように誘惑するのは、色欲が強いからじゃない。――不安が強いからだ。他者の執着によってしか、自分の存在価値を確認できない」
リンは窓の外、広場で機械ダンスを練習する“珪基工会(量産機娘)”の列を指した。
「君は観客が欲しいんだろ。なら――ダンス講師になれ。彼女たちには性欲がない。あるのは、純粋な崇拝と模倣だけ。君の動きを、ひたすら真似る。――それが君の“依存”を治し、彼女たちには“色気”を教える」




